第4話


 その後一時間ほどして予定通りヨゾラの配信は終わった。

 しかし後半はどこか覇気がなく、リアクションも薄い様子に、星の子たちからは心配の声が上がっていた。


「……来ねえ」


 現在、時刻は午後八時半。俺はもう三十分も前から自宅前で立っているが、呼び出した当人はいつまで経っても現れない。


「ていうか、やっぱり何かの間違いなんじゃないか? だって、あいつは――」


 数時間前。夕暮れに濡れる教室で、寝起きの俺に全開の陽キャカップルぶりを見せつけてくれた天ヶ原の様子は記憶に新しい。

 そもそも、あの後すぐツイートだって確認したじゃないか。そう考えると、天ヶ原がヨゾラ本人だという話には無理があるような気が……


「帰ろ」


 なんだか酷く疲れた。もう、立っているのも辛い。

 ……そういえば、学校から十五分くらい全力ダッシュで帰って来たんだもんな今日。運動部でもない俺にとっては筋肉痛必至の愚行だ。

 だいたいそれだって天ヶ原のせいなわけだし。もうこれ以上あいつに振り回されるのはごめんだ。

 そう思って、俺が踵を返して家に入ろうと思った時だった。

 

「なんだ、随分早く待ってんじゃん」


 隣家のドアが開き、天ヶ原が顔を出した。

 流石にあのままのキャミソール姿というわけもなく、ニット生地の長袖シャツにジーパンという装いだ。それでも素材がいいから、随分垢抜けて見える。


 ……しかしこいつ、結構着痩せするタイプなんだな。窓越しに見た時より、身体のラインに凹凸が少ない……って、今それはいいだろ。


「いや、そっちが遅れたんだろ。俺はもう三十分も前からここで待ってるんだが」


「何言ってんの。用事入ったから八時半に変更ってライン送ったじゃん」


「……スマホ部屋に置きっぱだった」


 思えば最初に天ヶ原から連絡が来た時にベッドの上に投げたままだ。そりゃ、連絡がつくはずもない。


「なんそれ。ずっとスマホも無しで何やってたわけ? ……まあいいや、とにかく上がらせてくんない? 寒いし」


「は⁉ 上がるって、うちにか?」


 驚きすぎて、俺は外というのも忘れて大声を上げる。


「他にないっしょ。あんたをうちに上げんのは嫌だし」


「いや、ならここでいいんじゃ――」


 とてもじゃないが、家の中は女子を上げられる状態じゃない。だから俺は、何とかして天ヶ原を招くのを阻止したかったのだが、


「――こんなとこで話せるような内容じゃないでしょ。これからする話は」


 氷のように冷たい声で鋭く言われて、俺はそれに反論する事が出来なかった。



「えっと、汚いとこだけど、頼むから、というか絶対に気にしないでくれ」


 結局あのまま押し切られる形で天ヶ原を家に上げることになった俺は、最後の抵抗とばかりに念押しする。


「……ほんとに汚いわね。玄関からこれじゃ先が思いやられるんだけど」

 

 背中に刺さる視線が痛い。

 しかし、反論も出来ないほどに玄関にはごみ袋やら服やらが散乱していた。

 

「まあ、男の一人暮らしだからな。その辺は勘弁してくれ」


「一人暮らし……? こんなでっかい一軒家に?」


「ああ。……まあ、色々事情があって」


 俺が少しぼかして言うと、天ヶ原はそれ以上何も追及してこなかった。


「リビングは玄関よりましだから、とりあえずそっちに――」


 そのままリビングの方へと先導するも……天ヶ原は付いて来なかった。


「ちょ、おい!」


 俺の制止も聞かず、彼女はずんずんと階段を上って行ってしまう。

 俺はそれを慌てて追いかける。


「待て! 止めろ! そこは――」


 先に二階に到着した天ヶ原は、迷いなく一つの扉の前に立つと、それを開けた。


「俺の部屋、だから……」


 そう、天ヶ原が明けた扉の先にあったのは、さっき彼女と窓越しに対面した俺の部屋だ。


「知ってる。あんたの部屋だと思ったからここに来たんだし。……ふーん、さっきはあそこからアタシの部屋を覗いてくれちゃったわけね。そういえば、さっきのアタシ、だいぶ大胆な格好してたわよねぇ?」


