金の糸
悠鶴
第1話
俺は、燃え盛る光の中で、独りだった。
懐かしい草の青臭さを、俺は今でも憶えている。凪いだ風と、皐月の夕暮れ、乗り捨てた自転車の感触は、今でも忘れ去ることが出来ない。
俺の所属していた私立柳坂高校の近くの土手の傍に、大輪のシロツメクサが毎春咲き誇る安っぽい草地が在った。俺は幾度となくそこへ通った。俺が足繁く通うのは、そこと学校の図書室ぐらいであった。
夢の中に忍び寄るかの如く現れ、翌朝には霧散していくのは、何もこの草地の景色だけではない。
緑の黒髪が長いストロークを描いて、いつも寝転がっている俺の視界を奪う。じりじりと焼け付く日差しが遮られて、束の間の涼しさを感じた。爽やかな石鹸の香りをした制汗剤の匂いを漂わせて、アイツは笑う。口を三日月のようにして笑う。黒く覆われた中に小さな顔がすっぽりと収まっていて、やけに華奢に感じさせながらも、その笑顔は太陽のように思われた。アイツによって隠された太陽の光は、本当はアイツのものだったのだ。溜息を吐くと、俺は腕を引っ張られてゆるりと立ち上がった。
大きな欠伸をすると、世界が、広がる草地がぼやけてぐらぐらと揺れたが、すぐまたピントが合って元通りになった。俺はアイツに腕を引かれた儘、放課後の青臭い春を駆けていった。
アイツとは、いつもこうして過ごしていた。孤立しがちな俺を、そのやや強引な性格で引っ張り上げ、何とかして地上に留めておこうとしたのは、俺の身辺では只一人きりだった。周囲から遠巻きにされた俺の性情を、唯一人間の所有物として認め、更には愛してくれたのはアイツしか居なかった。
そうだ、俺にはアイツが――。
けたたましい爆音が、鼓膜を突き破った。
乾燥した瞼を擦って、喧しいアラームを止める。時計上部に在るボタンを押せば、先刻迄の警報じみた音はまるで嘘であったかのように、すっかりと押し黙ってしまった。時刻を確認すれば、午前七時半。心地の良い目覚めとはいかないが、及第点か、と肩を回して伸びをした。
黒く安っぽいスチールタイプのベッドに腰掛け、先程の夢を顧みる。体重で灰色のマットレスが沈んだ。
アイツ――美智子とは、高校時代、恋仲であった。確か、二年程で別れたような気がする。長い髪が綺麗な、快活な少女だった。スポーツが得意でバスケットボール部に所属していた。クラスでは委員長の席に就いており、「いい女だよ、あいつは」と男子生徒が口々に漏らすのを、教室の隅でぼんやりと眺めていた。
俺には勿体ない、と幾度となく思った。哀しい
しかし、そんな俺を放っておかなかったのはアイツの方だった。どうやったかは知らないが、俺が雲隠れしてしまっても直ぐに見つけて手を取り、共に草花の上に寝転んだ。街頭の桜並木がぼんやりと視認出来る麗かな日でも、照り付ける陽光が熱く眩しくてアイツの清涼な香りが際立つ日でも、真紅の枯れ葉で土手がいっぱいになる日でも、乾いた空気が肌を切り裂いて指先の感覚が直ぐなくなってしまう日でも、アイツは俺が気付いて逃げてしまう前に俺を見つけた。そして文句や小言の一つも言うことはなく、いつまでも寄り添った。
あの頃の俺は幸せだったのだろうか。アイツも幸せだったのだろうか。今更になって思案してみても、答えは出せなかった。俺は学生時代至極真面目で、というよりは、面倒事を避けていただけかもしれないが、学校の課題や提出物は期日迄に必ず提出していた。しかし、アイツの事に関しては、長い
それをいつまでも抱え込んでいる事に、嫌気が差していた。抱え込んでいない訳などなかった。それは至極明らかだった。俺は、卒業式の日にアイツから「決別」というたった二文字の言葉を言い渡された。そして、何故か大学への進学を拒絶してしまったのである。それも日本で一番の名門国立大を。それから今年で四年目で、本来なら俺は大学四年、来年は社会人となる筈だった。大学への進学を止めてしまったことに後悔をしていない訳ではない。それでも、今から受験し直す事を考えると、仮に百パーセント合格出来るとしても、気分が重くなった。親が話を持ち掛けても、乗り気ではなかった。大学が嫌いではなかったが、アイツのように芯が強くて穏やかそうな女生徒が談笑しているのを見ると、もう駄目だった。そういった意味では、大学が嫌いとも言えるのかもしれない。
これ程迄にその後の人生を狂わせてしまった、アイツとの別れは一体どうして訪れてしまったのだろうか。これもまた、分からないことだった。言い渡された別れは、余りにも突然で、強烈で、うんともすんとも言わない内にアイツは走り去ってしまった。そして、それから会うことがなかった。
馬鹿馬鹿しい。自分でもそう思う。はあ、と溜息をついたところで
――だって俺をこうしたのは、アイツじゃないか。
都合の良い責任転嫁だと理解していた。それでも諦めきれなかった。何が、アイツが、 アイツとの思い出が、アイツといたことで保っていた自尊心が。どれがかは分からなかった。けれどもフラストレーションは回り回って、もしアイツとふと再会するようなことが在れば、俺はアイツを殴りかねなかった。俺は夢想する。殴った時に感じる拳の感触を。柔らかい肌の感触を。飛び散るであろう血の赤を。温度を。けれど、それは非現実的で、何の根拠もなく信じ切っていた「アイツと会わない」という現実は高い壁となった。
嗚呼、今日もなんでもない一日を浪費していく。そう思うと目の前が明滅して、その儘項垂れた。それは毎日感じる絶望だった。習慣的な絶望だった。
「正太郎! 早く起きなさい! 今日は駅にお使いに行ってもらおうと思ってるんだから!」
母親の怒号が瞬間耳を貫いた。
深く潜っていた意識を閉じて、ベッドから立ち上がった。黒のスマートフォンから繋いでいた充電器のコードを外し、画面を付ける。時刻は八時を過ぎていた。
「分かってるってば。起きてるよ」
そう母親にいい加減な返事を返すと、スマートフォンを持って部屋のドアノブを捻る。勢いよくドアを開けた弾みで、傍にあったスチールパイプの棚が悲鳴を上げた。
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