第32話 神さまの指先
「私、小さかったけど覚えてる。アンクル・トムとメリンダはいっぱい愛してくれたの」
サスペンダー氏に肩を抱かれ、小さい頃を思い出したのだろう、その頬に一筋の涙を流しながら圭はそう言った。するとサスペンダー氏は急に顔を上げて、
「あの寒い夜、神様がケイに引き合わせてくれたんだ。ケイの母親は帰ってこなかったけど、彼女はとても優しい人だった。この子をとても大事にしていたよ。きっと帰ってこられない何かがあったんだろう。だから、この子を託されたこと、それがわしら夫婦の運命だと思ったさ。だから、神様からこの子がわしらに託された日をこの子の誕生日とすることにした。それが神が決めた日だからさ」と圭司の目を見て真顔でそう言った。
——まさか、彼は記憶が完全に戻ってるのか……?
さっきまで世捨て人のように黙っていると感じていたサスペンダー氏は圭司の意に反して今度は饒舌だった。
「わしらがハウスから出ていかなければならなかったことも、すべて神が決めたことなんだよ。君はケイが預けられた日のことを聞きたいと言ったな。母親を探す気なのか?」
サスペンダー氏は強い視線で圭司に言う。
「そのつもりです。圭と出会った日、あなた方がそう感じたように、それが僕の運命ではないかと思ったんです。だからこの子を引き取ったんです」
「この子には言わなかったが、実を言うとわしらも探したんだよ。日本の大使館にも行った。彼女は日本からこの子を連れてきたと言ったが、だが、ケイ・タカハシという子供がアメリカに来た記録はどこにもなかった。——そうさ、どこにも、だ。おそらくそれが全ての答えさ。この子は神様が連れて来た子供だ。だから、神様のやったことを人間が探り出そうなど、わしら夫婦はしょせん無理なことだと悟った」
サスペンダー氏が深いため息をついて視線を地面に落とした。
神様の子供などいるはずもないと思う。サスペンダー氏にそう言うことは簡単なことかもしれない。だが、もしも「なぜそう思う?」とあらためて聞かれてどう答えればいいだろう。返事を探している圭司に、サスペンダー氏は続けた。
「もし君がケイの母親を探すなら、あとはもう神様の指先を辿ってみるしかないんだよ。君にその覚悟があるのか? そうでないとケイがかわいそうだ」
「かわいそう、ですか」
——何もしないほうがかわいそうではないのか?
「ああ、そうだ。生まれたばかりの赤ん坊だ。大人ならいざ知らず、赤ん坊の顔など写真を見せられても誰も顔も知らない。入国記録もない。パスポートもない。でも、君が必ず探すと言われると、この子は希望を持つだろう。それでももし見つからなかったら? 見つかりませんでした、で済むのか? この子は一生そのたどり着けない希望という心の着地場所を探して生きることにならないか。そういう生き方が本当にこの子の、ケイの幸せだと言えるのかね」
突き刺すような視線を受けながら、圭司は答えようと試みる。
——これは、宗教問答なのか。
「では、もう探すなとあなたは言うのですか」と問うてみる。
するとサスペンダー氏は少し笑いながら言う。
「それももう無理だな。そう。もう無理だ。ケイは知ってしまったからな、君が探そうとしていることを。君はもう絶対探すしかない道へ踏み込んだ。あとは残念ながら神様が微笑んでくれることを期待するしか残された道はない。なあ、メリンダ。そうだろ」
そこまで言うと、サスペンダー氏はキョロキョロと首を動かして——おそらくメリンダ夫人を探しているように見えた。そしてそこに彼女はいないことを悟り、がっくりと項垂れたのだった。それから出会った時のように、まだ黙ってしまったのだった。
——確かにそうだ。俺はここへはひとりで来るべきだった。
サスペンダー氏の言葉に全て賛同できるわけではないが、確かに母親を探すことはまだ圭には言わないでおくべきだったかもしれない。圭司は圭を連れて来たことを激しく後悔した。しかも、もう少し聞きたいこともあったが、サスペンダー氏はもう口を開きそうにないほど顔色が悪かくなり、近くにいた介護士が話を止めてしまった。
——さっきの彼は、正気だったのだろうか。
そんなことを思いながら、圭司が介護士に頭を下げて帰ろうとしたとき、圭が車椅子に座る「アンクル・トム」の前に立ち、軽く目を閉じて深呼吸をした。そしてもう一度目を開けて彼を見つめ、静かに歌い出した。
圭は感情を爆発させるような激しい曲が好きだ。それはソウル、ブルース、ロック、カントリーなどのジャンルに囚われない。だが、今歌っている曲は、ひたすら美しかった。こんな曲を圭が歌うところを圭司は初めて聴いた気がする。
——アメージング・グレイス
神の施しに感謝する讃美歌が、圭の感情を込めた伸びやかな声でマサチューセッツに吹く風になってゆく。少しずつサスペンダー氏と圭の周りにホームにいた人が集まり出し、人々は黙ってその歌声を心地良さそうに聞いていた。
歌い終わると圭は恭しく礼をする。人々が微笑んで拍手を送った。そしてサスペンダー氏を見ると、閉じた瞼から涙がほろほろと流れていた。
「私、思い出したの。あの曲は小さい頃、メリンダが私に歌ってくれたの。だから、きっとメリンダが大好きな曲だったと思うの」
帰りの車の中で、圭はそれだけ言うと黙って窓に流れる景色を見ていた。
——君にその覚悟があるのか。
サスペンダー氏が言ったあの言葉が圭司の頭から離れなかった。
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