第82話 帰らない二人

 そのとき正田紗英の母親がサッと駆け寄ってきて、圭の足元にしゃがみこみ、左膝にそっと手を載せて言った。

「ごめんなさい。私がどうしても今日、あなたに会いたいってお父様にお願いしたの。本当はもっと少しずつ時間をかけてあなたに話をしなければならなかったのに……。私が焦ったばかりに、いきなりでごめんなさい」

 ——違う。焦ったのは、俺だ。

 圭司はそれが言葉にできなかった。紗英の母親はすぐに機転を効かせてくれたのに——


 フッと圭司の口を強く押さえていた圭の左手が緩んだ。そしてゆっくりと紗英の母に視線を移した。いく筋もの涙の跡が頬を伝っていた。

「違う……の」震える唇から、か細い声。「違うの。そうじゃない」

 そう言って圭は自分の膝に置かれた紗英の母、自分の祖母の手に自分の手を添えた。

「最初はびっくりしたけど……、本当のママがもういないのはとても悲しいけど、でも自分がどこから来たのかわかったことは、すごくうれしかった。私のおばあちゃんに会えたことも、本当はうれしくて……うれしくて。でも」

 圭は紗英の母を掴んだ手をもう一度握り直した。そして再び圭司の方を振り向いた。

「その人のことは、本当に聞きたくないの。だって、その先にどんなことがあったとしても、それがどんな人で誰だったとしてもね——」圭は空いた右手で涙を拭う。「私にとってのパパは圭司だけ。他の人は違うの。だからそれ以上聞きたくない! だから二度と言わないで」

 思いもかけない理由だ。これは喜んでいいのかわからない。圭の思わぬ言葉に圭司がすぐに返事ができずチラッとステラを見ると、ステラも驚いたような顔で小さく数回頷いた。そして紗英の母も圭に気づかれないように肩を窄めた。

 もしかして、このまま黙っていた方がいいのか——


 しばらくして、圭の気持ちも落ち着いてきたところを見計らい、とりあえずアメリカに帰って遺伝子検査をして、確かな結果が出たらあらためて知らせることを紗英の母と約束し、圭の夕方からのスケジュールの都合もありその日はそれで別れた。


 夕方、圭太が迎えに来て圭が仕事に東京へ行った後、圭司は帰ってきた史江に今日あったことを話した。

「じゃあ、圭は自分の父親は知らなくていいってことか」ふーんという顔で史江が考えている。「知っちゃったら、圭はどう反応するのかな?」

「わからないけど、もうこのままの方がいいのかな。とりあえずは圭が思ったよりはショックが少なそうでよかったよ。今日、仕事に行けなかったらって、それが一番心配だったけどね」

 そうそう、出かける時にはもう笑ってステラと話してた。

「いいじゃん。それにパパはあんただけだって言われたんでしょ? 素直に喜んだら?」と気やすげに史江が言う。「ああでも、あんたが父親だってわかった途端に、逆に嫌われちゃうかもしれないんだよねえ。どーするよ」

 クスクスッと史江が他人事だと思って笑っている。

「いや、フーミン。気楽に笑わないでくれよ。こっちはどうしたもんかとさっきから悩んでるんだからさ」

「しょうがないでしょうよ。元はと言えば、あんたが日本でしでかした事の後始末なんだから。男の責任ってこういうときに使う言葉でしょ」

「そりゃそうだけどさ」

 少々膨れっ面の圭司を見て、隣でステラが大笑いしながら、

「まあ、圭が帰ってきたらあらためてちゃんと最初から話してあげたらいいんじゃない」

と助け舟を出してくれた。

「ああ、そうだね。今日は何時ごろ帰ってくるんだったっけ」

 チラリと柱の時計を見る。

「十時には帰ってくるかな。明日は一日中だけどね」と史江が答えた。

 だがその日、十一時を回っても圭は帰ってこなかった。


 結局、圭太の車が門の前に着いたのは、もう十二時を回っていた。

 パタパタと走ってくる足音。玄関の中で圭司が待っていると、玄関のドアが開いて圭が入ってくる。

「お帰り。遅かったね」と圭司が声を掛けた。

「ごめん、明日早いからお風呂入って寝なきゃ」

 圭はにこやかにそれだけ言うと走って階段を上って行き、着替えを手にしてお風呂へ向かっていった。いつもは今日は何があったか、圭司とステラに話し終わるまではお風呂さえも入ろうとしなかったのに、肩透かしをくった形だ。

 気がつくと玄関の前に圭太が立っていた。

「遅くまでありがとな」

 遅いじゃないか。何してたんだ——

 そう言いたいことをグッと堪えて圭司が言うと、圭が風呂に入ったの後ろ姿を確認するように気にしながら圭太は一歩家に入ってきて、

「あの——。圭は何かあったんですか」

と小声で圭太が言った。

「何かって、何が?」と圭司。

「いや、埠頭に行きたいって言うから、本牧にちょっと寄ってたんです。なんか様子が変だなと思って」

「本牧? だからって、高校生をこんな時間までか」

 少しイラッとする。

「すみません。でも、どうしても歌いたいって——言うから」

「歌いたい? 何を」

 つい強く言ってしまう。

「——マザー」

 少し躊躇ってから、圭太が言った。


 両親から見捨てられたジョン・レノンがその思いを歌った曲。アメリカでは歌詞が過激だとして発売禁止となった。

 そして、圭司もこの曲だけは圭に聞かれないように、持っていたカセットは捨てたはずだ。圭はいったいどこで覚えたんだ——

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