薫る

イツミキトテカ

薫る

「ふぁあ~」


 よく晴れた空の下、眠い目を擦りながら大きな欠伸をした私は、いつもの通学路をとことこと歩いていた。


 私はめっぽう朝に弱い。


 すぐ目の前の踏切の信号が赤く点滅を始め、遮断機がもうすぐ降りることを知らせる。通勤通学と思われる老若男女が駆け足で目の前の踏切を渡っていった。


 私はもちろん手前で止まる。朝から走る元気は無い。踏切越しの朝日に目を細め、曲がっていたシャツの襟を直し、遮断機の前でぼーっと立っていると、風とともに2両編成の電車がガタガタと猛スピードで走り抜けていった。相変わらず朝から元気だ。感心、感心。


 遮断機が上がると同時に私もまた歩き始める。その時、どこからともなく線香の焚かれた薫りがふっと漂ってきた。歩きながらきょろきょろ回りを見渡すと、道路を挟んで反対側、踏切の脇に新しい花束と線香が添えられている。


 誰か亡くなったのかな…。


 一瞬そう思ったものの、朝に弱い私はしばらくすると、いつも通り頭空っぽで学校へ向かって歩いていた。


 ◇◇◇


 その日のお昼時間、いつもの仲良し3人組でお弁当を食べていると、ポニーテールのマキが突然声を潜めて話し出した。


「昨日の踏切事故。あれ高校生の自殺だったらしいよ?」


 ベリーショートのリコがちょうどミートボールに手を伸ばしていたが、マキの話に眉を潜め、まだ残っているお弁当に蓋をした。この話題は食欲減退効果が抜群だ。リコは小さくため息をついた。


「あれ自殺だったんだ。ニュースになってたよね。そういえばあの踏切、アンズちゃんとこの近くじゃなかった?」


 リコに聞かれて、踏切事故のニュースを知らなかった私は、今朝見た光景と今の話がようやく繋がった。


「あー。確かに今朝踏切のところに花とお線香があったよ」


 情報通のマキの話によると、近くにあるクロユリ高校の男子生徒が彼女の二股を苦にあの踏切で飛び込み自殺をしたらしいとのことだった。年は私たちと同じ高校3年生。二股されていたのは可哀想だが、人生これから、生きていれば良いことがたくさんあっただろうに、と思うとなんだかやるせない。


 お昼時間の終わりを告げるチャイムが高らかに鳴り、私たちは湿っぽい空気のまま自分の席に戻っていった。


 ◇◇◇


 空は一面茜色。私は件の踏切の前にいる。この道が私の通学路なので当たり前だ。行きがあれば帰りがある。


 朝は何とはなしに見ていた線路脇の花束と線香も、昼に詳しい話を聞いた後では趣が変わってくる。線香はすっかり灰になっていた。


 私は線路脇にしゃがみ、その顔も名前も知らない、若くして死ぬことを選んだ同じ年の男の子に手を合わせた。目を閉じ手を合わせたまでは良いが、なんと念じたものか分からず、とりあえず「南無阿弥陀仏」と心の中で繰り返す。彼の宗教は知らない。なんなら我が家の宗教もよく知らないが、私の弔いの気持ちは伝わるだろう。


 電車が警笛を鳴らして踏切を通りすぎていった。と同時に線香特有のどことなく寂しい匂いが薫ってきた。私ははっとして目を開ける。さっきまで灰だった線香が新しくなり白い煙を上げていた。


「えっ?!」


 私は驚いて立ち上がった。立ち上がった拍子に石ころを踏み、バランスを崩してそのまま後ろに倒れそうになる。


「うわぁ!」


 空中を掴もうと虚しく手を伸ばす私の肩を後ろから誰かが支えてくれた。間一髪おかげで倒れずにすんだ。


「わっ!すみませんっ!ありがとうございます!」


 私は支えてくれた人を見ようと首を後ろに捻る。そこにいたのは私と変わらないくらいの年齢と思われる男の人だった。


「…キミ、誰?」


 私の命の恩人(?)は線香と私を交互に見て言った。彼は学生カバンにグレーのブレザーを着ていた。自殺した子と同じ高校の制服だ。友達だったのだろうか。であれば手を合わせに来たのかもしれない。それは、全く無関係の私がするよりも至極自然な行為に思われた。少し気まずさを感じた私は言い訳がましく早口で捲し立てた。


