緑の時代

ふじこ

ある研究者の述懐

 丸い窓の外へ広がるのは緑の海原だ。

 きっと穏やかな風が吹いているのだろう。細かに揺れ動く濃い緑色の葉は、太陽の光を受けて、その表面を光らせている。カメリア科の低木らの葉のように、分厚く丈夫な葉なのであろう。しかし葉がつながっているのは茶色い枝ではなく、同じく濃い緑色の蔦である。蔦は幾重にも重なり合い、絡み合って、一枚の大きな絨毯を形作っている。その絨毯は、地形に合わせて波打っている——へこみ、持ち上がり、あるいはビルの壁面を這っている。二度と点灯しないであろう信号機の支柱へと巻き付いて、三色の電灯を覆い隠している。その根元に、白い鳩が一羽ぽつんととまっている。蔦をついばんでいる様子なのは、そこへ虫でもいたのであろう。

 鳩がよく動く首を持ち上げるのを見届けてから、双眼鏡を下ろした。これ以上レンズの向こうをのぞき続けていれば、見たくもないものまでもが目についてしまうことだろう。すなわちあの緑の絨毯の下へは何が埋まっているかだ。私たちはそれをよく知っている。そのために、こんな小さく丸い窓ばかりのはめ込まれた「要塞」を築いたのだ。人の出入りが出来るのはただ一カ所、階段室の天井のハッチだけだ。ハッチを出た屋上からは、非常階段で緑の海原へ出ることが出来るはずだった。設計図でそうなっているというだけで、実際のところどうなっているかは知らない。知ることが出来るはずもない。ここを出るということは二度と戻って来られないということだ。実際のところがどうなっているか知ったものは、みな、あの緑の海原の一部になってしまっていることだろう。

 先月は一人だった。先々月はゼロ人だったが、その前は三人も出た。十二ヶ月を合計すると、十五人。十五人が、薄暗い階段室のハッチから外へ出て行くことになった。屋上から外へ出て行くという、そのことへ抵抗するのは一人もいなかった。どころか、自らすすんで申し出るほどだった。ただ、生まれたばかりの赤ん坊だけは、母の胸に抱かれて泣き叫んでいたように思う。その声も、彼らを送り出してハッチの扉を閉めてしまえば、すっかり聞こえなくなったものだった。いくら慣れたとはいえ、小さな命、新たな命、この場所にとっての希望が、みすみすあの緑へ飲み込まれていくのを見放してしまうことは、辛くもどかしい。そのせいか、泣き声が聞こえなくなった瞬間には、ほっとしたものだ。

「主任」

 聞こえた声に後ろを振り向くと、クリップボードを胸の前へ構えた丹生が、きちりと足を揃えてそこへ立っている。左手首の内側、腕時計の文字盤を見れば、時刻は丁度九時だ。ここでぼんやりと窓の外を眺め始めてから、もうそんな時間になっていたか。

「定例報告を」

「……うん、頼むよ」

「気温は十八度、O2濃度、CO2濃度共に異常なし、微粒子濃度は規定値以下。西側換気口のフィルターで除去した病原種子が通常時の五倍ほどになっていますが、これは今月に入ってからずっとです」

「そうだな、そういう季節だもの」

「偏西風、というやつですね。昔は、それによる公害がひどかったと聞きますが」

 丹生が報告すべき事項以外のことへ言及をした。それが何とも可笑しくて、私は自分の口元が笑みを作るのを止められない。ファジーだ。実にファジーな思考だった。人間に特有の論理の飛躍、とまでは言い過ぎかもしれないが、目的外のことへ意識が逸れるのを是と出来るのは、人間に特有のことであると思われる。なるべく人へ似せるように作られたアンドロイドと言えども、その部分を完全に再現することは難しかったようだ。それは「真面目な」「杓子定規な」という丹生への評価へ如実に表れる。だからこそ、彼は今割り当てられているような役割を請け負っている。そんな彼が無駄口を叩いたのだから、これが可笑しくなくてなんだろう。

「そうだよ。大陸から運ばれてくる砂漠の砂や……酸化物や硫化物の微粒子に、日本人は随分と困らされたものだった。まあ、もう関係ないけれどね」

「そうですね。所内の環境は外界の環境に関わらず、常に一定です」

「ああ、違う、そうじゃなくて……」

 丹生の相槌へ首を横に振ると、彼は視線を何もない宙へさまよわせて、小首を傾げた。ああ、まるで人間じゃないの。柔らかく冷たい皮膚の下へつまっているのが金属の歯車と関節の機構であっても。彼は「人間らしくあるべし」と作られたものなのであるから、私の思うようなことは彼らへの最大の賛辞なのだろう。そして、そうであってくれなくては困る。子供らが「人間とはかくあるもの」ということを学ぶのは、きっと、彼らからになるのだ。

