第36話 跳ねる

 当時の聖華学園は、そこらの男子高校生にはいわゆる「高嶺の花」というお金持ちのお嬢様が通う高校と認識されていて、系列の違う大学で知り合った紗英がそこの出身と聞いて圭司は少し意外な気がした。

「大学まで女子大なんて、つまんないじゃん」紗英はよくそう言って屈託なく笑っていた。


 ——聖華国際学園か。


 圭司の高校時代にはなかった、学校名に「国際」がついて、かつての格式高い学園の運営方針が変わったのかどうかはわからないが、懐かしい響きだった。パラパラと学校案内のページをめくり、つとあと一年もすれば圭の進学先も決めなければならないと考えた。何かやりたいことがあるんだろうか。そういえば、まだそんな話を一度もしたことがないのだと気がついて、近いうちにゆっくり聞いてみようとそんなことを思いながら、学校案内のカタログを丁寧にブックスタンドに返した。


 ⌘


「日本語を教えて」と圭が言ったのは、二人が一緒に暮らし始めて一年が過ぎた頃だった。圭司が持ってきたカセットテープに入っている日本の曲の歌詞の意味を知りたいのだという。それからは圭司が教えたり、ネットの日本語番組を見せたりしたこともあってどんどん上達し、それから2年経った今、日常会話ならちゃんとこなせるまでになっていた。実際、日本語の歌もかなり上手に歌えるようになっていた。


「なあ、圭は高校はどうしたいんだい?」

 そんなある日、やっと圭と進学について話すことがあった。

「高校、行っていいの?」と伺うような顔で圭が聞いた。

「当たり前じゃないか」

 圭司が言うと、パッと明るい声で「音楽とバスケができるところ」という。つまり、進学したいと初めて口にしたのだ。どうやら遠慮していたらしい。

 それならここの近くにある高校は問題なさそうだ、あとは頑張って勉強すれば大丈夫じゃないかと話した末に、自転車で通えるニューヨーク郊外にある高校を進学先として考えたのだった。それからちょうどステラが店に来たので圭の進学の話をすると、とても喜んでくれた。

 引き取った頃の圭は勉強が少し苦手で、それはストロベリーハウスの不安な生活が足を引っ張っていたのは明白だった。ステラもそのことをとても気にしていたのだ。その子が自分から日本語を習いたいと言い出したのも、環境が大きく変わったことも影響があるだろう。

 最近は、学校の成績も少しずつ上がってきて、行きたい高校も選べる学力はついてきた。だから、圭が高校に行きたいと言ったことが、圭司とステラにとってはとてもうれしいことであったのだ。

「こんなうれしい日は、みんなで乾杯しようね」

 そう言いながら、ステラがワインと葡萄ジュースをいそいそとテーブルに用意する。まだお客も入れてない静かな店内に幸せが溢れていた。


 ——ああ、こんな穏やかな暮らしが俺にもできるなんてな。


 グラスを合わせ、しみじみと飲むワインが美味しかった。日本を飛び出してアメリカ大陸を渡り歩いていた頃を懐かしく思い出していた。そして、手に入れたこんな生活がずっと続くものだと信じて疑わなかった。


 ⌘


 凄まじい「バン」という破裂音がしたかと思うと何かが金属に当たって跳ねるような音。また破裂音と何かが割れる音。反射的に圭司は圭の腕を取って上から被さるように路面に伏せた。その頭上を通り過ぎたのだろうか、再び北側から破裂音がしたかと思うと、ほぼ同時に南側でガラスが激しく割れる音がする。その度に必死に圭を覆い、首をすくめた。

 

 久しぶりにストロベリーハウスを訪ねた日のことだ。あれか三年、変わらずに毎月一度は決まってそこを訪れていた。

 そこへ立ち寄る前に、いつものようにテッドの店でパンを仕入れる。大きな紙袋にパンパンに詰めたテッドの自信作を、圭が「私が持つ」と宣言しながら両手いっぱいに抱えて、眠たいと言って降りなかったステラが待つ車に向かうところだった。

 誰かが走る音。バタバタと音がする方向を顔を少し上げてチラリと見ると、複数の男たちが銃を手にして走り過ぎようとしているところで、その向こうにライフル銃を構えたどこかの店主と思われる男。

 ——強盗か!

 もう一度目を閉じて顔を伏せる。

「通りすぎろ!」そう思った瞬間、横腹を蹴られるような強烈な痛みが走り首を掴まれて覆い被さった圭から引き剥がされて転がされた。

「圭!」立ち上がりざまに思わず大声で叫んだが、圭司を蹴り上げた男は圭の腕を掴んだかと思うと地面を引き摺るようにして立たせ、持っていた拳銃を首に突きつけた。

「——動くな。いいか、動くなよ」男は圭を盾にして、今度はライフルを持った男に向きを変えた。「離れろ! ほら、離れるんだ! 娘が死ぬぞ」

 大声で叫び、相変わらず銃を圭の首元に突きつけながら、男はジリジリと後退りをしてその場から逃げようとしているように見えた。

「わかった、わかったから落ち着いて……」だが、そう語りかけようとした圭司に向け、ためらいもせずに男が銃を撃ったのだ。圭司の足元でアスファルトが弾丸が跳ねた。

「俺は丸腰だ。何も持ってない、大丈夫だ。何もしない」

 それでも怯むことなく、圭司は両手を上げたまま、男に語りかけようとするのだが、男が再び銃を圭司に向けた。

 その瞬間——

 銃声がしたかと思うと、男が前のめりに倒れ、その手から銃が落ちた。機を逃さず圭司は駆け寄って男の腕から圭を奪い取ると、落ちた拳銃を蹴り上げた。

 何が起こったのかはわからなかったが、とにかく圭を抱き抱え男から離れて止めていた車の影に隠れたことを覚えている。必死だった。

 あとで聞くと、銃口が圭から離れたのを見た瞬間に男の死角からパトロール中の警官が男を撃ったらしい。男は左肩を撃たれたが、死んではいないということだった。


 あれから圭の怯えようは見ていて可哀想なほどだ。しばらくの間、決して一人になろうとはせず、店の表で歌うこともしなかった。

 夜になり圭司がベッドに寝ていると、圭が圭司の寝巻きがわりのTシャツの背中の生地をぎゅっと握り締めながら寝るのだ。それは二人が一緒に暮らし始めた頃のように、小さく震えながら。

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