第37話 名前



「さーて、クソ妖怪……後何枚だい? 後何枚この鏡を割ればお前は消える? 言ってごらんよ。その醜い顔で、言ってみな?」


 七瀬葵……と言っていいのだろうか…………。

 まるで別人と化した彼女は、床に転がっていた偽物の頭を持って振り回し、鏡を次々と破壊していった。


 絶世の美女……俺が初めて……おそらく、初めての片思いをしたその相手は、あんなに細い体で、あんなに華奢な腕で、ここへ来るまで、お化け屋敷は苦手だと言っていたか弱いあの転校生は、鏡の壁を叩き割って笑っている。

 青い瞳の奥に、怒りの炎を宿して。


「ひいいいいいっ…………あと2枚です……っ!!」


 偽物は鏡が割られていごとに、徐々に姿を変えていく。


 女子高生だった体が、割られるごとに汚らしい着物を着た貧相な老人の体へ。


 おそらく、もとの姿に戻っているのだ。

 七瀬に化ける前の本来の姿に。


 今のところ、顔だけ辛うじて七瀬だが、何度も振り回されて、完全に恐怖に怯えて抵抗すらできないでいる。


 さっきまであんなに強気だったのに、形勢逆転以上だ…………もう確実に、この妖怪は戦意喪失。

 されるがままだ。


「そう、あと、2枚さ。ああ、気持ちが悪い。このアタシの顔でそんな顔をするんじゃないよ…………さっさと元の姿を晒しな」


「お……お助けください!! 申し訳ございません…………!! まさか、あなた様の体とは思っておりませんで…………ひいいいいいっ」


 まだ話してるのに、七瀬はもう一枚鏡を割った。


(じ……地獄だ。)



 割れた鏡の破片が、俺の周りにも飛んで来て、顔や腕の皮膚が数カ所切れ、血が少し出てる。



 ちょっとでも動いたら、俺も殺される…………

 助けられずにどうしようかと思っていたのに、逆に助けられている……のかこれは?



 鏡が残り1枚となったところで、ついに偽物の顔が本来の姿に戻った。


 七瀬とは似ても似つかない、顔のただれた醜い年老いた男の顔だ。


「あなた様? おや、アタシが誰だかわかったのかい? 言ってごらんよ。上手に言えたら、助けてやろう」


「は……は……はい……ありがとうございます……!! 八百比丘尼やおびくに様…………!!」


「——……ほう……その名をよく知っていたね。褒めてやろう。だが、残念なことに……」


 八百比丘尼はニヤリと笑って、最後の1枚を割った。


 男の体をまるで槍投げのように片手で投げて。


「それはアタシの本当の名前じゃないんだよっ!!」



「ヒイイイヤアアアアアアアアアアア」



 全ての鏡が割れたことで、男とともに割れた鏡の破片も跡形もなく消え行った。



 八百比丘尼はパンパンと手を両手を叩いて、手についたホコリを払うと、部屋の隅で固まっていた俺の方をチラリと見る。



「いやーすっきりした。久しぶりに暴れたわ……」


 そう言いながら、徐々に俺に近づいてきて、さっきまで妖怪の頭を掴んで振り回していた手で俺の頬の傷に触れる。



「な……何を!?」

「なに、ただの治療だよ。浅い傷だが、こんなに傷だらけの顔では外に出づらいだろう……」


 美しい顔が近づいて来る。

 両目の下のほくろが、近づいて来る。


 八尾比丘尼はその柔らかな舌で、俺の傷を舐めた——————




 その瞬間、思い出した。


 両目の下のほくろの少女。


 あの時、そう、あの日もこうやって、あの子は俺の顔を舐めたんだ。


 あの子の名前は…………



「あかね……ちゃん?」


「…………おや……どうしてその名前を?」




 青色の瞳と、目があった。






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