第15話「お隣失礼しますね」
この日のカリキュラムを終えるとひかりはラフな部屋着に着替えた。なんて無駄な着回しだと亮介は呆れる。一方、リビングで着替えようとするから焦って洗面所に押し込んだのだが。
そして二人はリビングソファーに肩を並べて座る。触れるほど距離が近いので亮介は戸惑う。そんな中ひかりは、着替えて戻って来たばかりなのでテレビ画面を見て問い掛ける。
「これ、なんの番組ですか?」
「あー、ネット番組。専用の機器を繋げて、テレビ画面でも観れるようにしてるんだ」
「サッカー?」
「うん。スポーツ番組は好きなんだ」
テレビの画面はサッカーの関連番組だった。試合のライブやダイジェストではない。もう少しマニアックな審判のジャッジを解説する番組だ。
「むー、これどういう意味ですか?」
ひかりは難しそうな顔をして問い掛ける。中学こそ運動部に所属していたが、高校は帰宅部だし、観戦などでもあまりスポーツには触れていない。
「これはね、アディショナルタイムの時間数を審判が間違えて多く取っちゃったから、プロリーグで問題になったんだよ。それの解説」
「アディショナルタイムって?」
「昔はロスタイムって言われてたんだけど、例えば選手の怪我とかで途中試合が止まるよね」
「はい」
「その分の時間を前後半各四十五分に追加するんだ」
「ふーん。それでこの試合は具体的になにが問題なんですか?」
「アディショナルタイムは追加時間だから、四十五分の間で止まった時間を追加しないといけない。けどこの試合の審判は四十五分を過ぎた後のアディショナルタイム中に止まった時間も追加しちゃったんだ」
「それって間違いなんですか?」
「うん。アディショナルタイム中に止まった時間は追加するんじゃなくて、アディショナルタイムをただ単純に止める」
画面はリプレーシーンだ。左上には試合時間の表示がされており、九十四分と数秒を示していた。
「その間違って多く取った時間に点も入って、試合結果が変わったんだ」
「ふーん。難しいですね」
「まぁ、人間誰だってミスはある。それは反省しないといけない。けどそれをバッシングばかりするんじゃなくて、周囲で協力して繰り返さないように策を講じる。これが大事で、その理解を目的とした番組なんだけど、この審判はネットで散々叩かれちゃって」
「可哀そうですね」
亮介にはそんなことを言うひかりがとても素朴に思えた。
やがて日付も変わった頃、番組も終わって亮介はテレビを消した。
「そろそろ寝ようか?」
「はい」
「お願いがある」
「ダメです。ミズコと同じがいいから亮介さんと寝ます」
ひかりは亮介がなにを言うのかを察していた。勉強前に散々こういう話をしたから当然なのだろう。しかし亮介もここは引けない。
「勘弁してください」
「勘弁しません。私の大事なミズコと一緒に寝たんだから。私だって一緒に寝たことないのに」
「それは謝るから」
「許しません。そんなに理性に自信がないんですか? ミズコから聞いた限り、凄く紳士的な印象を私は亮介さんに持ってるんですけど」
「自分の理性に自信はまったくありません」
「はぁ……、仕方ないですね。これも家出少女の定めです。覚悟します」
「覚悟はしないでください。僕の中のリトル亮介はいけないことだって言ってるから」
すると途端に眉を吊り上げてひかりは言う。
「もうっ! 本当亮介さんって面倒くさい人ですね。こんな美少女がいいって言ってるんだから、むしろ喜んで手を出せばいいのに」
「自分で言うかよ、それ。確かに認めるけど」
「認めてくれるんですね。嬉しい」
「とにかく世間にバレたら生きていけない」
「グダグダ言わないでください」
「……」
そう言われては、亮介はなにも言えなくなる。ひかりはため息を吐いた。
「はぁ……。仕方ないですね。わかりました」
「本当?」
「はい。本当です」
ほっと胸を撫で下ろす亮介である。ひかりが折れた。ミズコの時から通算でも初めてのことだ。
