飛び込んでく、泉の中、何も迷わずに

柿尊慈

飛び込んでく、泉の中、何も迷わずに(起)

「こりゃ事故じゃないかねぇ、やっぱ。よくても自殺だ。動機はわからんがね。水の流れが早いわけでもなし。泉が指紋を落とすような性質を示しているわけでもなし。仮に後ろから押された際、衣服に指紋がついたなら、それが落ちるようなことはないだろう。なのに指紋は検出されていない。ということは押されたわけじゃない」

 気だるげな加瀬月かせづきさんの発言に、僕はつい言葉を強めてしまう。

「手袋などをつけていたなら、指紋がつくはずもないでしょう」

「いつだかの、劇場での殺人みたいにね。もちろんそれもありえなくはない。だが怪しげな手袋が破棄されているわけでもない。死亡した男性が飛び込んだであろう場所に残っていたのは、彼自身の足跡と、今日この場にはいない、ここらいったいの持ち主の老紳士の足跡だけ。今日この場にいないのだから殺人者にもなりえないし、土地の所有者なら足跡があったっておかしくない」

 納得がいかず、なんとなくちらりと横を見ると、僕以上に眉をひそめる沢辺さんの姿があった。

 ぼりぼりと頭を掻いて、加瀬月さんが言う。

「今回君は働かなくていいということだよ、河童場かわらばくん。引きこもりがちな君が、珍しく外でのアクティビティ的な活動に精を出そうとした日に限って死人が出たんだ。色々と思うところはあるだろうが、これは単なる事故なんだ。君が責任を感じる必要はないし、聞き込みをしてぐちゃぐちゃとした人間関係を暴き出す必要もない。無邪気に楽しむことはできんだろうが、せめてこの大自然の中で悲しみを癒すといい」

 加瀬月さんは部下の人たちに何か言うと、警察の方々は遺体を運び出し始めた。あれだけゲームに乗り気で、ギラギラした目つきだった彼が、数時間後にはただのしかばねだ。判別がすぐにつく程度に顔面は無事だったものの、頭部の裂傷はひどく、そこから覗く人間の中身は、改めて見ると複雑でグロテスクだった。

 大自然の中、宝探し。さっきまで歩き回って汗をかいていたぐらいなのに、今となっては体が冷えているように感じる。汗で冷えているのか、それともこの独特な、事件の臭いともいえる空気に、体が反応しているのか。

 透き通るまではなくとも、綺麗な水色をしていた泉は、血が混じって赤黒く変色している。




 事件発生から2週間ほど前のこと。

 大学の最寄り駅からしばらく歩くと、別の路線の駅に出る。そこから電車に乗って数駅行くと、大きめのショッピングモールがあった。市外や県外からも客が訪れるので、週末の駐車場は他県のナンバープレート展覧会のようになっている。

 数少ない女友達の沢辺さんから、そこでの買い物に付き合って欲しいという連絡があり、僕はせっかくの――とはいっても、大学生ゆえあまり貴重さは感じない――土曜日に、荷物持ちという労働を味わうことになった。労働と言ったものの、もちろん給与は発生しない。

 初めて彼女を見たときは背の高い美青年とセットだったので気づかなかったが、彼女は意外と背が高く、ヒールを履かれると僕は彼女を見上げなければならなかった。彼女との接点は大学での事件だったが、僕が恋人にあてる手紙の内容に対してアドバイスをもらったり、時折大学内で挨拶したりすることはあったものの、大学を離れた場所で一緒に歩くことはなかったので、妙に新鮮な気持ちになる。ちゃんと友達らしいことをしてるじゃないかという、くすぐったいような恥ずかしい気持ちのせいもあろう。友達というか、荷物持ちだったけれども。

 さて、改めて見るとすらっとした美人である沢辺さん。黒く艶っぽいショートヘアは、前に行くほど長くなっており、後ろから見るとうなじが見える。ややつり目で、厳しそうな印象を抱かせるうえ、アイメイクがより一層それを強めていた。しかし実際に関わってみると、そのストレートな物言いや態度は、気分を害すよりはスカっとすることが多い。