「その昔は大陸から運ばれてきていたものが、今はもうそもそも存在しないだろうということ。工業地帯も砂漠も、すべて緑に覆われてしまっているでしょう、どうせ。まあ、世界規模のお手軽な緑化運動だったと思うべきなのかな」

「それは、冗談ですか」

「うん。笑えない冗談だよ」

 私はそう言いながらも笑っているのだから、丹生が言葉を止めてしまうのは無理からぬことだった。言葉と表情の不一致、これもまた、人間に特有のファジーさだ。彼らの中にはそれを理解する、理解しなくても是とする論理はプログラミングされているのだろうか。きっと、仕様書を紐解けば書いてあるのだろうけれども、残念ながら私は機械工学はからっきしだ。こうして、実際に相対する彼とのやりとりの中で、色々を推測していくしかない。それも随分と、面白いことではある。

「報告、続けてくれ」

「……はい。水質検査の結果です、こちらも異常なし。pH、微生物数、塩類濃度他すべて、規定範囲内です。所内研究員、及び居住者の健康調査の結果です、こちらも異常なし。体温、脈拍、血液検査、体表視診及び触診、全員がクリアです。女児の体温表だけ印刷をしてありますが、ご覧になりますか?」

「うん、後で。……妊娠している子たちの様子はどうだった」

「経過は順調です。出産まで後二月ほどですね」

「そう、なら良かった。前みたいに、母体も子どもも台無し、なんて自体にならないように、気をつけてケアしてあげて頂戴」

「はい。現在は身体面、精神面ともに安定しているようですが、一応、専属のカウンセラーをつけてありますので」

 そのカウンセラーは、君たちの中から? そう問いそうになったのをこらえてて、クリップボードを胸の前で構えたままの丹生を見上げる。生え際が露わになった広い額は、きまじめそのものの彼の特性を象徴しているかのようだ。きっと私が喉の奥へ押しとどめたこの問いは、彼を一層混乱させてしまうだろう。私の危惧は彼には伝わらないだろうから。それで、業務に支障を来してもらっては困る。いや、むしろその方がより「人間らしく」はあるのだろうか。

「……主任、今の報告へ何か問題でもありましたか?」

 丹生が平坦な声音のままでそう問うてくる。私は首を横へ振りながら、何でもないよと答え苦笑を返すばかりだった。

 私がここへ呼ばれたのはそもそもが植物学の専門家だったからであり、機械工学も脳科学も、そもそものところ動物も専門外だったのに、今となっては専門外だからと遠ざけてきたその全てへ興味が向かうばかりだ。専門家の絶対数が少ない為に、あれもこれもと手を出さざるを得なかったせいもあるだろう。人間を定義づけるものはその好奇心だ、という言を思い出さざるを得ない。私たちは種の危機に立たされておきながらも、その危機とは関係のない、個人の感情を優先することが出来る。私が外の緑の病原種子の正体を探ることよりも、今、目の前の彼が人間らしいということへ思いを馳せているのも、また、そういうことであろう。

「……いや、なんでもないよ。報告、ご苦労様。業務に戻ってくれ」

「承知しました。では、失礼いたします」

 丁寧にそう述べ、丹生はクリップボードを持つ手を身体の横へと下ろす。きちりと足を揃えたまま、腰を四十五度の角度へと曲げて礼をし、再び身体を起こすと、私へ背を向けてゆるやかにカーブする廊下を歩いていった。……子どもらに「準備運動」の指示をする頃だから、大部屋へと向かったのだろう。

 私も、そろそろ仕事を始めなければならない。若干の面倒くささをかき消すように、後ろ頭を手で掻いた。

 丹生が向かったのとは逆方向へ足を進める。円形の研究所の外周に沿って伸びる廊下は、当然こちら側にもゆるやかにカーブしている。しばらく進めば、右手側、建物の中心側の壁に、暗い昇降口が見えてくる。私は迷わずそちらへ進む。外の廊下とは違って金属で出来た階段は、踏みしめる度によく音が響いた。天井からつるされた古風な豆電球だけがわずか、明かりの役割を果たしている。薄暗く、手すりを握っていないとこけてしまうかもしれないので、慎重に一段一段くだっていく。転げて、滑り落ちたら一番下まで行ってしまうかもしれない。ぐるぐる渦を巻きながら下へと向かう螺旋階段は、さながら根のようではないだろうか。

