第19話「味方でいてください」

 鏡を徹底的に調べると決意した亮介とひかり。しかし二人はその晩、赴いたひかりの自宅の蔵で呆然とする。

 雑多なものに囲まれていたはずの蔵なのに、その雑多なものは半数ほどが見る影もなく消えていた。家具や骨とう品や調度品。素人目にも利用価値の残っていそうなものだけが消え、使い勝手の悪い粗悪な古い物だけが残っていた。そんな中で、一枚の畳は蔵の奥でポツンと残されたまま。その奥にあったはずの鏡は忽然と消えていた。


「なんで……」


 振り絞るように亮介は呟く。瞬間、ひかりは走って蔵を出た。亮介は追うこともできず、ただ畳の前で立ち尽くすだけだった。

 なぜ鏡が消えたのか。なにもわからない。なにも考えられない。この喪失感は甚大だ。昨晩せっかく我が娘と対面できたのに。毎日来ると約束をしたのに。それなのに鏡の方が無くなったらミズコと会えないではないか。


 そんな解決しないことを逡巡させていた。それが数十分続いたことも気づかない中、蔵の外で喧騒が鳴る。


「殺してやる!」


 ひかりの声だった。亮介は「え……」と声を出して胸騒ぎを覚えた。


「んだ、てめぇ! 逆らうのか!」


 男のそんな声が響いたのと同時に、亮介は急いで蔵の外に出た。するとそこにはひかりと一人の男がいた。来た時は真っ暗だった母屋の一室に明かりが灯り、二人の顔はなんとか視認できる。

 男は中年で無精ひげを生やし、髪は無造作で長めだ。こんな夜中だから……とは思わず、そもそも普段から不衛生なんだと感じさせる風貌。亮介は男がひかりの父親だとすぐに認識した。


 そして驚くのはひかりの形相。涙を流し、憤怒の念をおくびにも隠していなかった。更には手にカッターナイフを持っている。玄関から逃げた父親をひかりが追いかけた構図だ。


「ひかり!」


 亮介は叫んだ。しかし亮介に目を向けたのは父親の方だった。


「なんだよ、お前」

「あああああ!」


 刹那、ひかりがカッターナイフを振り上げて父親に襲い掛かる。父親は身を躱そうとするが、肩を切られた。寝間着に来ていたTシャツの袖が切れ、血が滲んでいる。

 考えるより先に亮介は動いた。庭先を走って父親の脇を抜け、ひかりに抱き着くように彼女を拘束した。カッターナイフは地面に落ちた。


「うわーん!」


 するとひかりは亮介にしがみついて声を上げて泣いた。亮介は状況がまだ把握できないながらも、ひかりを抱きしめて彼女の頭を撫でた。そんな二人の脇を父親が悪態を吐いて抜けていく。


「ちっ! クソが! 血出てるじゃねぇか。二度と帰って来るな! 俺は寝るからさっさと泣き止めよ」


 そんな父親の言葉には耳を貸さず、ひかりは亮介の胸で泣いた。亮介は開きっ放しの玄関に消える父親の姿を目で追った。自分みたいな男と一緒に娘がいるのに、亮介に向ける視線は少なかった。本当に娘に無関心な親なんだと亮介は寂しくなった。


 すると玄関から心配そうな眼差しを向ける老婆がいた。ひかりの祖母だ。亮介はすぐにわかった。

 祖母はゆっくりとした足取りで框を下りると二人の前に立った。そして深く腰を折る。亮介は声を上げて泣くひかりを抱いているので、ペコっと頭だけを下げた。


「ひかりの合宿先の方ですか?」


 弱く優しく物腰柔らかな物言いだった。亮介はそう言えばひかりの家では合宿名目だと思い出して祖母に答えた。


「はい。えっと、これはどういう……」

「お恥ずかしいですな。息子がカキンカキン言ってお金をせびるんです」

「あぁ」


 ゲーム課金のことかと亮介は思った。


「けど底なしにお金があるわけじゃないからそれを言ったんです。すると売れるものはないかと、盆前に買い取り業者を呼びましてな」

「あぁ……」


 ショックと絶望と、そして理解が亮介の感情を複雑にした。お盆前と言えばひかりが鏡の中に入っていた時期。そしてひかりはミズコ以外の外の人と対話ができない。認識もされない。その間に業者が査定に来たわけだ。