 天ヶ原は薄暗い部屋の中をズンズンと進むとカーテンを開き、自分の部屋の窓を見てふむ、と頷くと俺にジト目を向けてくる。


「もういいだろ。話ならリビングで――」


ここはダメだ。あまり長居して欲しくない。

あまり見られたくないものが多すぎる。


「――ダメ。話をするならここ以外あり得ない」


 しかし、天ヶ原はてこでも動く気が無いらしい。

 窓の前で両手を組み、仁王立ちをしている。


「……見たんだよね? アタシの部屋の中」


「――っ。……ああ」


 有無を言わさぬ強い口調に、俺はただ肯定する事しか出来ない。


「『ヨゾラなのか』あんたはそうはっきりと口にした。その問いに、まずは答えようか……んんっ」


 鋭い視線で俺を見据えていた天ヶ原は、突然咳払いをする。まるで、声のチューニングをするかのように。

 そして途端、視線に優しさが宿る。


「――こんそらです。バーチャルアイドルの、星海ヨゾラですっ! ……答え合わせは、これでいい?」


 ――直後。聞こえて声は、俺の知る星海ヨゾラそのものだった。


「あ……ああっ……」


 何か言わなければいけない。そんなことは分かっている。

 しかし、さっきから喋ろうとしているのに上手く声が出ない。

 聞き間違えるはずもない。何百何千と聞いてきたヨゾラの声そのものだ。

 だが、生では初めて聞いた。当たり前だ。彼女はバーチャルアイドル。仮想の存在。本来決して相まみえることはない。


 しかしその分、その破壊力は想像を絶するものだった。


 甘い声が鼓膜から伝わり、脳を蹂躙して、全身に快感に似た痺れを走らせる。

 歓喜で叫び出したいような、感動にむせび泣きたいような、色んな感情がごっちゃになって、どうしたらいいか分からなくて、とりあえずその全てを己の内だけに抑え込む。

 きっと今、俺の顔は凄いことになっているだろう。部屋が暗くて良かった。


「ちょっと、何かしたらリアクションはないわけ? アタシ、結構恥ずかしい思いして今のやったんだけど?」


 天ヶ原が痺れを切らしたように催促してくる。


「ほんとに、ヨゾラが現実に……」


 しかし、自身の感情だけでいっぱいいっぱいの俺には、それに答える余裕がない。

 絶対に報われない恋。ただの一度、会うことすらも叶わない。そう思いながらも全てを懸けて愛してきたヨゾラが今、目の前に……


「……幻滅した? ヨゾラの中身が私で」


 ――その最中。 

 感動に暮れる俺とは対照的に、彼女は自嘲気味に、吐き捨てるようにそう尋ねて来た。


 ――だが、そんな彼女のこぼれた本心さえも、今の俺の耳には届いていなかった。

 返事の代わりに、俺の両頬を熱い涙が伝い落ちた。


「え? ちょっ、なんで泣いてるわけ⁉」

 

「ご、ごめん、自分でももう、抑えきれなくて……」


 天ヶ原の驚きの声で、俺はようやく意識を現実へと引き戻した。

 見れば、彼女はかなり困惑していた。まあ、突然目の前で男が泣き崩れたのだから当たり前だろう。

 女子の前で涙を晒すなんて、男として恥ずかしい事だって分かってる。だけど、今は感情が制御出来ない。防波堤が決壊して洪水のように流れる涙が、止められない。

――だが俺には、そんな激情に抗ってでも言わなければならない事があった。


「突然こんなこと言うのもあれだけど……ありがとう。星海ヨゾラという存在を生んで、今日まで活動して来てくれて。……もし、本人に会えて話が出来たなら、これだけは言おうとずっと思ってたんだ」


 もうすっかり力が抜けて立っていられなくなった俺は、膝から地面に崩れ落ち、少々みっともない姿勢で、しかしそんなことは気にせず全身全霊の感謝を天ヶ原に――ヨゾラに伝えた。

 どこが好きだとか、どの配信が面白かっただとか、細かく数えれば伝えたいことはそれこそ無限にあった。けど、たった一つに絞り込むとしたらそれは、感謝以外にあり得ないのだ。何故なら、


 ――なぜならヨゾラに出会っていなければ、俺は今、生きてはいなかっただろうから。


「……感謝だけ?。……目の前に推しの中身がいて、感じるのがそれだけなんてあり得ないでしょ。ほらもっと、中身がアタシがっかりしたとかってキレたりとか、その、例えば、これをネタに私を脅して色々させようとか、そういうのはないわけ……?」


 例えば、と言っているが、天ヶ原の声は酷く震えていた。


 確かに、Vtuberにとって身バレは一大事だ。中身がどんなに素敵でも、ただバレてしまうだけで活動休止になることもざらにある。

 その為彼女たちはバレないように配信上での声を変えたり、リアルの話を出さないようにして、特定されないよう気を付けている。

 だからもし、彼女の言うように俺がこの情報を使い脅せば、例えば性的に屈服させる、なんてことも出来るかもしれない。実際そういう内容の同人誌がVtuber界隈には溢れている。


「……しない。絶対に。それでヨゾラの活動に影響が出る方が困る。ヨゾラは、俺の全てだから」


 だが、俺はそう断言した。


 相手は校内でも一二を争う美少女だ、邪な期待はゼロじゃない。今も俺の中の悪魔は勿体ない、手を出してしまえと囁いてくる。現に、彼女はそう言われてしまえば断れないから怯えているのだろう。

 けど俺は、その何倍も、何十倍も、俺の醜い欲望のせいで『星海ヨゾラ』の今後を汚してしまう方が――嫌なのだ。


「……なんそれ。意味、わかんない……」


 口ではそう言いつつも、ほっとしたのか、嬉しかったのか、気付けば天ヶ原も目に涙を浮かべていた。

 

 そうして俺たちはしばらく、互いに異なる感情を抱きながら、薄暗い部屋の中で静かに泣き続けた。

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