第6話 幻影。

 昨日までと同じように、父の分を作り置きしてから一人で夕食をとった俺は、ベッドに寝転がってスマホのロック画面をぼんやり眺めていた。父と一歳の俺と、そしてまだ生きていた母と三人で撮った、一枚だけの家族写真。これを見るたびに、俺の心は少し安らぐような気がするのだ。

 時々だけれど、母親にいて欲しいと思うことがある。親父はもちろん、幼い俺の面倒を見てくれた叔父さんや叔母さんには感謝してもしきれない。ただ、彼ら彼女らの存在が亡き母の代わりになるわけではなくて。


「俺に彼女がいたんだってさ、母さん」


 孤独には慣れているし、一人でいることはむしろ好きだ。でも時々、どうしようもない寂しさを感じることがある。そんな時、俺は決まってこの家族写真を見るのだった。


「夜神絢奈っていうんだ。俺なんかには勿体ない、綺麗で元気な女の子だよ」


 思春期の男子高校生なら、普通は両親のことなんて嫌いになるのだろう。うとましく思うのだろう。俺だって、それに近しい気分になることがないわけではない。真面目で寡黙で残業ばかりの父に、何か言ってやろうと思ったこともある。ただ、母に関しては全くなかった。母の死因すらも知らない俺は、写真の中にその幻影を追い求めてしまっているのかもしれない。母性という名の庇護を、あるいは俺を包み込んでくれるような温かさを。


 ――ならば、絢奈には?


 俺の恋人になってくれた彼女に、今の俺は何を求めているのだろう。一か月前の俺はどうして彼女を好きになり、何を求めて付き合っていたのだろうか。


「……デート、してみるか」


 公園でスケッチした後、わたしは逆方向なのでと手を振り、ポニーテールを揺らして走り去っていった絢奈の姿が脳裏によみがえる。デートの仕方なんて全く分からないけれど、例えどんなところへ行ったとしても、彼女と一緒ならきっと楽しいだろう。そんな気がするのだ。


 天王子のデートスポット、なんて似合わないワードで検索してみたら、美術館や公園、ショッピングモールなんかがヒットした。どれも悪くはなさそうだが、もう少しロマンチックな場所が良いかもしれない。ここは一つ足を伸ばして、都心の方に行ってみるのも――。


 あれこれ考えているうちに、俺はふと気づいて苦笑した。絢奈と出会ってまだ一日目なのにもかかわらず、もう当然のごとく彼氏面をしている自分に。誰かが傍にいてくれる、ただそれだけのことで、心はこんなにも満たされるものだったのか。


「まだ十時だし、絢奈に連絡でもするか」


 サプライズも良いけれど、彼女の希望をそれとなく聞いてみるかとスマホを開いた、まさにその瞬間のことだった。電気をつけていた自室の外が突然、昼間かと思うほど明るくなったのは。


「……何だ?」


 街明かりとか月明かりとか、そんなレベルでは到底なかった。閉め切った分厚い遮光カーテン越しに、朝の陽射しよりも遥かに強烈な光の奔流が雪崩なだれ込んでくる。混乱した俺はベッドから飛び起き、失明の危険など忘れ去って無我夢中でベランダに出た。


 言葉を失った。

 夜もすっかり遅いというのに、夜空全体が眩しく光っているのだ。一瞬、前に科学番組のCGで見た超新星か何かが出現したのかと思ったものの、そうではないことはすぐに分かった。


「光の、球……!?」


 見たこともない巨大な光源が、手の届きそうなくらい空の低いところに浮いていたのだ。

 そこから放たれている莫大な量の真っ白な光は、またたく星々の輝きをいとも容易く掻き消して、見渡す限りの世界を覆い尽くしている。その明るさは太陽の比ではない。


 形容するならば、それはまさしく――。


 慌てて目蓋を閉じ、腕で両目を必死に覆い隠しはしたものの、その光が圧倒的な威力で俺の目を焼き尽くすのは時間の問題だった。身体さえも物凄い熱量で融かされそうで、いよいよ死を覚悟した数秒後。

 光の天井はみるみるうちに収束してゆき、見慣れた夜空が戻ってくる。恐る恐る目を開けると、あの光源はちょうど手を伸ばした先の拳と同じくらいの大きさになっていた。俺はギリギリのところで失明せずに済んだのである。


 だが、異常現象は終わっていなかった。


「何だ? あの真っ黒なヤツは……」


 光源から少し離れた空中に、もう一つの異形がたたずんでいた。

 例えるならば、光さえも呑み込んでしまうブラックホールと言ったところか。


 片や光の源。

 片や闇の源。


 二つの異形はしばしの間、空中で静かに睨み合っているように見えた。虫の一匹さえも鳴くことの許されない絶対的な静寂に、息すらも出来なくなる。

 固唾かたずを呑んで見つめているうちに、両者の形が少しずつ変わってゆくのが分かった。真っ白な光の球が黄金色の光を、闇の塊は鮮やかな赤の燐光をそれぞれ纏い始める。


「もしかして……人、なのか…………?」


 俺がそう呟いた瞬間、危うい均衡は破られた。


 両者の姿が掻き消えたかと思うと、夜空に金と赤の鮮やかな光の軌跡が描き出される。俺の動体視力を遥かに上回る超高速で、彼らが頭上を飛び回っているのだ。それはさながら、二機の戦闘機が互いに相手の背後を捉えんとする格闘戦ドッグファイトのよう。しかし今この街の上で空中戦を繰り広げている両者の動きは、映画で見たことのあるそれより遥かに速く、しかも物理的にみて明らかに異常だった。

 急旋回、急加速、急停止。まるで瞬間移動するUFOのような機動。だが、俺の視界に残る異形の微かな残像は、機械というよりむしろ人に近い形をしているような気がした。必死に目を凝らすと、どうやら金色の方の動きが赤い方を上回っているように見える。その燐光の軌跡はまるで、赤い方からこの街を守っているかのようで――。


 両者が何度目かの衝突をしたその時、その間で猛烈な光が弾けた。直後に響き渡った爆発音は、慌てて耳を押さえる前にプツッと聞こえなくなる。鼓膜が破れたらしかった。無音の夜空に咲き誇る幾つもの赤い花火を正確に迎撃する、黄金の閃光の束の数々。しかしその隙を狙ったかのように赤い光線が市街地に降り注ぎ、巨大な火柱があちこちで上がった。燃え盛る建物、一斉に割れる窓ガラス。そして赤い燐光の本体が、不意に真っ直ぐ俺の方へ向かってきて。


「俺、死ぬのか……」


 赤い光の中に何もかも呑み込まれんとするその時、飛び込んで来た一筋の輝き。引き裂かれるような痛みに襲われて感覚が消失してゆく全身を、誰かが優しく、温かく包み込んでくれたような気がした。

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