第35話 ストロベリー・ナイト
圭司が圭を引き取って3年が過ぎた。
身体中が傷だらけになり、その幼い顔に暗い影を落としていた少女も、もう14歳になる。一緒に住み始めたころ、圭をベッドに寝かせ、圭司はソファーに寝るようにしていても、夜中に目が覚めると彼女はソファーのすぐ下の硬い床から手を伸ばして圭司の上着の裾を握って寝ていたことが何度もあった。ちゃんとベッドで寝るように言っても「うん」と返事はするが、やはり同じだった。だから仕方なくシングルベッドに2人で眠るという生活を1年は続けたと思う。
2年目ぐらいからは、段々と1人で眠れるようになった。
背も少し伸びた。最近は、音楽が好き——ただしレイ・チャールズやボブ・ディランが好きという現代の少女にしては変わった趣味ではあるが——で、ダンスとバスケとアメフトが好きな、アメリカ中どこにでもいる普通の女の子になったと思う。もう暗い影などどこにもないのだと思っていた。
音楽について言うなら、最近はフォークやシンプルなロックが好みらしい。自分でも作曲をするようになり、よく店先でボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンだけでなく自分の曲も歌っている。これがまた上手いもので、近頃は圭が歌い出すと、店先に人集りができるほどだ。
「圭司、ちょっとこれを見て」
ランチタイムの準備が終わり、店を開ける前にカウンターに座ってコーヒーを飲んでいたステラが手にしていたのは、圭が自分で作った曲を書き溜めたノートだった。A5版の小さなサイズのノートで、「Over the sea」のコードと歌詞が最初のページに書いてあるのは見たことがある。
音を作り出すことに興味を持った圭は、あれから熱心に何ページもそのノートに書き留めているのは知っていた。これまで見せてもらったことはないが、そのノートを無造作に店のカウンターに置いたまま今朝は学校に行ってしまい、さっきからステラがそれを見ていた。
「勝手に見たら怒らないかな?」と圭司が気にする。
「別に見てもいいって、あの子がいつも言ってるのよ」
ステラはそう言って、最後のページを開いたままノートを圭司に渡して、「この歌詞を読んでみて」と言う。
真夜中に足音がする 今日も悪魔が近づいてくる
血をすすれ 血を流せ
そうさ ストロベリー ナイト
誰も助けてはくれない だから
逃げろ この場所から
逃げろ この街から
走れ この場所から
走れ この街から
そうさそれが ストロベリー ナイト
「これは——」
そう言って絶句してしまうほど心をざわつかせる不気味な歌詞だった。圭がこんな歌詞を書くような心の影を最近は感じたことがない。もちろん、こんな曲を歌うところなど目にしたこともない。楽譜がないのでメロディはわからないが、コード進行だとブルース系の曲だろう。そしてノートの1番最後に書いてあるということは、最近書かれたということが気になる。
——ストロベリー ナイト
間違いなくストロベリー・ハウスにいたときのことを歌った曲だと思う。ステラも同じことを思っているはずだ。
「あれから3年も経つが、まだあの子の心の傷は癒えてないってことなんだろうな。俺はすっかり勘違いをしていたようだ」何度も詩を読み返しながら圭司が呟く。「どうやったら、あの子が安心して眠れるようになるかな」
「でも、それはまだわからないかも。ひょっとしたら、圭が過去の自分を俯瞰して見ることができるようになったのかもしれないし」
「だどいいけどな。いまだに過去の傷を引きずっているのなら、なんとかして完全に取り除いてあげることはできるんだろうか」
そう言って、ノートを閉じ宙を睨んだ。
⌘
ランチタイムが終わって、夕方まで店は休みとなる。店の片付けをステラにお願いし、圭司はいつものようにパークアベニューにある日本総領事館に向かった。
——神の指先をたどるしかない。
サスペンダー氏の言葉がずっと胸に刺さっていて、あれから時間があれば圭の出生に関わる何か——神さまの指先が示した痕跡——が見つからないか調べに行くのだ。
近頃は個人情報保護がやたらと厳重で、13年ほど前のアメリカへの入国記録を簡単には見せてくれはしない。初めて訪れたとき、係員に事情を説明し、圭がハウスに預けられた日の2か月程度前から「高橋」という女性が入国していないか調べてもらったのだが、「高橋」は日本人にとても多い名前であり、大勢の入国記録があるが、乳児を連れていた女性は該当がなかった。それきり何の進展もない。
そしてそれ以上、名簿を閲覧したりできるわけでもないが、ほんのわずかな痕跡でも見つかればと思って領事館通いはやめなかった。
窓口の受付時間は13時までであるが、日本各地の地域おこしで作られたポスターやカタログなどの掲示物を眺めたり、手に取って読んだりしながら時間を過ごす。圭司が生まれ育った横浜や学生時代に住んでいた東京西部のタウンガイドなども置いていたりして、これがなかなか飽きることがない。
圭司が学生時代に住んでいたのは中目黒だった。多分帰国者用なのだろう、その周辺の住宅情報なども置いてあり、住んでいた頃より街がどんどん大きくなっているみたいだ。
——今更日本に帰っても、きっと浦島太郎だな。
そんなことを思いながら住宅情報をカタログスタンドに返し、何気なく手に触れて取ったのが、横浜にある高校の学校案内。
——聖華国際学園か。
学校案内の表紙を見ながら、また日本で別れた紗英のことを思い出していた。
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