ヴァンパイアと子爵令嬢
朝姫 夢
前編
「っ…!」
飛ばされたのは、どこかのお屋敷のバルコニーらしい。とりあえずは、まだまともな場所であった事に安堵する。出かける予定ではなかったのでマントも羽織っていない状態だが、かろうじて誰かに出会っても失礼のない格好をしていたことだけがまだ救いか。とはいえ、出会い頭に「たまには人間界にでも行ってこい」などといきなり飛ばされてはかなわない。美貌を僅かに顰めほんの少し乱れてしまった闇色の髪を整えつつ、赤く薄い唇から小さくため息をこぼす。
「全く…父上も大概無茶な事を…」
「何者ですか!?」
独り言に返答があったことに若干眉を顰めつつ声のした方を見てみると、一人の侍女がこちらを睨みつけていた。何かを守るように立っているその姿から、どうやらこの屋敷の主の部類に属する人間の部屋らしいという事だけは分かった。
(また、面倒な場所に飛ばしてくれたものですね…)
ため息を吐きたい衝動を何とかこらえて、侍女に向き直る。人を呼ばれる前に彼女には退散してもらわなければ、今よりさらに面倒な事になるのは目に見えていた。月明かりを浴びて輝いているように見える蒼の瞳を、瞬時に紅へと変化させる。
『知らぬ存在など現れなかった。君はいつも通り仕事を終えて部屋を出て行く。いいですね?』
「はい…」
人を魅了する紅い瞳。暗闇の中光る双眸を直に見てしまった侍女は、一瞬にして彼の傀儡と成り果てる。
「それではお嬢様、お休みなさいませ…」
先程とは打って変わって落ち着いた様子で、彼女はいつも通りに部屋を後にする。大切な主の部屋に不審者が侵入した事も、かけられた言葉さえも彼女の記憶からは綺麗さっぱり消えていた。操られていた事実など、彼女の中では初めからなかった事。当然と言えば、当然だろう。
「さて、と…」
侍女を追い払っただけでは、まだ彼のやるべき事は終わっていない。この部屋にはもう一人、お嬢様と呼ばれていた人物がいるのだから。
「あなたは……だぁれ?」
いまだ紅い瞳の彼を真っ直ぐに見つめてくるのは、まだ年端もいかぬ幼い少女。長く艶のある自身と同じ闇色の髪が、少女の肌の白さをより際立たせていた。ほんの僅かなうねりのある部分に、柔らかく月光が乗っている。
『君は何も見なかった。いいですね?』
「……そういうわけにはいかないわ。わたしの目の前に、見知らぬきれいな男性がいるのだもの」
「え…?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。それほど衝撃的だったのだ。瞳の魔力が効かないというのは。
「ねぇ、さきほどのはなぁに?どうして侍女を下がらせることができたの?それに、あなたのお名前は?」
興味津々といった様子で見つめてくる少女の青い瞳には、一切の怯えは見られない。この少女、よく見れば目鼻立ちも随分と可愛らしく、成長すれば大層な美人になるであろう事が予想出来る。にも関わらず、だ。この男…というより、もはや不審者と言っても過言ではない存在に対して、こんなにも警戒心が無くて大丈夫なのだろうか。他人事ながら、どうにも将来が心配になってしまった青年である。
「ねぇ…教えて下さらないの?」
再びの少女の問いかけにため息をつきたい衝動をぐっとこらえ、彼は一度瞼を閉じて瞳の色を元の輝くような蒼へと変化させた。
「小さなレディ?誰かに名前を尋ねる時は、まずは自分の方から名乗るようにと教わらなかったのですか?」
「貴族のたしなみでしょう?しってるわ。でも、あなたは貴族かどうかもわからないし…」
成る程言われてみれば、確かに。しかも今の状況では、明らかにこちらの方が不審者な訳で。ここは
「そうでしたね。これは失礼致しました。私はハイル・クラシカと申します」
胸に手を置き、優雅にお辞儀をして見せる。その動作だけで、上流階級の者だと分かるように。
「はじめまして。わたしはリーファ・エレメントと申します」
青年の礼に、少女も寝間着姿のままではあるが、スカートの裾を摘みちょこんとお辞儀をしてみせた。それは普段、貴族の女性がする挨拶の仕方と同じで。どうやら貴族だと認めてもらえたようだと、とりあえず安堵する。
