第六話 セッション

 東京にもいつの間にか春が来ていた。右手にギターケースを抱えた圭太は、霞のかかった空を見上げ、久しぶりに空気をいっぱい胸に吸い込んだ。こんなコンクリートだらけの都会にも道路脇には数本の桜が咲いていた。

 圭太はいわゆるスタジオミュージシャンである。大学を中退し、プロのミュージシャンを目指したが、デビューまでには至っていない。ギターの腕には自信があるが、やはりこういった世界で「売れる」ことは、歌唱力なりビジュアルなり唯一無二の雰囲気なりの、他人とは違う才能が他人の目に留まらないとデビューというのも難しいことを三十歳を前に悟った。幸運なことにギターの腕を見込まれて、小さな事務所に所属しながらスタジオミュージシャンとして活動できている。


 最近まで他のシンガーのためにスタジオにこもっていたので、久しぶりに自分のためにギターを弾きたくなり、圭太はアコースティックのギターケースを抱えて今日はぶらぶらと街を歩いていた。路上ライブというほどの大したものではないが、通りがかりに自分の歌を足を止めて聞いてくれる人がいればそれでよい。

 日曜日ということもあり、今日は営業していないビルの玄関脇の階段に腰を下ろしてギターを取り出しチューニングをする。爪弾く度に通り過ぎる春の風が心地よい。今日は気持ちよく歌えそうだった。


「よし」

 小さく気合を入れた圭太は最近の流行りの曲を数曲歌う。シンガーとしては思うようにデビューはできなかったが、歌うことは好きだった。

 圭太が歌っている間、しばらく立ち止まって聞く人もいたが、急いでいるのか、また立ち去ってゆく。

 ——まあ、これが俺の力だな。

 一段落したところで、圭太がギターを始めたころ盛んに練習したロックンロール初期、五十から六十年代のいわゆるオールディーズと呼ばれる時代の曲を歌い出した。この時代の曲は曲調がシンプルで、単純に「ノリ」がよい。そんな曲をアコースティックのギターでアレンジしながら、まずは「涙の乗車券」を気持ちよく弾き出した。ビートルズの作品でカーペンターズもカバーした名曲であり、メロディラインも綺麗で圭太も好きな曲だ。

 圭太が顔を上げると、足早に通り過ぎる人々の向こうのガードレールに寄り掛かるように女の子が立って圭太の歌を聞いている。見た目にも真新しい制服を着ていて、多分高校一年生なのだろう。今どきの子がこんな古い歌に興味があるのだろうかと思いながら、立ち止まっているのがその子だけなので、圭太は自然とそっちへ向かって歌う形になって、それからやっと気づいた。

 ——違う。あの子はこの曲を知ってるんだ。

 彼女はただ聴いていたのではなく、圭太のギターに合わせて、間違いなく「涙の乗車券」を歌っていたのだ。

 ——へえ。あんな子がこんな曲を知ってるなんてな。

 ストロークの間に一瞬曲を止めて、彼女に「もっと近くにこい」というように合図を送ると人波をかき分けるように近寄ってきた。圭太はさらにギターの音を強く弾いて「一緒に歌おうよ」というジェスチャーを送る。彼女が「いいの?」という顔をして圭太が頷くと思いもしないことがおきた。圭太の想像を超えて一気に彼女が「解放」されたのだ。

 彼女がどんなキーで歌うのか知らないまま始めたセッションにもかかわらず、低音部から高音部まで実に伸びやかで、その細くて小さな体のどこにパワーを秘めていたのかとまず驚く。そしてその英語の発音に度肝を抜かれた。音楽で英語を学んだ圭太からすれば、学校で習う英語はアメリカの音楽で聴いていた英語とは別物だったのだが、今目の前で歌う彼女の英語はまさしく「本物」だった。

 驚いたことといえばもう一つ。それまでただ通り過ぎていたはずの人波が一斉に動きを止め始めた。

 ——すげえ……。

 とにかく彼女の歌に負けないように、それだけを思いながら圭太は必死にギターを弾き、こんな場所で思いもかけず訪れた、まさしく「女神」とのセッションに夢中になっていった。

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