「私、家がこの近所でいつもこの道を通ってて。今朝この花と線香どうしたのかなって思ってたら、同じ年の男の子が昨日自殺したって聞いて。まだ若いのにって思ったら少しやるせなくて。それで…」


 私は一息に言い切り、上目遣いで恐る恐る彼の反応を確認した。長めの前髪から覗く黒目勝ちの目が少し微笑んだ気がした。不信感は抱かれていないようだと思い、私はほっと胸を撫で下ろす。


「キミは優しいんだね。見ず知らずの人間だろ?」


 彼はそう言いながら目線で、歩こう、と促した。どうやら帰る方向が同じようだ。今まで見かけたことはない顔だけれど、私は普段それほど周りの人を見ていないから、きっと今まで気がつかなかっただけなのだろう。踏切を越え、並んで歩きながら無言に耐えられず私は勇気を出して隣の彼に話しかけた。


「その…亡くなった子とは仲が良かったんですか?」


 既に後方にある線路に少し視線を向けながら問う。彼もつられて視線を向け、あぁ、と頷いた。


「アイツのことは良く知っている」


「生きていればこれから楽しいことあったかも知れないのに…」


「死んだ方がマシな思いをしたんだろ」


 どこか苛立ちを含んだ物言いに、私は何も知らない自分が言うべきことではなかったと反省した。友達の死について、彼は私以上に思うことがあるはずだ。居たたまれない気持ちを持て余しているうちに、いつの間にか私の家へと向かう小道への曲がり角まで来ていた。


「あっ、うち、こっちなんだ」


 私が指差す方向とは逆を指しながら彼は、


「ボクはこっち」


 と言い、更に、


「キミ、名前は?」


 と聞いてきた。私は軽く微笑んで答える。


「アンズ。朝倉アンズ。…あなたは?」


「桂樹ケンゴ。アンズちゃん…またね…」


 ケンゴと名乗るその高校生と別れた後、私は家に帰りつき、部屋着のスウェットに着替えようと自分の部屋へ向かった。シャツを脱ぎながらあることに気が付く。


 この匂い…


 シャツには線香の薫りがしっかりと染み付いていた。


 ◇◇◇


 その日以来、私とケンゴはあの踏切でよく出会った。不思議と朝は出会わない。会うのは決まって夕方、帰り道だった。


 踏切から私の家へと向かう小道への曲がり角まで、短い距離だが私たちは他愛のない話をして一緒に帰った。と言っても話すのはほとんど私だ。ケンゴはいつも黙って私の話に耳を傾けている。ケンゴは女の私より色白で、長い前髪に隠れた伏し目がちの瞳が儚さを感じさせ、私はなんだか彼をほっとけない。線も細くて私の一方的なおしゃべりの圧で飛んでいってしまうのではないかと思うぐらいだ。


 今日も少し喋りすぎた私は隣を静かに歩くケンゴの様子をちらっと覗き見た。


「ケンゴくん聞き上手だからついつい喋っちゃった。ごめんね。大丈夫だった?」


 ケンゴは目を細めて微笑んだ。


「いつも楽しいよ」


「ケンゴくんって優しいよねー。モテるでしょ?」


 ケンゴはきれいに整った顔をしている。そのうえ優しければさぞモテるだろう。さて、どんな返事が戻ってくるかな?


