第76話 十七年前の真実

「今ね、ニューヨークにいるの」

 咲恵——紗英の母——に紗英から電話があったのは十二月二日のことだった。

「ニューヨークって、どこの?」

 あまりに突然のことで、咲恵は頭が整理できなかった。

「やあね、お母さん。アメリカに決まってるでしょ」

と紗英が笑う。

「アメリカって、紗英。赤ちゃんはどうしたの」

「もちろんこっちに一緒に連れてきてるわよ」

「そんな。あなた、生まれたばかりの子を——」

 紗英が子供を産んだのは九月だった。それからまだ二ヶ月しか経ってない。出産後は退院してしばらくは実家にいたが、また元の部屋で一人暮らしをするからと引き留めるのも聞かず出ていったのだ。それが、ニューヨークから突然の電話に咲恵も驚いた。

 もともとこうと決めたらテコでも動かない性格で、一体誰に似たのかとよく夫婦で話していたが、まさかこんなに突拍子もない行動に出るなんて——

「大丈夫よ。ちゃんと育ててるからさ」と紗英はいたって気楽な返事をする。

「当たり前じゃない。何言ってるの。私が言ってるのは、まだ生まれたばかりの赤ちゃんをあちこち連れ回すのはどうなのってことよ。母親になる自覚が足りないんじゃない?」

 ちょっと厳しく言った。

「だって、あの子を圭司に突きつけてやりたいの。あなたの子供ですって。だからこの子がいつあなたに会いたいって言われてもいいように、ちゃんと生きていてくださいって、それだけはどうしても注意してやろうと思ってさ」

 気の強いところは、大人になっても変わらない。

「だからって、紗英。無茶にもほどがあるわ。だいたいあの人ががどこにいるのかわかってるの? アメリカって日本よりずっと広いのよ? そんな国で、彼を見つけるまで子供を連れ回す気?」

「大丈夫よ。こっちでいいところを見つけたから、二週間ほど預かってもらうことにしたの。だから、あとは一人で探して見つかったらあの子を連れて行こうって思ってるのよ」

と咲恵の言葉などまったく意に介さずケロッとしている。

「えっ、どこに預かってもらったの?」

「ふふっ、お母さんに言ってもわかんないわよ。ちゃんとしたところだから」

「だからってねえ、知らないわけにはいかないわ。もしあなたに何かあったら、どこを探せばいいのよ」

「何それ、一体何があるっていうの? 何にもないわよ。相変わらず心配性ね、お母さん。まあ、私に何かあったら、あの人ならいつか気がつくかもねえ。そんな名前の場所よ」

 ふふん、と含み笑いをした。

「じゃあ、行くあてはあるの?」

「まあね。でも、一日でも早く見つけて日本に帰りたいから、まずはどこかのオーディションの会場とかを探してみようって思ってるの。ニューヨークとボストンかな、圭司が行きそうなとこ。どうしてもそこで見つからなくても、十二月八日に絶対行く場所を私知ってるからさ。彼の神様がそこへ行けって指差してくれてるの。だから、大丈夫よ。十日過ぎには日本に帰るつもりだから安心して。あっ、そろそろ時間だから行ってくるね」

 紗英は一気に捲し立てるように言った。

「ちょっと待って! あなた、今どこに泊まってるの」慌てて止める。

「ニューヨークのねえ、北にある小さな街。マンハッタンあたりと違って安いホテルがいっぱいあって、連泊するには正直助かるわ。お金、もったいないしね。じゃあね、また連絡する」

 それだけ言うと、電話はプツンと切れたのだった。


  ⌘


「それが紗英の声を聞いた最後の電話で」

 母親はゆっくりゆっくり思い出すように話した。圭司はじっと俯いたまま聞いていたが手のひらが汗だらけだった。

「十二月九日の朝、警察から電話があって外務省から至急の連絡が入ってるって言われて……。ニューヨークの地下鉄で銃の乱射事件があったって。被害者の中に紗英のパスポートを持った女性が——」思い出したのだろう、目に涙を浮かべていた。

「主人と二人、ニューヨークへ飛行機で向かって、向こうの警察の死体安置場みたいなところへ案内されて。紗英が——眠っていたの。間違いありませんって言うしかなくて」

 圭司は膝の上に置いた両手をギュッと握りしめた。今度は少し長い沈黙があった。

「そのニュースは向こうで聞きました。日本人が犠牲になっていることさえも自分は知らずに」

 顔を上げて、やっとそれだけ言葉にした。母親は涙を拭い、

「本当に、紗英はあなたを訪ねてはこなかったの?」

と圭司の顔を見た。

「はい。その頃自分は安ホテルを転々としてた頃で、ほとんど同じ場所には何日も居ませんでしたから、多分紗英さんも探せなかったと——。でも、ニューヨークやボストンにいるはずというのは間違いなかったと思いますが」

「じゃあ、やっぱり子供の行方は知らないんですね? 紗英があなたならわかる場所へ預けたと言っていたから、もしかしたらあなたが見つけたのではと話してたんです」

「紗英さんがアメリカに来ていたことも知りませんでしたので、それはありません。それにしても、自分ならわかるかもしれない場所とは」

 紗英は何を考えたんだろう。俺が必ず行く場所を神様が指差しているというのは、おそらく間違いなくダコタハウスか、その道路向かいにあるセントラルパーク・ウエストのジョン・レノンを追悼するストロベリー・フィールズという場所のことだろう。そして確かに俺は、あの日電車であそこへ向かった。まるで掌の上を動いているように紗英にはわかっていたのだ。だが、子供を預ける場所とは——

「領事館にお願いして、ニューヨーク市警に子供を探してもらいました。でも結局見つかりませんでした。パスポートは紗英の所持品から出てきたけど、子供はいくら探してもどこにもいなくて……」そこで母親は少し言葉に詰まった。「主人は二年前に癌で亡くなって、最後までずっと子供の行方を気にしてましたが、残念ながら二度と孫の顔を見ることもなく」

 そこで彼女の話は終わった。この家の祭壇にある二つの写真はそういうことだったのだ。

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