 しかし繰り返すように、いかんせん事件について調べている中で出会った人なので、その交友関係などは全くわからないままでいた。かろうじて、法学部であるという情報は知っていたけれど。

 荷物のお礼に代金は出すよと言われ、休憩がてら写真映えのするカフェに入ることになった。

 注文待ちの間の会話は、例えばこんな感じ。

「そうだ河童場くん、カメラ始めたんだっけ?」

「そうなんですよ。でも、そもそも僕そんなに外出ないから、使う機会なくて」

「わざわざ高いの買ったのに、もったいない」

「一応今日も持ってきてはいるんですけど、まさかショッピングモールの中でパシャパシャと撮るわけにもいかなくって」

「じゃあ、ここで私を撮ることね。元々、犯人を綺麗な写真に残しておくために始めようと思ったんでしょう? 外で見栄えのする公園探してもいいけど、人物撮る方が練習になるわよね」

「別に僕、そんなに沢辺さん撮りたくないんですけど」

「おいこら」

 とまあ、普通の会話だ。恋人同士のものでも、恋愛対象として意識し合ったものでもない。僕には罪を償っている最中の恋人がいる。そして彼女にも同じような――僕が罪を暴いたせいで、しばらくは社会から隔離された環境で暮らしているであろう男友達がいるのだ。

「とびきり綺麗なこの瞬間を写真に残して、南くんを悔しがらせたいのよ」

 ほとんど聞こえないような小さな声だったが、僕にははっきりと聞こえた。思わず謝りそうになったが、タイミングよく順番が来たので、気まずくならずに済む。

「……あれ? 黒府こくぶじゃん」

 注文ではなく、そんなことをぽつりと呟いた沢辺さんの目線の先には、同い年くらいの女性の店員さん。やや茶色がかった黒髪は接客のために後ろで結ばれているが、解くとそこまで長さがないことが想像される。ぱちりとした瞳。かわいらしい顔立ちをしているので、彼女目当てで来店する客がいてもおかしくはないだろう。

「沢辺ちゃん! なんか久しぶりだね!」

「あんた働いてるの、こっちの店だったっけ? 地元の方じゃなかった?」

「今日はヘルプで来てるの。向こうは地域の人しか使わないような店だけど、こっちは県外から来る人も多いから、人手不足になるってことでよく呼ばれるのよ」

 完全にハブにされているが、僕は沢辺さんたちを観察することに徹したので、そこまで居心地は悪くなかった。

 後ろにお客さんもいるということで世間話を切り上げ、ふたり分の注文した沢辺さんは、スマートフォンを操作してから何かよくわからないことを黒府さんというらしい女性に告げると、レジの上に飾ってあったQRコードを読み込んだ。沢辺さんが現金を出さずに会計を終えると、僕たちは注文の品を待つ列に並び直す。

「今流行りの、キャッシュレス決済ってやつですか」

 僕はぼそりと呟く。

「便利よ。河童場くんはあんまり、こういうの使わないと思うけど」

「まず、QRコード自体あまり馴染みがないですからね」

 本当に、連絡先を交換するときくらいしか使わない。さらにいえば、僕は人間関係が希薄なので、新たな知り合いが増えること――および、連絡先を交換することが少ないのだ。

 触れないのも何なので、僕は笑顔を振りまく、先の女性店員の方を見て言った。

「彼女は、沢辺さんのお知り合いですか?」

「そう。大学入りたての頃に所属してたサークルで一緒だったの。私はその年のうちに辞めちゃったけど、黒府とはたまに会ってるのよ」

「何のサークルですか?」

「宝探し」

 僕は首を傾げる。

「小学校の頃とか、やったことない? 教室のどこかに消しゴムを隠しておいて、それを探す、みたいな」

「それ、大学生がやっても面白いんですか?」

「調べてみるとわかるけど、世界の一部では流行っているのよ? もちろん、小学生が教室でやるようなレベルじゃないけどね。宝探しの会社が地域活性化のためにプランニングすることもあるんだから。宝を探し歩くから、自ずと地域での滞在時間も長くなって、お金を落としやすくなるというわけ」