「それで、さっきのはいったいどうやったの?」
キラキラと期待に満ちた目で見つめられて、子供特有の切り替えの早さについ小さく苦笑してしまった。
「そうですね…」
さて、どこまで話していいものかとしばし思案する。相手はまだ幼い少女。ならばたとえ真実を話したところで、本人は夢だったと思うかもしれない。もしそうならなかったとしても、少女の話を真に受ける大人など存在しないだろう。それこそ、夢を見たのだと判断されて終わる。ならば、話してしまってもそこまで問題にはならないだろう。
とは言え、念のため一つだけ予防線を張っておくことにする。
「誰にも言わないと、約束してくれますか?」
「それは…いまから話すこと?それともあなたのことを?」
「私に関する全てを、です」
その言葉に、少女は大きな目で数回瞬きして。それからにっこりと笑った。
「約束するわ。けっして、だれにも話さない」
だから早く聞かせろと言わんばかりに、全身から期待を溢れさせる。そんな少女の様子に、今度は可笑しさを覚えて。小さく微笑んだ顔は、久しくしていない表情だった。
* * *
「ヴァンパイアだと言って、君は信じてくれますか?」
「それがほんとうなら、信じるしかないわ」
部屋に置かれているベッドに二人並んで腰かけて、少女に下から覗き込まれるように見つめられる。
「おや。君は人ではない存在に、恐怖を抱かないのですか?」
「だってあなたはこわくないもの。命を狙ってくる人と、人じゃないけれど話ができるあなたなら、わたしはあなたを選ぶわ」
さらりとそう答える少女の瞳には、確かに恐怖心は欠片も見当たらない。むしろ好奇心ばかりが先に立っているような気もしないでもないが。とはいえ、返答の仕方はとてつもなく極端である。なぜ人かそうでないものかという二者を比べる時に、生死が関わるようなたとえを持ち出してくるのか。その思考回路が、よくわからない。貴族の令嬢ならば、見知らぬ男が侵入してきた時点でどちらかと言えば貞操の危機であることを意識すべきなのではないのか。いや、誓ってハイル自身にそんな気はなかったし、そもそも少女趣味でもないのだが。しかし……
「…………何と言うか……変わっていますね」
「そうかしら?」
本人に自覚はないようだが、普通は皆人間を選ぶだろう。理解できないものにより恐怖を覚えるのが人間なのだから。何より、そこまで極端な考え方はまずしないと思うしできないと思う。にもかかわらず、まるで当然とでも言いたげにこちらを見てくるその瞳。ハイルにとってこのリーファという少女は、どうにも調子が狂う相手だった。
「でもヴァンパイアって、ほんとうに人間をあやつることができたのね」
「……そこは、感心するのではなく恐怖するところでは?」
「むやみやたらに使うわけではないのでしょう?」
「そうですが…」
「それなら問題ないわ。でも、どうやって言うことをきかせるの?」
少女の瞳に映るのはやはり、純粋な知的好奇心のみ。人間を操れると知ってなぜ恐怖心を抱かないのか、それが彼には不思議だった。自分が操られるとは微塵も思っていないからなのか、それとも幼いがゆえに、まだその本当の恐ろしさに気づいていないだけなのか。どちらにしても、やはりこの少女はおかしい。変わっているなどという可愛い表現で済ませてしまっていいものなのかと考え込みそうになるくらいには、ハイルの知っている人間たちとは明らかに違っていた。
とはいえ、そんな疑問も困惑も一切表には出さず、少女の質問に律義に答えていく。
「先程の私の瞳の色を覚えていますか?」
「さっき…?えっと、たしか……きれいな、赤だったわ」
「その瞳に、人は魅了されるのですよ」
「そう、なの…?たしかにきれいだったけれど…」
「本来は、と言うべきなのでしょうね。何故か君には効果がないようですが…」
「リーファよ」
「え…?」
いきなり言われた言葉の意味が理解できずに、一瞬呆けてしまう。いや、言葉は分かっている。少女の名前だ。しかし、なぜこのタイミングでそんなことを言われたのかが理解できない。それなのに、少女はその大きな瞳を険しいものへと変化させてしまう。
