記憶の伝播

青伊 公緑

記憶の伝播

 新月の夜――。アンテナの付いたこの大きい建物の屋上で、この老いた男は何十年も星を眺めてきた。今日も空を見上げる。

「もう……、少しで、会えるなぁ――」

大きく息を吐きながら呟いた。何かを小声で伝える秋の風は彼の左手に強く握られた便箋を揺らす。拳銃を握った彼の右手が、少し脱力した。



 西暦二〇六三年十月二一日。

 太陽を公転する軌道の中に一つの宇宙船があった。円筒形の船体の表面は太陽の光をよく反射するようにピカピカと光り、その側面には鳥の翼のようなソーラーパネルを二枚広げている。円筒形の船体の片側の円の中には、更に小さな円形の蓋が複数あり、中に何かを格納しているようだ。もう片側の円には大きなパラボラアンテナが設置されている。

宇宙船の内部は非常に広く、床面積だけを考えれば大きめの一軒家程度の広さを持っている。しかし、宇宙船の中で過ごしているのはたった一人の少女だった。

少女は桃色のショートボブを跳ねらせる十六か十七程度の、平均的な身長と、やや平均よりも女性を強調した肉付きをした女の子だった。少女は肌に密着するような白色のスーツを着込み、少し長い前髪を黄色のヘアピンで留めている。

少女は、幅七メートルと奥行き九メートルというこの宇宙船の中で最も広い長方形の部屋の中にいた。床は板張りで一つの壁には大きな黒板が付けられていた。女の子はこの部屋の中心にくっつけて置かれた二つの机の片方に向かい、シャープペンシルのお尻からぶら下がったマスコットを揺らしながら手紙を書いていた。

 『西暦二〇六三年十月二一日。地球、シドさんへ。

 本日の宇宙船リラ号のシステムチェックの結果をお知らせします。リラ号の各システムは正常に動作しています。水素燃料の残量は三十パーセント弱です。地球軌道に戻れるか怪しいラインですね。パーツの劣化は日々進んでいますがあと十年はもちそうです。

 今日もお手紙をありがとう。こんなに緊張しながらお手紙を書くのは久しぶりですね。

 私は長い時間を一人で過ごしてきました。孤独な宇宙の長旅はとても寂しいものです。あなたとのお手紙のやり取りは私にとって唯一の楽しみでした。私は毎日手の届かない星々を眺めて過ごしました。毎日貴方を想っていました。

宇宙船の窓の外を眺めるのは今日でちょうど五千回目です。あなたとこうしてやり取りするのもちょうど五千回目です。長いその時間はたった十四年間でした。貴方の待っていた時間と比べたらほんの少しの時間ですね。ようやく貴方に会えます。でももうこれが――最後ですね。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

アカリ。

 追伸。貴方もアカリさんに会えることを願っています』

 アカリは手紙を書き終えると、満足げに微笑み、シャープペンシルを木製の机の天板の上に優しく置いた。アカリは元気に立ち上がると、教室の隅に設置された手紙をスキャンする装置に便箋を挿入した。その後、アカリは満足げに鼻歌を歌いながら教室を後にした。

 アンテナの動く振動が宇宙船内部の空気を振動させ、鈍い音が聞こえる。彼女の想いは、地球へ向かって五分間の旅に出た。



 二〇二〇年。十月一日。

夕方。秋になると、自分と他人の境界が分からなくなるほどの柔らかくまぶしい太陽の光が、教室の中に差し込む。カーテンを優しく揺らす冷たい秋風は北から南へと抜け、そこにいる二人の会話を誰にも聞こえないように持ち去っていく。

「アカリ。なにを探しているの?」

十六か十七歳程度の少し小柄な少年は窓の桟に背中を預け不安そうに尋ねた。アカリと呼ばれた車いすに座る同級生の少女は、自身の膝の上の通学カバンをまさぐりながら何かを探している。

「じゃーん!カメラ‼。これで二人の思い出を残しておこうと思ってさ」

アカリは元気よく、デコレーションのシールがいくつか貼られたピンク色のビデオカメラをカバンから取り出した。少年はアカリがなぜビデオカメラを学校に持ち込んだのか、その動機を少し考え、目に少し影を落とした。アカリは開閉式の画面を開き、カメラのレンズを自身に向けると、すかざず録画を始めた。

