3話
そんな話があるのかあ。
夕暮れ時、溶け落ちるようなとろりとした橙色に満ちた教室で、初老の男性がゆったりと笑っていた。私が所属するゼミの担当教授だ。
レポートの題材について軽い相談をすると、教授は存外興味深そうに話を聞いてくれた。
「僕が小さい頃も、そういう怪談が流行ったなあ」
「先生の子供の頃と言うと」
「まあ、色々さ。大抵は何処かへ連れて行かれるとか、あの世と一瞬だけ繋がるとか、人ならざるものがやってくるとか」
どこか懐かしむような顔をした教授は、そういえば、と何かを思い出したように立ち上がる。
「君は〇〇地方の出身だったね」
民俗学を専門とする教授の研究室の本棚には、一体いつの、どこのものなのかわからない本が所狭しと差し込まれている。天井まで届こうかと言う本棚から、教授の人差し指がとある本をためらうことなく選び出す。
「あの地方は伝説というよりは唄の方がよく残っているんだよ。特に子供が歌うわらべ唄が多く残されていたはずだ。君ぐらいの世代になると、触れることもそうそうないのかな」
「小学校の授業でほんの少し触れた程度ですね」
「そうか、じゃあこれは面白いかもしれないよ」
柔らかな言葉とともに差し出されたのは、薄い冊子だった。大手出版社ではなく、地方に根差した小さな会社が小部数発行したような本だ。
臙脂色の表紙には、黒々とした文字で、「〇〇地方童謡集」と記されている。
「今回のレポートに絡めるのは難しいかもしれないけれど、理解を深める役に立つよ」
「そうですか……? 学校で聞いたのは、本当にただのわらべ唄だったんですけれど」
今考えると、全く違う意味が見えてくるかもしれないよ。
教授はそう笑いながら続ける。
人生を積み重ね、かつて子供であった自分を懐かしみながら、しかし通り過ぎた日々に嫉妬するような顔で、老人は笑った。
「その本に載っている歌は、子供たちが歌っていた唄だ。つまり、子供たちが自発的に生みだした唄もあるんだよ」
「と言いますと?」
いよいよ室内は橙に染め上げられて、全てが燃え盛っているかのようだった。
「子供は、何もないところから何かを生み出すのが上手いんだよ。君も空想の友人と遊んだ記憶はないかい? 子供というのはね、時に現実を拡張するんだ。自身の思い込み、空想、幻、脳の中にしかないはずの世界を、唄、あるいは語り共有することでほんとうにしてしまう。口裂け女も最初はただの物語だった。だけれども、その存在は、あらゆる人間に認知されていった。物語を共有し、その物語に名前をつければそういうことができるんだよ。虚実が確かな輪郭を持つんだ」
「……虚実であるはずの物語が、共有されることで、現実に侵食してくると?」
「そういう考え方も、あるだろうね」
君だって、その十字路にいるかみさまを、本当だと思っていただろう。
教授の顔が眩しすぎる夕暮れの中に溶けて消え、笑みすらもが見えなくなる。
私たちは、何を共有し、何を生んだのだろう。
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