第81話 塞いだ手

 墓碑に花を置いた圭司が立ち上がると遠くから老婦人がこちらに来るのが見えた。同じように大きな花束を胸に抱いている。正田紗英の母親だった。

 そういえば、紗英は常々自分は父親似だと言っていたことを思い出した。だがこうして遠目から見ると、紗英はやはり母親に似てると思う。彼女が生きていれば、きっと全力で否定されるだろうが。

 圭司の視線を見て、圭も老婦人に気がついたらしい。圭司とステラの間に立って同じようにジッと見ていた。

 紗英の母親は、視線を逸らさずにまっすぐに通路を歩いてきた。もう圭の姿ははっきりと捉えることができているはずだ。家を出る前に「見納めだから」と言って圭にはあえて聖華学園の制服を着させている。紗英のいた頃とまったく変わらない制服を着た圭は母親にはどう写っているだろうとまずは気になった。


 紗英の墓碑まで数歩というところまで来て、見た目にもわかるほどハッと息を飲むような表情になって紗英の母親が立ち止まった。圭を見て明らかに顔色が変わり、唇が震え、やがてその頬を涙が伝い始めたのだ。もう彼女には圭のことを知らぬふりをすることなど、どうやらできそうもないことを圭司は悟った。

 自分を見ていることを圭もはっきりとわかったようだ。紗英の母親から圭司に視線を移して、それから「ねえ、知ってる人?」と小声で囁いた。

 ほんの一瞬の間に、いろいろなことが圭司の頭を駆け巡る。今の質問にどう答えたらいい——


「圭——」

 そこで言葉に詰まった。わかってるんだ。確実になってからじゃなきゃ話してはいけないことは。もし、もしそれが違ったら、圭は余計に辛くなる。だから今は話してはいけないんだ。

「あの方は君のおばあちゃんだ」

 考えてみれば、紗英の母親にも最初はまだ話さないつもりだった。

「そして、このお墓の下に君のお母さんが眠っている」

 でも、どんな科学的な検査より俺の感が、全ての状況が、神様がその答えに導いてる。間違いないと——


 圭は返事もできずに、紗英の母親とすぐ足元にあるたった今花束を添えられた墓碑を目で交互に追いながら、ただ呆然と立っていた。このままだと倒れかねないと思ったのだろう、ステラがすぐに圭に寄り添った。

「高梨さん、あなたまだ言わないと——」

 やっと紗英の母親が慌てて近づいてきて、そう約束したはず——と言いたげな顔でやっと涙声で口を開いた。

「はい、そのつもりでした。ですが……」圭司はグッと唇を噛み締めた。「これ以上引き伸ばしても、お互いに、特にあなたにはかえって辛くなると——思いまして」

 そういうと圭司は圭の肩にそっと手をかけた。

「とりあえず、あそこへ座ろうか」

 そう言って少し離れたところにあるベンチを指差した。圭はまだ頭の中が整理できていない様子で圭司に導かれるままフラフラと歩いていた。ステラが反対側の腕をそっと支えてくれた。


 東京湾がよく見える場所の芝の上に、横に並んで三人掛けのベンチが二つ据え付けてあった。公園などによくある木製で背もたれがついたタイプだ。その真ん中に圭を座らせステラと圭司が両脇に座った。紗英の母親はもう一つ隣のベンチに腰掛けた。

「正直にいうと、まだ検査をしてないから確実なわけじゃない。でも、おそらく間違いない。君の名前は正田圭、お母さんの名前は正田紗英さんだ。奇跡みたいなもんだが、圭という俺が漢字で書いた名前は正しかった」

 圭はジッと地面を見ていた。さっきから一言も喋らない。

「君のお母さんは、君を連れてアメリカに渡り、人探しをするために一時的にあのストロベリーハウスへ君を預けた。そう、まだトムとメリンダがいたときだ。探している人が見つかったら、すぐに迎えに行くつもりだったらしい。でも」

 圭司は探している人のことは少しぼやかした。

「君が生まれた年の十二月八日、ニューヨークの地下鉄で銃の乱射事件があり、君のお母さんはそれに巻き込まれて——」胸に込み上げてくるものがあり、そこで言葉に詰まってしまった。すると、ゆるゆると圭が顔を上げて圭司を見た。目に涙がいっぱい溜まっている。

「君のおじいさんとおばあさんが、一生懸命残されたはずの君を探したけど見つからなかった。俺とステラもそうさ。なぜなら、君は正田圭ではなく、高橋圭という名前でストロベリーハウスに預けられていたからだ。いや、正確には違うな。高橋という名前は、メリンダの勘違いだった。そもそも、そこを最初から間違えてたんだ。だから、正田圭という女の子を何年探しても、どこにもいるはずがなかったんだ。いいかい、これだけはわかってくれ。君のお母さんは、探している人が見つかったら、君を迎えに行くはずだった。なぜなら、君を本当に愛していたからだよ」

 一気に圭司はしゃべった。ジッと圭が見据えている。

「それから、お母さんが探していたのは——アメリカに行った君の父親だ。日本で君の父親とお母さんが別れた後にお腹に君がいることがわかった。だから、お母さんは一度だけ君を父親に会わせてあげたいと。そう……思ったみたいだ」

 つい声が小さくなってしまった。もう一度大きく息を吸う。

「だけど君の父親はそんなお母さんの気持ちも知らないで——」

 その瞬間だった。圭から体ごとぶつかるようにベンチの背もたれに押しつけられ、彼女の左手が圭司の口をきつく塞いだ。

「嫌だ。言わないで! そこから先は聞きたくない!」

 目に涙をいっぱい溜めて、凄い剣幕で圭が叫んだ。

「ママのことはわかった。わかったから——それから先は絶対言わないで。聞いたら私、聞いてしまったら私、その人のことを嫌いになるかもしれない! ママが好きだった人を私が嫌いになったら……ママがかわいそう」

 最後は消え入りそうな声となり、海から吹いてくる冬の始まりを告げる冷たい風に流されていった。

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