 B2という表示のある踊場へ立ち止まる。手探りで扉の横にあるであろう端末を探し、指先へ触れた金属の冷たさの上へ、自分が首から吊しているカードをかざす。短い電子音の後、自動扉が開いた。その向こうは薄暗かった階段室とは似ても似つかない、白い明かりに溢れたスペースが広がっている。私はその明かりのもとへと進んだ。扉をくぐるとすぐ、背後で自動にそれの閉まる音がする。それが消えてしまえば、耳が痛くなりそうなほど、ここには音というものがない。人工的に作った密室というのはみなこうなのだろうかと、この場所へ足を踏み入れる度に思う。視覚以外からも訴えてくる閉塞感は、ひしひしと精神を蝕んでいく気がする。

 首を横に振ってそんな邪念を胸の底へとしまい込み、自分の部屋を目指す。上とは違って真っ直ぐに伸びる廊下の両脇には、壁と同じ白い扉が並んでいる。自分のネームプレートが掲げられている端末へカードをかざせば、扉がひとりでに横へ開く。すぐにカードを離して、暗がりの部屋へと進んだ。

 私が足を踏み入れればすぐに、部屋には白い明かりがともる。それに煌々と照らされるのは、三方と上面を黒い遮光の布で覆われた、数多の水槽だ。いや、水を入れているわけではないから、水槽とは呼ばないのだろうか。——ともかく、積み上がっているのは、黒く覆われた、透明なガラスで出来た箱なのだ。その中の様子は箱によって異なっている。条件の異なる実験をしているのだから当然だ。

 その近くへ寄り、水槽の中を、一面だけ透明なままなガラスの板越しにのぞきこむ。透明に見えるガラスにも、実際はフィルムが貼ってあって、紫外線の類は吸収している。なるべく、通時の暗条件へと近づけるためだ。その一点だけは、比較対照するまでもなく、発芽に必要なことが分かっている。

 水槽の底面の真ん中へ、シャーレがぽつんと置かれている。シャーレには湿った脱脂綿が敷き詰められていて、その上へは肉眼では確認出来ないほどの小さな種子がまかれているのだ。この条件では、種子は発芽しない。したがって、水と、無機塩類だけの暗条件は、不適ということだ。

 その横の水槽も、同じように、シャーレが置かれている。白い脱脂綿のほぼ全体が、緑色の小さな芽生えで覆われている。これが、脱脂綿に含ませる生理食塩水をベースにした溶液の各種成分を、人の体液濃度とあわせた暗条件で、つまり、やはり人の体内が発芽への最適条件ということを暗示している。これから鑑みるに、この種子から芽生える植物は、やはり、「人」を最終宿主とする、寄生生物なのだろう。

 更にその横の水槽を見れば、納得がいく。そちらの水槽の中のシャーレは、その面積の三割ほどが、緑の小さな芽生えで覆われている。こちらは、隣と同じ組成の溶液の、ある種の性ホルモンの濃度だけを、第二次性徴以前程度に保った条件である。この条件であると、発芽の確率が格段に落ちる。つまり「幼体」において、この種子は発芽し難いメカニズムを持っている。寄生生物は宿主があって自らの生存や繁殖を可能にするものであるから、宿主を絶滅させてしまう杜撰な戦略はもたないはずであり、この性質がその証拠だと言えた。

 また、更にその横の水槽を見てみれば、底面へ置かれたシャーレの脱脂綿は一番左のものと同じ、真っ白のままだった。一つの芽生えも、その上には観察されない。こちらは、やはり人の体液と同じ組成の溶液のうち、ある種の女性ホルモンの濃度だけを、高濃度に保ち続けた条件だ。すなわち、妊娠中の女性の体液と同条件なのである。つまり、種として存続していくために必要な「子」を身ごもっている女性は、この種子を体内に入れても発病することがない。種子が芽を出すことが、ないのだ。

 ただし、一旦発芽した種子の成長には、それらホルモンの濃度は影響しないようだった。上段の水槽は、芽生えのなかった二つはそのままだが、真ん中の、芽生えがあった二つは、同じ程度に緑で埋め尽くされている。