しかしひかりはそんなヤワな女ではない。それはリビングに布団を敷き、ひかりはリビングで、亮介は寝室のベッドで消灯してからだ。ある程度時間が経ってひかりは動いた。
「どんなんなんだろう?」
やはりミズコが惚れた男の寝床が気になる。どんな感じなのか、自分ならなにを感じるのか、興味が捨てきれない。ひかりはそっと寝室のドアを開けた。
亮介はベッドで弱い寝息を立てていた。夢の世界に半分と、まだ覚醒された世界に半分。そのくらいの深度の睡眠だ。そんな中、体の脇でベッドがグッと軋むのを感じた。
「うふふ」
ひかりは不敵に笑う。彼女に男の寝室に対する恐怖などない。そうなったらそうなったで構わないと投げやりなことを考えている。
それよりもミズコが大事だと言った亮介に興味がある。せっかくミズコが再度の入れ替わりを譲ったのだから、彼を多く知ろうと動いていた。
「ん? ひかり?」
掠れた弱い声で亮介が言う。目は半分も開いていない。ひかりは四つん這いの体勢で亮介の横から彼の顔を覗き込んでいた。
「あ、起きちゃいました?」
「ダメだって言ったじゃん……」
眠気に勝てずやはり亮介の声は弱い。しかしひかりは楽しそうに笑う。
「お隣失礼しますね。――きゃっ!」
その瞬間だった。亮介がひかりの背中に腕を回し、勢いよく抱き寄せたのだ。ひかりは亮介の胸に頬を強く当て、頭の中が真っ白になる。
「これはもう、そういうことでいいんだよね?」
やはり亮介の声はか弱い。しかし掠れた小さな声に男を感じる。当初は悪戯心も持って忍び込んだひかりだが、今では心臓が暴れていて、しかし受け入れなければと覚悟を決め、亮介の胸に頬を擦るように首肯した。
するとここで亮介がひかりの肩を掴んで一度顔の距離を取った。見上げた時のひかりは瞳を潤ませていて、それが魅力的で妖艶にも見えた。ひかりは瞼が半分だけ開いている亮介をじっと見下ろす。
しかし羞恥に耐えられない。ひかりの視線は泳いだ。ただそうは言っても亮介に肩を掴まれている体勢で視認できる情報は少ない。ひかりは枕棚に目を向けた。
「……」
薄暗い中でなにかを捉えたものの、一度目を亮介に戻した。しかしすぐ引き戻されるように、今度は勢いよく枕棚に視線を向けた。
「え……なんで……」
一瞬でひかりから表情が消えた。常夜灯のみの暗い寝室で彼女の表情は亮介にも伝わった。どうしたのか亮介には解せない。ひかりは明らかに別のことに意識が向いた。すると亮介はそれが気になって、徐々に冷静になる。
「どうした?」
「なんで?」
「え?」
「なんでなんですか!」
突然ひかりが叫んだ。それに亮介は驚いて半開きだった目が見開く。ひかりは怯えているようにも見える。掴んだひかりの肩から震えが伝わる。男に求められた女の怯えではない。それだけは亮介も理解した。
とにかくわけがわからない亮介はひかりごと上体を起こす。二人はベッドの上にペタンと座った。亮介は困惑するのに対し、ひかりの表情は相変わらずで、そこには亮介とは別の困惑も見える。
対面するひかりは亮介の肩越しに彼の背後を見ていた。亮介はそれが気になって振り返った。ベッドの枕棚しかない。そこにはそう多くはない小物が置かれているだけだ。
「なんでミズコと……」
「え?」
その声に亮介は正面に向いた。ひかりは表情が真っ青で、亮介の肩越しに何かを指さしていた。亮介はまた振り返る。そこには前妻の美姫と写った写真があった。亮介はこれのことかと思って写真立てごと手に取り、自分とひかりの間に示した。やはりひかりの目は写真を向いている。
「ミズコ……」
「どういうこと?」
「どういうことですか!」
亮介の疑問は取り乱したひかりの声にかき消された。
「なんで亮介さんとミズコが一緒に写った写真があるんですか!」
「は?」
亮介は驚いて声を張った。ひかりは睨むような視線を亮介に突き刺していた。
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