第四話 岐須美美との約束

 紀元前667年7月末。狭野尊(さの・のみこと)たちは、東方に向かうため、物資の準備を進めていた。食料、水、薬草、弓矢などの武具、衣類や布などを調達し、御津(みつ)と呼ばれる港にかき集めていた。現在の宮崎県(みやざきけん)日向市(ひゅうがし)の美々津(みみつ)と伝わっている。


 その日、狭野は、天種子(あまのたね)と日臣(ひのおみ)を連れて、港の視察に赴いていた。天種子(あまのたね)は学識深く、知恵で狭野を助けている家臣である。一方、日臣(ひのおみ)は怪力で、荒事(あらごと)の面で活躍している家臣である。天種子が軍師で、日臣が護衛といったところであろうか。


 三人が荷の積み上げを眺めていた時、事件は起こった。向こうで何やら争う声が聞こえる。気になった狭野たちが、すぐさま件の場所に足を向けたのは言うまでもない。


「中を検(あらた)めるだけじゃ。それのどこがいかん?」


 臨検を担当する大久米(おおくめ)の声である。


「たとえ大久米様であっても、命に従うこと出来ませぬ。」


 しゃがれた男の声が後に続く。


 駆けつけた三人の目に飛び込んできたのは、大久米と、従者のような男の言い争う姿であった。


 大久米は目の周りに入れ墨をしている。そのせいで、目が大きく見えるため、まるで蛙を睨む蛇の如(ごと)き様相である。蛙とは、当然、従者と思(おぼ)しき男である。そんな二人の傍には、何やら大きな木箱が、橇(そり)に乗せた状態で置いてある。


 狭野は訝(いぶか)し気な表情を作って大久米に尋ねた。


「大久米よ。如何(いかが)致した?」


 唐突な主君の登場に、大久米は慌てふためきながらも、片膝をつけて答える。


「はっ。この者、お妃様からの献上品などと申し、あまりにも大きい箱を持って参りましたゆえ、中を検(あらた)めると申しましたら、そは罷(まか)りならぬと・・・。」


 隣でひれ伏す男にも、狭野は尋ねた。


「妃の献上品と申すは真(まこと)か?」


 驚愕したような面持ちで、男が答える。


「真にござりまする。お妃様は、必ず、この品を船に積み込むようにと仰せられ、それがしが、ここまで運んで参った次第にござりまする。」


「妃からの献上品と雖(いえど)も、中を検めるが、大久米の役目ぞ。それを拒むとは如何(いか)なる仕儀じゃ?」


「そ・・・それは・・・お妃様が、決して中を見せること能(あた)わぬと申されましたゆえ・・・。我(われ)には、そうとしか言いようがござりませぬ。」


 何を隠す必要があるのかと、狭野は一笑に付し、箱を開けるよう命じた。主君の命に従わないという道理はない。男が言われた通り、箱に手をかけた時、吾平津媛(あひらつひめ)の声が響いてきた。


「何をしておるのじゃ。開けてはならぬ。」


 媛は、娘の岐須美美(きすみみ)を伴い、木箱のあるところまでやって来た。これ幸いと、狭野が妻に尋ねる。


「吾平津よ。開けてはならぬとは如何なる仕儀じゃ。開けて困ることでも有ると申すか?」


 夫の問いに、媛は当然といった趣(おもむき)で返してきた。


「これは船上にて、殿を驚かせるためのもの。今、開けてはなりませぬ。海に出られたのち、開けて頂きたいのです。」


「そちは何を申しておるのじゃ。このようなことをしても、わしは喜ばぬぞ。物見遊山に赴くわけではないのじゃ。」


 少し厳しめの口調で、媛を諭(さと)したつもりの狭野であったが、当該の人物は、あっけらかんとした風である。


「お志は重々承知しておりまする。それゆえ、この献上品を、お贈り仕(つかまつ)らんと欲した次第。他意はござりませぬ。お受け取りくださりませ。」


「だがらと申して、大久米の務めに障(さわ)りを起こしては・・・。」


 などと言っていると、傍に控える岐須美美(きすみみ)が、母親に加勢してきた。


「父上、これは母上の御心だけでなく、わたくしの想いも含む献上品にござりまする。お志の成就せんことを願い、旅、安(やす)かれとの一心にて、支度せしもの・・・。どうか、母上のお望み通り、海に出てから開けてくださりませ。」


 娘からも開けてくれるなと言われ、狭野は、断れなくなってしまった。役目や法度のことを考えれば、例外があってはならないのであるが、可愛い娘の嘆願には、どうも抗(あらが)えない。大久米や天種子、日臣の目が気になるが、どうしようもない。これを断れば、娘が涙を見せるかもしれない。妻が泣き叫ぶかもしれない。旅の門出に涙は不吉である。忌(い)むべきことを取り除かねばならない。心の中で、いろいろ言い訳を並べ立て、自己を正当化させると、狭野は岐須美美に微笑んでみせた。


「汝(いまし)らが、そこまで申すのであれば、致し方あるまい。この箱は、海に出てから開けようぞ。」


 すると、その発言を聞いた大久米(おおくめ)が喰いついてきた。


「と・・・殿! 真によろしいのですか? 一つも怠ることなく、中を検(あらた)めよと申されましたのは、殿にござりまするぞ。たとい、お妃様や姫宮様の頼みであっても、これを断るが道理ではござりませぬか?」


 大久米の言うことは正論である。だが、開けてくれるな、驚かせたいのだと、妻と娘に頼まれた手前である。夫として、父として、その想いに応えてやりたいという気持ちが、狭野を支配していた。


「大久米よ。汝(いまし)の申すこと、全く間違ってはおらぬ。中を検めるは国のこと。要らぬ物を積むわけには参らぬからな・・・。されど、これについては我が家のこととして、すまぬが、見逃してはもらえぬか?」


 まなじりを潤わせ、大久米に哀願する狭野。そんな主君の姿に、大久米は戸惑った風情で仰(あお)ぎ見てきた。


「と・・・殿の頼みとあらば、断るわけにも参りませぬ。お妃様、並びに姫宮様とのお約束・・・それがしも結ばせていただきまする。」


 渋々といった感は否めないが、大久米は、狭野の頼みを受け入れた。傍に控える天種子(あまのたね)や日臣(ひのおみ)は、半ば呆れ顔で見つめている。


 心苦しくはあるが、家族の頼み事なのである。一つくらいの例外は許して欲しいと、狭野は思った。長い別れとなるのである。永遠の別れとなるかもしれないのである。


 では、他の家族はどうなのかと問われれば、答えに窮するところではあるが、妻や娘の想いを無下(むげ)にすることなど出来ようか。


 気恥ずかしさが込み上げ、狭野は逃げ出したい衝動に駆られた。そのとき、岐須美美が朗(ほが)らかに微笑むと共に、感謝の意を申し述べてきた。


「父上、そして皆様方・・・。母上とわたくしの我がままをお聞き届けくださり、心より御礼申し上げまするっ。結びし約束・・・必ずお守りくださりませっ。」


 あどけない笑顔の岐須美美に、狭野は当然として、三人の家臣も、想いを受け入れるほかない様子であった。

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