「いろんな人から好かれたとしてもボクは同時に2人を好きにならない」


 普段からは想像のつかないケンゴの怒りのこもった言い方に、私は驚き、そしてすぐに、あぁそうだった、と思い出した。


「あのお友達、彼女に二股かけられてたんだっけ…。嫌なこと思い出させてごめん…」


 踏切で自殺した彼は彼女の二股を苦に亡くなったのだった。謝る私にケンゴははっと冷静さを取り戻し、逆に私に謝ってきた。


「こっちこそ急に大きな声出してごめん。アンズちゃんは関係ないのに。でも、どうしても許せなくて」


「そうだよね。私も二股をかける人の気持ち全っ然分からない。どれだけ人の心を傷付けるか想像できないのかな」


 いつの間にか私の方が怒っていた。その様子を見てケンゴが少し吹き出した。


「アンズちゃんが彼女だったら良かったのに…」


 そんなことを言われるとなんだかちょっとドキッとする。あれ、でも、ちょっと待てよ?ケンゴの彼女ではなく、踏切の子の彼女だったらってこと?


 理解力が追い付かず1人頭を捻る私にケンゴは笑って言った。


「アンズちゃんまで怒ってくれて嬉しいよ。でも安心して。罰ってあたるんだよ」


 ケンゴは笑っている、否、嗤っている。その虚ろな表情に私は背筋が一瞬寒くなった。だから、別れの曲がり角が目の前に見えたときにはほっとしてしまった。


 いつの間にか気にならなくなっていた線香の薫りがこの日は一段と強く染み付いてなかなか消えなかった。


 ◇◇◇


「ビッグニュースっ!!」


 マキがポニーテールを激しく揺らしながら大声とともに机を叩いた。机に置いた私のお弁当が少し浮き上がった。リコが、なになに?とマキを促す。マキは先程とはうってかわってとんでもなく小声になったので私とリコはマキに顔を近付けた。


「この前の飛び込み自殺の続報なんだけどね」


 マキのヒソヒソ話に私は昨日のケンゴとのやり取りを思いだし、胸がずんと重くなった。マキは続ける。


「自殺した子の二股してた彼女、後追い自殺したんだって」


「えっ!?」


 私は思わず叫んだ。


 ―罰ってあたるんだよ―


 昨日のケンゴの言葉が頭をよぎる。リコが眉をひそめて尋ねた。


「マキちゃんの情報網相変わらず凄まじいね。後追い自殺って何でまた」


 マキは携帯を確認する。そこに情報提供者からの情報が入っているのだろう。マキはコホンと小さく咳払いをした。


「なんか周りから責められたりしてたみたいよ。自分のせいじゃないってそっけない感じだったらしいけど、やっぱり気にしてたんじゃない?トラックの前に飛び出したんだって」


 私は1つの疑問を口にする。


「それって…本当に自殺なの…?」


「見晴らしの良い道路で直進してるトラックの前に飛び出したらしいからね…って、アンズちゃん顔色悪い。どうしたの?」


 ―罰ってあたるんだよ―


 その言葉が頭から離れない。私はそれから体調が優れず午後から早退することになった。


 ◇◇◇


 太陽がまだ空の高い位置で燦々と地上を照らしている。昼に体調を崩してからしばらく保健室で休み、そのまま今日は家に帰るように言われた。こんなに早い時間から家へ帰るのは不思議な気分だ。


 だけど、私は正直少しほっとしていた。この時間ならケンゴには会わないだろう。ケンゴと一緒に帰ることが、いつしか私の楽しみになっていたが、今日は流石に会いたい気分ではなかった。


 もうすぐ、いつものあの踏切だ。線路脇の花も線香も今日は視界に入れたくなくて、遠くを見ながら踏切に向かっていく。その時、


「アンズちゃん」


 名前を呼ばれて振り向いた先に見知った顔があった。


「ナツメ兄《にぃ》!」


 ナツメ兄は昔から近所に住む大学生だ。小さい頃はよく一緒に遊んでもらったものだ。最近会えていなかった懐かしい人物との再会に顔が自然と綻ぶ。ナツメ兄は自転車から降りて私と並んで歩き出した。


