第36話 別人


 偽物の七瀬が、本物の首筋に噛み付いた。



「やめろっ!!!」



 首筋から鮮明な赤い血が肩をつたい、制服のブラウスを歪に染めていく。


 偽物の七瀬は、ニヤニヤと笑みを浮かべ、本物の首筋に噛み付いたまま、緋色の瞳で何もできずにいる俺を見上げる。


 俺はその日、初めて妖怪が人を食らう姿を見た。



「やめろ……っ!! やめろ…………やめてくれ……っ!!」


 必死に鏡を叩いて、叩いて、叩いて…………何をしても鏡の向こうに手が届かない。


 恐怖と、込み上げる怒り。

 何もできない絶望感。


(俺はこのまま、ただ七瀬が……食われるのを見ていることしかできないのか!?)


 ————そう思った時だった。




 俺を見上げていた緋色の瞳が、あの気持ちの悪い目が、恐怖に怯えたものに変わった。


 偽物の動きがピタリと止まり、その代わり、首筋を噛まれていた本物の七瀬が、先ほどまで恐怖に震えていた七瀬葵が、偽物の頭を右手で鷲掴み、その頭を潰そうと力を込めている。

 逃れようとする偽物は首筋から顔を離し、その手を振り払おうとしたが、その手から逃れることはできなかった。


 本物の七瀬は、偽物の頭を持ったまま、もう片方の手を床について、立ち上がる。

 両手両足をばたつかせて、抵抗する偽物。


 その偽物に向かって、本物は何かをしているようだが、こちら側からは後ろ姿しか見えず、涙を流している偽物の顔はものすごく怯えている。


(なんだ……? 一体何が起きてる…………?)


 本物の七瀬は、偽物の体を、自分の背後にものすごい速さで投げつけた。



「————……アアアアアアアアアああああああ」



 偽物が直撃した鏡が大きく音を立て割れ、鏡の向こう側から偽物が叫びながら飛び出してきた。


 反射的に避けたが、投げ出された偽物の指が俺の左頬をかすめ、傷がつく。

 直撃していたら、おそらく俺は死んでいた。





「まったく……このアタシを喰らおうなんぞ、愚かなことを……————」



 七瀬葵は、噛まれた場所を手で抑えながら、鏡の中から出てきて、左右に首を倒し、バキバキと鳴らす。


 そして、首筋を抑えていた手を離すと、じわじわと偽物がつけた歯型は消えてゆく。

 傷一つない綺麗な肌に戻った。



「さてと…………どうしてやろうかね。アタシの体を傷つけやがって…………ただじゃおかないよ? 覚悟しな」



 しかし、鏡の中から出てきた七瀬葵は、この床に転がっている偽物とも、先ほどまで俺の手を握っていたとも違う。


(これは、一体、誰だ?)


 姿形は、七瀬葵そのものなのに、まるで別人だ。



 その時、俺の脳裏に刹那の言葉がよぎる。


 ————『七瀬さん、多分普通の人間じゃないわよ』





「あと、そこの使えない男…………陰陽師か?」

「は……はい!!」


「こいつはアタシの獲物だよ。手出ししたらぶっ殺すからね」




(おい、おい!! 何がなんで、どうなってる!?)








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