 なるほど、なかなか面白そうな事業だ。というか、そういうサークルがうちにもあったんだな。

「山登りサークルってのは聞いたことありますけど、そういう子どもの遊びみたいなのもあるんですね」

 ぼんやりとそんなことを呟いたのだが、沢辺さんからジロリと睨まれた。ビクリとしてしまう。すると沢辺さんは一転ニヤりとして、意地悪そうに言った。

「実際にやってみると、子どもの遊びなんて言ってられないわよ。私が辞めた理由のひとつでもあるけど、あれはもはやスポーツよ。かなり下準備が必要な、ね」




 沢辺さんの買い物に付き合った土曜が明けて、例によって予定のない日曜も過ぎる。刺激のない月曜日がやってきた。

 はずだったのだが、昼過ぎたあたりでスマートフォンがメッセージ受信の通知を受け取る。沢辺さんからのものだ。何だろうと思い、アプリケーションを開く。

「今日、ヒマ? 連れていきたいところがあるのよ」

 連れていきたいというより、先日の買い物のように連れ回したいところなんじゃなかろうかと思う。

「僕はいつでも暇ですよ」

 淡白に、そんな返信を送る。自虐的だが、そばに笑ってくれる人がいないので空しくなった。

 ちょうど僕は図書館に来ていて、先日借りたカメラの本を返却したところだ。カメラの構造や仕組みにやたらと詳しくなったような気がしているが、撮影のスキルは一向に上がらない。そもそも、撮る機会がないからだ。最後に撮ったのはカフェでの沢辺さんだが、どうにも本来の美人ぶりが収められなかったような気がする。それは沢辺さん本人も思ったようで、「河童場くんは触ったカメラの質を下げる力でも持っているの?」という失礼だがぐうの音も出ない評価を頂いた。

 さて、そろそろ卒業論文のために、乱歩の本を色々借りておかないと。そう思って、僕は返却カウンターから階段を上り、3階に向かう。エレベーターを使ってもいいのだが、僕はどうにも、エレベーターで誰かとふたりきりになるのが苦手だった。健康のために階段を使っているのだと、自分に言い聞かせる。

 乱歩の本は何度か借りていて、既に大学図書館にある分は全て読んでいるのだが、ただ娯楽として読むのと研究のために読むのとでは大違いだ。改めて、文章の表現や題材、時代に注目しながら読んでいく必要がある。

 もはや通い慣れた道だったので、迷子になることなく乱歩の棚――正確には、日本人作家のあ行の棚に辿り着いた。

 珍しく、人がいる。眼鏡をかけた女性。黒く長い髪はややもっさりと、肩甲骨のあたりまで伸びている。手には乱歩の本。立ち読みをしているようだった。やたらと熱心に読んでいるが、まさか立ち読みで読破するわけじゃないだろう。もしかしたら、何か読みたい話があるのに思い出せなくて、片っ端から手をつけているのかもしれない。

 同志に出会った気になるが、まさかハイタッチするわけにもいかず、僕は遠慮がちに、小さな声で話しかける。

「このあたり少し借りたいんですけど、何かそれ以外に借りる予定のものはありますか?」

 女性はびくりとして本を閉じ、僕と本棚をちらりと見てから言った。

「いえ、用があるのはこれだけなので……」

「そうですか、ありがとうございます」

 お礼をいうと、僕は片手で掴めるだけ乱歩の本を手に取る。その様子にやや女性が驚いていたような気がしたが、気にしない。どうせ全部読み直すのだ。順番などどうだっていい。


 そこから少し時間が経ってから、僕は沢辺さんに連れられて、サークル棟のある部屋の前にやって来た。サークル名らしきものが見当たらないドア。いったい僕は、どこのサークルに連れ込まれようとしているのだろうか。