「"君"じゃなくて。わたしの名前はリーファよ」
見上げてくる瞳に、小さな怒りを映しながら。拗ねたような顔をして、僅かに頬を膨らませている。そこでようやく理解した。名乗ったにも関わらず、一切名前を呼ぶ気がなさそうだったことに少女は腹を立てたのだ、と。小さな体で精いっぱい怒っていますと主張してくるその姿に、再び苦笑が漏れて。けれどそれはすぐに、柔らかな微笑みへと変化した。
「そうでしたね、すみません。では、私の事もハイルと」
「…敬称をつけなくていいの?」
「おや。でしたら私もリーファ嬢とお呼びするべきですかね?」
「いやよ、そんなかたくるしい呼ばれかた」
貴族社会では普通のことなのに、なぜかまた頬を膨らませてプイッとそっぽを向いてしまう。敬称をつけなくてもいいのかと覗き込んできたときには、ほんの少し不安そうな顔をしていたというのに。コロコロと変わるその表情の変化がなんだかおもしろくて、ついつい顔の筋肉が笑みを形作ってしまう。
「では、お互い敬称なしと言う事にしませんか?」
「……そうね。そのほうが、なんだかうれしいわ」
その、はにかむように笑った少女に。
一瞬、目が奪われた――
まだ幼いはずの彼女が、ハッとするような何かを見せた気がしたのだ。それはまるで、固い蕾が花開かせようとしている瞬間にも似ていて。
「ハイル…?」
怪訝そうに名前を呼ばれて、自分が思った以上に長い間彼女を見つめ続けていたのだと初めて気付く。咄嗟に微笑みを浮かべて、ベッドから腰を上げた。
「さて、私はそろそろ行かないと。長居しすぎましたね」
「え…もう行ってしまうの…?」
お互い立ち上がったせいで、リーファの視線がより上目遣いになる。その表情は、寂しそうで。罪悪感が一瞬胸を過るが、初めから出会うはずはなかったのだと思い直す。突然湧き上がってきた謎の感情には、気づかなかったふりをして。
「リーファはもう寝る時間だったのでしょう?あまり遅くなってはいけませんから」
言いながら、振り返らずにバルコニーへと出る。少々急ぎすぎているような気もするが、今は一刻も早くこの得体のしれない胸のざわめきから解放されたかった。
すると後ろから焦ったようにリーファがついて来て、袖口の部分を小さな手できゅっと握る。
「リーファ?」
「……ま…」
「ま?」
「……また、きてくれる…?」
「っ!?」
不安からか、顔を上げずにそう問いかける少女の手は、小さく震えているように見えた。
その、姿に。
どくりと、心臓が大きく脈打つ。
(……まだ幼い少女相手に、私は何を…)
頭では、どこか冷静な自分がそう告げているのに。月明かりに照らされた少女から、目が離せなかった。ただの人間であるはずの彼女に、魅了の力を使われたかのような錯覚に陥る。そんなことはあり得ないと理解している。けれど、そうとしか思えなかったのだ。だって……
「……リーファが望むのなら、時折顔を出しましょう」
気付いた時には、口が勝手にそう告げていたのだから。まるで、彼女の望み通りに動かされたかのように。
「ほんとうに!?」
弾かれたように顔を上げた彼女の表情は、嬉しさと驚きの両方を浮かべていて。その素直な感情表現に、先ほどまでの焦りが霧散していく。代わりに今日何度目か分からない苦笑が漏れた。
(少しくらいこの少女に付き合ってみても、いいかもしれませんね)
いつか少女が飽きるか、自分が飽きるか。もしくは自然と会わなくなるかもしれないが。それでも長い長い年月のほんの僅かな時間、この少女と過ごしてみるのも面白いかもしれないと思うくらいには、自分の中にも少女への興味が湧いてきていた。
「えぇ。いつ、とは断定出来ませんが。そうですね…月の綺麗な夜にでも、また会いましょう」
「うんっ…!まってるから!」
ヴァンパイアの青年と人間の少女の奇妙な夜の逢瀬は、こうして始まった。
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