 ミズコだったら鏡の外の人の存在に気づく。しかしそのミズコもなにも言わなかった。だから知らなかったのだろう、鏡が処分されようとしていることに。そしてこの日――既に日付は変わっているので昨日の日中、買い取り業者が引き取りに来てしまったのだ。


「ひかりさんのお婆さんですよね?」

「はい」

「それでひかりさんは取り乱したと?」

「はい。しかもひかりの部屋も少し触られた形跡があったとかで、尤もひかりの私物は結局売られていませんが、出て行った母親との思い出の品もあるので、それでひかりが焦って夜中に叫んで息子の寝室に行ったわけです。その騒がしさに私は飛び起きました」

「そうでしたか……」


 腕の中にすっぽり収まるひかりを亮介は哀れんだ。ひかりは声こそ上げなくなったが、まだしゃくりあげながら泣いている。


「うぅ……、ミズコ……」


 ひかりは亮介の胸の中で呻く。ひかりの吐息が温かい。


「お婆さん、ひかりさんは僕に任せて休んでください」

「でも……」

「大丈夫ですから」

「そうですか。ではこれを」


 そう言って祖母が差し出したのは買い取り業者の名刺だった。亮介はひかりの頭から手を離し、その名刺を受け取る。


「私も一枚もらっておりまして。どうかひかりをよろしくお願いします」


 そう言って祖母は玄関に入るとドアを閉めた。その音を耳にしながら亮介は名刺を持ち替え、優しくひかりの髪を撫でた。

 亮介はやはり祖母も当てにはできないなと思った。自分が祖母に引くことを促したとは言え、やはりひかりが言うように――当時はミズコの代弁になるが――祖母は息子の方にこそ甘い。こんな状況で食い下がることまではなかった。


「ひかり、僕がついてるから」

「うぅ……、亮介さん……」

「大丈夫だから」

「じゃぁ……」

「ん?」

「じゃぁ、敵を取ってください」


 よほど悔しかったのだろう。奥歯を噛みながら言うひかりの内面が亮介に伝わった。


「物騒なことはできないよ」

「そんなこと言わないで味方でいてください」

「僕はひかりの味方だよ」

「じゃぁ、私の代わりにあいつを殺してください」

「そんなことできるわけないだろ」

「それなら私を抱いてください」

「どうしてそういう話になるんだよ?」

「自分の体が傷つけば、父親に虐待されたって警察に駆け込みます。それで父親を社会から抹殺できます」


 こんな状況でそこまで考えたのかと亮介は呆れる一方、もともと家出願望はあったひかりだから、もしかしたらずっと父親を貶める腹案の一つとして抱いていたのかもしれないと思った。だから男との寝床に対する意識が希薄だったのだろうと理解する。


「そういうことも協力できない。虚偽はこっちが犯罪だよ?」

「保身ですか?」

「そうだよ」

「やっぱり亮介さんも私なんかどうでも良くて、私のお母さんみたいに私を捨ててでも自分のことを守る大人ですか?」


 ここで亮介は一度深呼吸をする。怒鳴らないように落ち着かせたが、それでも次の言葉は声のトーンが少しばかり抑え切れなかった。


「違う! 僕が逮捕されたらひかりを守れなくなる! 娘の友達だから僕がひかりの傍にいて守るから!」

「うわーん! あああああ!」


 ひかりはまたも大声を上げて泣き出し、より強く亮介にしがみついた。亮介もそれに応えるようにひかりを抱きしめた。ひかりの気の済むまでそうしてから、亮介はひかりを部屋に連れ帰った。

 この日ばかりは亮介を離そうとしないひかりを思いやった。ひかりが深く傷ついたのは明らかだ。


「今日だけだからな」

「はい」

「今日だけはちゃんと煩悩に勝ってあげるけど、明日からはちゃんと布団で寝な?」

「わかりました」


 出勤までのほんの少しの仮眠の時間、亮介はひかりからの希望でベッドに入れた。ひかりは亮介の腕枕に収まって身を寄せた。


「亮介さん」

「ん?」

「亮介さんの胸、広くて温かいですね」

「……」

「癖になりそうです」

「今日だけだからな」

「はい」


 それから少ししてひかりは小さな寝息を立てた。

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