「じゃあ、行きましょう」

「いや、ちょっと!」

 沢辺さんがノックもせずにドアを開けて、手首を掴まれていた僕も入室せざるをえなくなる。バランスを立て直すと、狭い部屋に人が数人いるのに気づいた。

「――ええと、はじめまして」

 ぼんやりと挨拶をしてみると、くすりと女性の笑い声がした。窓際に座っている女性のものだ。見覚えがある。ああ、そうか。

「この間の、店員さん?」

 僕の言葉に、黒府さんが笑顔で頷く。今日は髪を結んでいない。毛先はゆるりとくねっており、本人の柔らかな印象を表しているようだった。

「こいつ、例の名探偵じゃないか?」

 青緑色のソファーにもたれて、黒い髪をさらりと伸ばした、あまり感じのよくない男性が言う。顔立ちは整っているようにも見えるが、やや面長で、目も細く鋭い。なんとなくバンドマンの――歌は歌わずにギターを弾いているようなイメージを抱く。背もたれに片方の腕をかけて、堂々と――というか、ふんぞり返って座っている。どう見ても、僕の来訪を快く思っていない。

「君があの名探偵かい!? いやだな、黒府さん! そんなすごい人が来るなら、ちゃんと教えてほしかったよ!」

 入口に一番近い椅子に座っていた、少し天然パーマっぽい髪質の男性が言った。目を見開いて僕を見ており、なぜか手を差し伸べてくる。なんとなく手を握ってみると、感動したように強く握り返してきた。

 黒府さんは男性ふたりの言葉が飲み込めていないようで、わたわたとしながら僕を見て、小さく首を傾げる。

「ええと、名探偵だったんですか?」

「いやまあ、自分で名乗ったことはないんですけれども……」

 ロン毛の男性が、聞こえるようにフンっと顔を背けた。続いて舌打ちがしたが、それは男性によるものではなく、僕の隣に立っている沢辺さんの出した音。ちらりと見やると、彼女と男性が静かに、しかしメラメラと視線をぶつけているのがわかった。

「いや、勝手に盛り上がってしまってすまないね。僕はこの宝探しサークルの責任者をしている、椎谷しいやという者だ。君の噂は耳にしているよ。この大学の学生が犯人となった2件の殺人事件を解決に導いた名探偵だってね! ええと、何だったっけ?」

「河童場です」

 名前が思い出せないのだろうと察したので口を挟んでみたが、まさに求めている答えだったようで、椎谷くんは手を叩いて喜んだ。

「そう、カワラバくんだ! まさか君のような有名人が、僕たちのサークルに体験入部してくれるとは思わなかったよ!」

 その言葉に、バッと沢辺さんの方を振り向く。彼女は舌を出して目を逸らした。

 体験入部? ちょっと待ってくれ。どうして僕が宝探しなんか……。

「どうして僕たちのサークルに興味を持ってくれたのかな?」

 椎谷くんが、僕の思考にほとんど被せるようにして問いかけてくる。ものすごいいい人なのは間違いないが、いかんせん僕にはテンションが高すぎるように感じた。織羽くんや沢辺さんくらいドライな方が、僕の友達には向いているのかもしれない。

「ええと、地域復興の授業を今取っていて、宝探しが地域の活性化に使われているのを知ったので、最終レポートのためにも、宝探しの魅力を知りたいなと……」

 ものすごい、嘘をついている。そんな授業は取っていない。隣で沢辺さんがニヤニヤしているのがチラつく。ええい、後で覚えてろよ。いや、何も仕返しなんかできないんだけども。

「名探偵は、学業に対しても誠実なんだね! いやぁ、すばらしい!」

 褒め言葉のシャワーを立て続けに浴びているので、褒められることに慣れていない僕は立ちくらみのような感覚に陥った。

「それで、お前は何しに来たんだ、沢辺?」

 ロン毛氏が言う。

「河童場くんひとりをここに送り出したら、あんたみたいな意地の悪い男にいじめられると思ってね。ボディガードよ、ボディガード」

 沢辺さんの言葉。たしかに、単身ここに来たら彼に目をつけられるだろう。しかし、そもそも僕は「ひとりで」ここに来るようなモチベーションはないわけで、何なら沢辺さんは、僕を守るというよりは反応を楽しんでいるような節がある。

「辞めたのによくもまあノコノコと――」

 ロン毛氏がぶつくさと小言を漏らしたのを防ぐように、椎谷くんが手を叩いて話し始めた。

「まあまあ、そこはいいじゃないか! 同じサークルに所属はしてなくとも、僕たちと沢辺さんは友達なんだから」

 椎谷くんは咳払いをする。

「さて、こちらの髪の長い彼は良知らちくんだ。良く知っていると書いて、良知だよ。その名前に恥じぬ知識や知恵をもっていて、彼はなぞなぞなどの仕掛けを考えることが多いんだ」