「大学生ってこんな時間から家に帰れるの?良いなぁ」


「今日は1、2限しか取ってなかったんだよ。大学生は自分で時間割をカスタマイズできるの!アンズちゃんこそこんな時間に、不良少女?」


「体調悪くて早退したんだー」


「そうなんだ?えっと、大丈夫?」


「うん、もう大丈夫」


 ナツメ兄との久しぶりの会話に夢中だったので、自然とあの踏切を通りすぎていた。後ろから遮断機が降りる警報音が聞こえてきた。


 ―そして、嗅ぎ慣れた線香の薫りがふっと漂ってくる。

 私は思わず線路の方へ振り向いた。


 線路脇の花と線香がいつも添えられているあたりで一瞬黒い人影がこちらを見ていた…気がした。その影は、警笛を鳴らして走る電車に隠れてすぐに見えなくなる。電車が通りすぎた後そこには何も無かった。あるのは線香の棚引く白い煙のみ…。


「どうした?」


 呆然と佇む私にナツメ兄が心配そうに声をかけた。


「何でもない!」


 そう言って、少し先を行くナツメ兄に走って追い付く。


 きっと気のせいに違いない。きっと人影なんて私は見てない。だって電車が通りすぎた後誰も居なかったじゃないか。もはや何も考えたくない。なのに。なのに、線香の薫りがいつまでも私に付きまとい、あの刹那の光景を忘れさせてくれなかった。


 ◇◇◇


 空は一面茜色。学校を早退した次の日の帰り道、私はいつもの踏切に向かって走っていた。赤いランプの点滅が遮断機がもうすぐ降りることを無情にも知らせる。全速力で走ったが間に合わなかった。


 ここで止まりたくなかったな…。


 私はやっぱり今日もケンゴには会いたくない。息を切らし視線を落とした先に線路脇の花と線香をつい見てしまった。


 花は枯れ下を向き、線香は灰になっている。その光景を見て、ここには最近誰も来ていないのでは?となぜだか思った。でもそんなはずは無い。ここを通ると線香がいつだって薫るじゃないか。そうだよ、あり得ない。我ながら馬鹿らしいことを思ったなと私は思わず吹き出してしまった。


「何がそんなにおかしい?」


 耳元でケンゴの声がして私は思わず飛びすさった。振り向いたがケンゴの姿はない。私と同じように電車が通る過ぎるのを待つ人がまばらに立っているだけだ。


 心臓が異常な速さで鼓動を打ち出す。冷や汗がどっと吹き出した。落ち着こうと胸に手を当てる。その時、


「昨日の男、誰?」


 耳元でまたケンゴの声がしたかと思うと、突然痛いほどの力で腕を掴まれ、遮断機の閉まった踏切に私は体ごと投げ込まれた。


「キャー!!」


 頭上からは警報音が、前方からは警笛を鳴らした電車が迫ってくる。私は急いで立ち上がり逃げようとするが、何かに強く足を引っ張られ立ち上がれない。


「…いや、嫌っ!!」


 電車が警笛を激しく鳴らしながら私に迫ってくる。ブレーキをかける音も聞こえたが今から間に合うとは思えない。


 ―もう駄目だ。


 諦めかけた私を誰かが乱暴に抱え線路の外に転がり避けた。ほんのさっきまで私が居た場所を電車が猛スピードで通過していく。脱げた右の靴がぐちゃぐちゃになって線路脇に転がっていた。


「大丈夫っ?!」


 遮断機が上がり、私の後ろで電車を待っていたおばさんが青ざめた顔で駆けつけた。私を助けてくれたサラリーマンのお兄さんも心配そうに私の顔を覗きこむ。電車は少し先でようやく止まった。


 私は震える自分の体を抱き締めた。震えは抑えられず歯の根も合わない。


「ケンゴくんに強く引っ張られて…それで…」


 おばさんとサラリーマンは怪訝な表情で顔を見合わせた。おばさんが可哀想なものを見るように言った。


「あなたの側には誰も居なかったわよ」


 私は目を見開き、向かいの線路脇に視線を移す。ケンゴは居なかった。あるのは線香の白い煙のみ…。そして、私の手足には人の手形がくっきりと残っていた。


 ◇◇◇


 あれから私は通学路を変えた。かなり遠回りになったが踏切を渡るよりましだ。それ以来ケンゴとは1度も会っていない。


 ただ時折、ふとした瞬間に線香が後ろから薫ってくることがある。





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