第75話 開かれた扉

 木曜日の朝、菊池に不穏な一報が入っていたことを知らないまま、圭司は横浜市内のある家の前にいた。今日は史江と圭は学校へ、ステラは恵が東京を案内するからと圭太が車で東京へ連れて行った。結局、昨夜は圭がお風呂から上がってきたため、あの話は途切れたままだ。ステラが本当は何を言いたかったのか、まだ聞いていなかった。


 玄関の前で圭司はまず「正田」と書かれた表札を確かめて、大きく二回深呼吸をした。もう二十年以上になろうか、正田紗英と付き合っていた頃に一度だけ来たことがある。紗英からはその後に何度も家に食事に誘われたが、向こうの家族がクリスチャンだったせいだろうか、どうも家族揃っての食事や会話にうまく馴染めず、それからはなんだかんだと理由をつけて断っていた。

 あの頃、彼女の家に行くことがなぜあんなに嫌だったのか、今でもうまく言葉にすることができない。向こうの両親は二人ともとても優しく、決して悪い人たちではなかった。むしろ、ちゃんと就職もせずに夢ばかり追いかけている圭司にも優しくしてくれる紗英の家族に、どこか後ろめたさを感じていたのかもしれない。


 人差し指で玄関に取り付けてあるカメラ付きのインターホンを鳴らす。しばらくして「はい」と落ち着いた女性の声で返事があった。

「あの、覚えていらっしゃいますでしょうか。高梨……高梨圭司です」

 緊張で喉がカラカラだった。姿勢を崩さないように気をつけたが、少し声が上ずってしまった。だが、インターホンからは何も返事がなかった。

 ——やっぱり、拒否されたのだろうか

 そう思いながら、しばらく玄関の前で所在なげにじっと待っていると、しばらくして玄関の内側で鍵を開ける音がして、久しぶりに会う紗英の母親がドアを開けた。二十年、いや二十五年以上かも知れない。母親も、そろそろ七十歳ぐらいになるのだろう。顔に刻まれた皺が深くなったと思った。

 彼女には、思ってもいない来客で、慌てて身支度をさせてしまったのかもしれない。ただ、決して昔来た時のようには手放しで歓迎している顔ではなかった。それはここへ来ようと決意した時に覚悟していたことだ。場合によっては父親から殴られても仕方ない。どんな非難も甘んじて受けようと、圭司はそう思っていた。

 だが、「どうぞ」と意に反して紗英の母親は低いトーンで言い、ドアは大きく開かれた。


 リビングのソファに座るよう促され、軽く会釈をして圭司が座ると、母親はキッチンに立ってカチャカチャと何か音を立てていたが、しばらくしてトレイにティーカップを載せて出てきた。それから、そのカップをソーサーに載せ、スティックシュガーとミルク、それにスプーンを添えて圭司の前に静かに置いた。

 そういえば初めてこの家に来たときに最初に出されたのは紅茶だった。どこか外国の珍しい紅茶だとかで言われたような気がする。こんな時に、圭司は今日のことには全く関係のない昔のことを思い出していた。

 ——どう話を切り出そう

 そう思った矢先に母親が、

「この間、いつも行く横浜のデパートの地下にあるお茶の専門店で珍しい紅茶を見つけてきましてね」

と小さな声で話し出した。

「インドのアッサムの中で、特に手を掛けて独特の製法で燻されたらしくってね。もう香りからして甘いでしょう」そう言って先に彼女は紅茶に口をつけた。

 顔はピクリとも笑っていない。圭司は「いただきます」と言いながら出された紅茶を嗅いで一口啜り、こくりと頷いた。本当は紅茶の味を楽しむなど、今はできるはずもない。

 しばらく会話が途切れた。これ以上黙っていては、いつまで経っても切り出せない。圭司はソファに腰掛けたまま姿勢を正した。

「あの、若い頃お世話になっていたバイト先の大将から、あの、紗英さんのことを聞きまして——」

 母親はじっと紅茶のカップを黙って見ていた。そして目線を上げずに喋り出した。

「あなただけが悪いんじゃないって、わかってるんです。あれは紗英とあなたの二人のことです。でも……。親としては、どうしても。どうしてもあなたを恨んでしまいそうで」

「はい」圭司はそれだけ言って黙って聞いていた。

「私は最初は反対したの。紗英のお腹に子供がいるとわかったとき、まだ間に合うからって。今なら間に合うからって」思い出し、思い出しゆっくりと続ける。「そしたら紗英がね、神様がダメだって言うのって。本当はわかってるの、私も。私たちの宗派では、そういうことはダメだって。だって生まれて来るのは神様から授かった子供だから。なのに私——。紗英に怒られちゃった」

 圭司は段々と応接のテーブルに打ちつけそうになるほど首を垂れている。

「それにね、あの子言ったのよ。私は子供ができたってわかったから、あなたとは別れたんだって。あなたの夢を邪魔したくないし、これ以上一緒に暮らすのは限界だったって。だからこそ、一人で産んで育てるんだからって」

 テーブルの上に、ぼたぼたと圭司の涙が落ちた。

「もう、いいんですよ。私はもう」そこまで言って母親は黙った。


「あの、紗英さんは今——」それだけ絞り出すように圭司は言った。

 最初、じっと彼女は圭司を見ていた。どのくらいそうしていただろう。

「本当に知らないんですか?」

 明らかに、知っていて来たんじゃないのか、と言う顔をしていた。

「子供がお腹の中にいたことはバイト先で聞きました。それから後のことは、まだ何も」

 顔を上げて圭司が言うと、母親が壁に作り付けの祭壇に振り向きながら言ったのだ。

「あの子は、十七年前に亡くなりました」

 そこには十字架と一緒に、若い頃の紗英と、一度だけ会ったことがある紗英の父親の写真が額縁に入れて置かれていた。

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