 見事な仕組みだった。第二次性徴を迎えた「生態」の体内でほぼ十割の発芽率をもち、それ以前の「幼体」あるいは「妊娠中」の体内では発芽率を著しく下げる。そして発芽の後の成長は……十分な水さえあれば、勝手に。私たち人が種として存続することを許しつつ、餌としている——そう、まるで、家畜のような扱われ方だ。私たちはこのまだ未知なる植物に生かされている。そう考えるだけで、背筋をぞくぞくと震えが這い上がる。

 なんて——素晴らしい時代に、私は立ち会えたのだろうか。

 かつて猿が頭部を発達させ二足歩行になり、樹幹から大地へ下りて火を扱うようになる過程において、寄生虫が大きな役割を果たしたという。寄生生物と宿主の関係というのは、それほどまでに大きな飛躍を生み出しうるポテンシャルを秘めている。私たちが目撃している世界の変化は、まさにその飛躍の最中だと考えて良いのではないか、と思う。

「素晴らしきかな、緑化運動、だね」

 それへ相槌を打ってくれる人は部屋の中には居なかったし、よしんば、誰か隣へ居たとしても、私の言葉へ素直に頷きはしないだろう。緑色をしたこの寄生生物の台頭を、素晴らしき、なんていう形容詞で表そうとする酔狂な人間は、生憎少数派なのだ。

 人類は——ホモ・サピエンスは、この悪魔のような緑の植物が地球上へ蔓延ることによって、種として一気に衰退した。その事実は、まったくもって否定できない。熱帯から亜寒帯にかけて、つまり、通常「樹木」と呼ばれるあらゆる種類の植物が生息可能な範囲において、この寄生生物は恐ろしい勢いで繁殖した——わずか三年で、極に近いごく僅かな地域を除き、陸地は緑に覆われた。人口の九割九分九厘は「苗床」にされた。残った一厘はわずかに人類へ残された極地で細々と生き延びているか、或いは、このようなシェルターへ隔離されて生きるか。いずれしかなかった。私は幸運にも、持ち合わせた知識故にシェルターへ隔離された、ごく一部の人間だ。それ以外には子どもと、人に似せて作られた「アンドロイド」とが、一緒にこの中で生きている。

 椅子を引いてきて、水槽の前へ陣取り、その緑で埋め尽くされた水槽の中を見つめる。一番上の段では、水槽の蓋を持ち上げて、太い蔦が中から這い出してきそうだった。そろそろ、油をかけて燃やしてしまわなければいけない。まさか研究所内で、種子をまき散らさせるわけにはいかないのだから。

 ——いくら大気と水源の管理を徹底しても、年に二桁は感染者が出る。感染者はすぐに外へ出してしまわなければいけない。唯一その為だけに、階段室の天井のハッチは使われる。

 きっとそのうち、この研究所も緑へ覆い尽くされるだろう。丸窓からは緑の海原ではなく、太い蔦とその表面の細かい産毛と、濃い緑色の分厚い葉が見えるようになるに違いない。換気口はもはやその役割を果たさず、地下水をくみ上げるポンプには細い蔦が絡まって動かなくなるだろう。天井のハッチは開かなくなり、研究所内にも人の形をした緑色のオブジェが幾つも立ち並ぶことになるだろう。私のこの部屋の水槽からは太い蔦が這い出して、部屋の床と壁とをその緑色で覆い尽くすことだろう。

 恐ろしくないと言えば嘘になる。けれども、それ以上の期待が私の胸の中にはあった。この部屋を出て、薄暗い螺旋階段をのぼった先に伸びる緑の廊下——もとは白かった緑の絨毯の敷き詰められた廊下を、手と手を取り合って歩く、二人の赤ん坊の姿が、私の脳裏にはありありと思い浮かぶのだ。それは確実に、進化だ。私たちは新たな種の誕生を祝福しながら滅びゆくことが出来る、幸福な種になるに違いない。

 恐ろしく、楽しみだった。その、新たに生まれるだろう種の僕たる私に出来るのはいつか来るその日まで、この緑の神の使いについて、出来る限りのことを調べ尽くしておくことぐらいだ。こうして、危険を承知の上、様々な条件下での生育実験を行っているのも、その一環だった。

 興奮のためだろうか、溢れてくる唾を飲み込む。

 ——そういえば、最近、なんだかやけに喉が渇く気がする。

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