第四話 沈黙

 予想に反してケイはニコリと笑った。そして、視線はまだスカートの裾を見ながら「大丈夫」と明るく答えたのだ。

 あっさりとそう言われると、むしろそれ以上は聞きにくくなる。だがそのまま聞かないわけにはいかない。体につけられた傷について尋ねる切り口は——

「じゃあ、どんな事情があってここまで来たのかわからないけど、ケイがそうして欲しいなら明日アミティに連れて帰ろうか?」

 試しにそう聞いてみると、ケイはチラッと視線を上げて「本当? うれしい! アミティまで遠いし寒いから、歩いて帰るのって嫌だなって思ってたの。」と言った。

 ——これは本音だろうか。

 そういえば、彼女は「街から逃げてきた」と言っていた。「ハウスから」とは言わなかった。街で何かがあったのは確かだ。ただ、そのストロベリーハウスに帰れば彼女が落ち着ける環境があるのならそうすべきだろう。

 ただどうしても圭司が気になるのは、小さな体についた無数の痣だ。街でのトラブルが原因でついたものなら、ハウスに連れて帰れれば手当も受けられるだろうか。だが、この傷は間違いなく長期間にわたってつけられたものだ。

 ——ハウスがそれを知らないはずがない。

 そのことをどう聞き出せばいいのだろうか。


 圭司がそんなことを考えている間に、ストーブの前でケイがウトウトと眠り始めた。圭司はまだ知り合ったばかりの女の子を、彼女にとって見知らぬ男である自分の家に連れて帰るのもためらわれた。

「今日はここのソファで寝かせて、とりあえず明日アミティへ行ってみようと思うんだが」とステラにそう言うと、彼女も小さく頷いた。

「ステラ、今日はもう帰っていいよ。俺はここに残るから」

「一人で大丈夫?」

「ああ。それよりケイの服のこと、頼めるかな」

「まかせて。小さめの服も何とか手に入れてくる。明日アミティへは何時ごろから行くの?」

「バイパスで一時間くらいだから、午前中に着くように行くとすると十時ごろでいいんじゃないかな」

「わかった。それまでには届けるようにする」と言うと、小さくバイバイと手を振ってステラは帰っていった。


 ストーブの前に座っているケイは、今にも崩れ落ちそうになっていて、圭司は慌てて彼女を毛布ごと抱き抱え、長椅子のソファに寝かせ、すぐ脇の小さな椅子に座り、小さな灯りだけをつけて、そのあどけない寝顔を見ながら、この子が言った「十二月一日」のことを考えた。

 確か、誕生日は十二月一日だけど生まれた日じゃないと言ったはずだ。ただ、大きく違うことは考えにくい。だとすると、もう十一歳になっているかもしれない。日本だと小学五年生か。

 ——彼女はなぜ誕生日を知らないのだろう。

 ——なぜストロベリーハウスという施設にいるのだろう。

 ——アメリカ人と言いながら、なぜ日本人の名前なんだろう。

 なぜ。なぜ。なぜ。そんな単純な疑問が次々に圭司の頭に浮かんでくる。

 そして、ジョシー夫妻は優しいかと聞いたとき、確かに笑ってはいたが彼女は「大丈夫」と答えた。「優しいよ」とは答えなかったはずだ。

 ——その違いは何だ。


 一人掛けのソファに座っていた圭司もいつの間にか眠っていたらしい。時間はわからないが、真夜中に物音がした気がして目が覚めた。


 目の前に毛布を肩から掛けたケイが立って圭司を見つめていた。

「どうした。眠れないのか」と小声で声をかけた。

 彼女は薄灯の中、何も言わない。ごくりと唾を飲み込む音。息を吐く音。

「うん? どうしたんだい」

 もう一度、できるだけ優しく言う。少し沈黙の間が空いてケイが口を開いた。

「私、明日帰らなきゃいけない?」

 ——消え入りそうな、泣き出しそうな小さな声。

「どうした。帰りたくないのか」

「もし帰らないでいいなら……」

「帰らないでいいなら?」


 圭司が聞き返したそのときだ。ケイは肩から掛けていた毛布をそのままストンと落とした。痩せ細った体にもう何も身につけていなかった。


「女の子はこうすれば一人で生きていけるんだって。それを教えてやるって言われて怖くてあの街から逃げてきたけど、もし明日アミティに帰らないでいいなら、私は、あなたなら。私は初めてだけど、あなたなら……」

 徐々に声は小さくなり、そしてケイは涙を流さずに、だが間違いなく、たった十一歳の少女の心が泣いていた。


 全ての疑問が解けた。圭司はそう思った。なぜ「街から逃げた」のか。なぜ体の痣は何回もつけられたのか。たった十一年の間に彼女に何があったのか、全てわかってしまった、そう思った。


 アメリカに来て十年、色々な辛いことも耐えて頑張ってきた。その圭司が今夜初めて泣いた。大粒の涙が次々に溢れてくる。

「……もういいんだ。もうそんなこと考えなくていいんだよ、ケイ」

 ケイが足元に落とした毛布を拾い上げ、彼女の体に巻きつけてやり、その上からそっとそのやせ細った体を抱きしめて圭司は泣き続けた。体から全ての水分がなくなってしまうほどに——

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