「アカリでーす!そしてこっちが――」

アカリは手に持ったビデオカメラのレンズに向かって勢いよく自己紹介をし、自身に向けていたレンズを素早く回転させ少年に向けた。

「シド君でーす‼」

アカリはシドと呼ばれた少年の抵抗に被せながら、元気に叫んだ。

「ちょっとアカリ!僕は別に映らなくてもいいよ!」

シドは少し大げさに声を出し、手で顔を覆った。

「なんで隠すの⁉少しだけ!少しだけ!ね?」

少し残念そうに、それでも元気に言った。ビデオカメラのレンズは激しく何度か上下した。

「僕なんて撮っても画面映えしないし!恥ずかしいよ」

「えーなんでえ!本当に少し――。少しだけだから……」

顔を隠し続けるシドに対し、アカリの態度ははっきりと萎んでしまった。少しの沈黙。その数秒の時間に、シドの心の奥へアカリの言葉が重みをもって落下した。

「アカリ……?」

「うん?」

「僕はアカリのお眼鏡に叶うほどかっこよく映れるか分からない。けど……、いいよ」

シドは、自身の目線をアカリの周辺に漂わせながら自信なさげに言った。

「本当?撮ってもいい?」

アカリは自信のなさそうに確認する。

「でもその代わり!撮るなら、僕もアカリもいっぱい撮った方がいい、かも……」

シドはアカリから目線を逸らした。夕日が彼の頬を優しく照らした。

「ありがとう!いっぱい、いっぱい、ずっと、ずうっと撮るね‼」

アカリは少しホッとしたように笑顔になった。


――アカリは嬉しそうだった。



 西暦二〇六三年十月二十日。夜。宇宙船と通信を行うための大きなパラボラアンテナを備えたその国の軍事施設の中に一人の老いた男がいた。男は皺の入った背広を着こみ、白くなった髪と口ひげを蓄えていた。

男は自分のために用意された仕事部屋の椅子の上で居眠りから目を覚ました。ゆっくりと瞼を上げると、自らの周囲を、首を動かさずに眺めた。目の前に置かれた金属製の重厚感のある事務机、壁の本棚に詰められた大量の書籍、端に置かれたスキャナー、この部屋で最も座り心地の良い向い合せの応接ソファー、何も映っていない複数のモニター。男は暗くなったモニターに映る自分の姿を見ると、涙を流していることに気が付いた。再度目を閉じ、ふうとため息をつきながら指で目を拭った。目を閉じると自室の窓を細かく揺らす風の音が聞こえる。男は自らの事務机の唯一鍵のかかった引き出しを開け、その中にある何十年も前の古びた機械を確認した。男はその古びた機械の一部を撫でるようにそっと触れた。

「こいつは本当に長い間私たちを見ていてくれたな……」

そう呟き、少しの間自らの過去を逡巡した。長く息を吐いた。

同じ引き出しの中から白紙の便箋と、黒の万年筆を取り出し、手紙を書き始めた。

『西暦二〇六三年十月二十日。宇宙船リラ、アカリへ。

長い間私に付き合ってくれてありがとう。宇宙船リラ号は十四年続いた長い任務を終了することとなった。お疲れ様。この十四年間君と手紙のやり取りは私の人生の励みだった。とても幸せな時間だった。感謝している。本当にありがとう。

明日の夜、君の最後の更新データを送る。これはこれまでのような君の性格や気質を設計するデータではない。もっと大切な、君自身の記憶だ。これには、君と過ごした何十年も前の遠い昔の日々が記憶されている。長い時間が必要だったが、ようやく君を本当の姿に戻すことができそうだ。

本当に長かった。本当に。僕はアカリがいなかったらこんなにも頑張れなかったと思う。君は望んでいなかったかもしれないけれど、僕は君が生まれてくれたことにとっても感謝している。君がいる世界に生まれたことに感謝している。これを伝えられる僕は、平和なこの世界の中でも一番の幸せ者だ。本当にありがとう。これからもよろしくお願いいたします。

 シド。

追伸。一機男性型の素体が倉庫の中にあるので、少し整備しておいてくれると嬉しい。』

シドは最後の一文を書き終えると、便箋を優しく見つめ、人生最後の手紙を読み直した。万年筆の先端が少し乾くのに気づくと、キャップを名残惜しそうにゆっくりと閉めた。男は立ち上がり、書き終えた手紙を部屋の隅のスキャナーへ通した。

 アンテナの動く鈍い音が数十秒続き、そして止まった。手紙はシドの人生の中で最も長い五分間の旅に出た。



 西暦二〇六三年十月二一日。夜。

 手紙を書き終えたアカリは、笑顔で自らと同じ、人型ロボットの機体整備を始めた。その機体はアカリよりも少し小柄かつ幼い顔つきの男の子で、男性的な肉付きが精巧に作られていた。ホワイトの髪が照明の光を強く反射している。日ごろから丁寧に整備してあったため、長時間はかからなかった。

整備が終えると、アカリは少年ロボットを抱きかかえ、自室のベッドへ寝かせた。消灯した後、自らもベッドへ横になった。

目を閉じた少年ロボットの顔を見つめる。そして、自らの額を重ね、目を閉じた。

「なんて声を掛ければいいのかな。久しぶり?会えてうれしい?他の言葉――?」

その言葉が頭の中に浮かんだ。少し顔が熱くなるのを感じた。



 二つの記憶が何もない空間を伝搬する。

この世で最も速い速度で移動する二人の想いは、五分という時間をかけて天に昇って行った。

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記憶の伝播 青伊 公緑 @Midori_Torumari

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