 その良知氏は、もう僕たちに話すことどころか興味すらないかのように、スマートフォンをいじっていた。スマートフォンのケースには、丸っこいアクセサリーのようなものがついている。今時、スマホケースだけでオシャレが完結するのに、アクセサリーなんて珍しいな、と思う。

 椎谷くんは、自己紹介なんか絶対にしないぞという、良知氏からの無言のプレッシャーを汲み取って、視線を黒府さんに移す。

「で、彼女が黒府さん。既に会ってるだろうからあまり紹介するまでもないだろうけど、見てわかる通り穏やかな女性だね。僕たちはたまに、地域の子ども向けに簡単な宝探しイベントを行うことがあるんだけど、彼女は特に子どもに人気だね。子どもが彼女に懐いて、宝探しどころじゃなくなることもある」

 黒府さんが笑う。

「それを言ったら、椎谷くんだってそうじゃないの。子どもたちはみんな椎谷くんのこと、お兄さんお兄さんって呼んでくっつくものだから、予定してた時間の通りに進行しないこともあるのよ」

 黒府さんが僕にそう言うと、椎谷くんは恥ずかしそうに頭を掻いた。椎谷くんの方はあまり彼女を意識していなかったようだが、僕は彼に向ける黒府さんの視線が、通常よりも熱をもっていることに何となく気づく。そして、それを睨んでいる良知氏の視線にも。

「で、もうひとり……」

 椎谷くんは、ドアの裏側を指差す。僕はそこを覗き込み、ドキリとする。ドアで隠れた場所に、ひとりの男性が座っていた。良知氏のように意図的に、ファッションとして伸ばしたものではなく、伸ばしっ放しになっているような黒髪。前髪が目元にかかっているため、目が合わない。

芽方めかたです。よろしく……」

 芽方くんは、俯いたまま、まるで僕たちを怖がっているかのように、小さな声で挨拶をした。目を合わせてくれないのはアレだが、そもそも挨拶する気のない良知氏に比べれば、幾分かまともに見える。

 黙り込んでしまった芽方くんの代わりに、椎谷くんが話し始める。

「彼と僕は、小学校からの付き合いでね。工学部の学生で、プログラミングなんかに強いから、少し大がかりなイベントをやる時には、彼が必要不可欠なんだ。やさしい性格だけど、臆病なところがある。付き合っていくうちに、心を開いてくれると思うけど、よろしくね」

 隣でボソッと、沢辺さんが呟く。

「半年所属してたけど、私には心開いてくれなかったわよ」

 僕は半笑いになる。沢辺さんの小言が聞こえていなかったからか、椎谷くんは僕の笑みを誤解して、にっこりと笑顔を返してくれた。

 椎谷くんが、窓から外を覗きこむ。しばらく考えるようなポーズをしてから、僕たちに振り返って言った。

「沢辺さんは気づいているだろうけど、ここにはもうひとりメンバーがいてね。普段ならこの時間には来てるんだけどな……」

 沢辺さんは部屋の外に出ると、しばらくサークル棟の廊下を歩いて行く。途中でひとりの女性と目が合って、少し立ち話をすると、つかつかと早足で戻ってきた。

「来たよ、実花みか

 部屋に戻ってきた沢辺さんは、親指で廊下の方を指す。

「そう、実花さんね。実花というのはファーストネームじゃなくて、苗字なんだって。珍しいよね。色々と本を読んでいるからか想像力が豊かで、宝探しのストーリーは彼女が考案してくれることが多いよ」

 などと話をしているうちに、背後に人の気配を感じて振り返る。

「あっ」

 僕と彼女は、同時に驚きの声を出した。

 さっき乱歩を読んでいた女の子じゃないか。




 大学の最寄り駅から歩いて5分ほどのところにある小さなカフェで、再会を祝した女子会が行われている。そして困ったことに、そこに僕も参加させられていた。

「私たち6人は、入学前のオリエンテーションで同じグループだったんだけどね」

 アイスティーのレモンをストローでつつきながら、沢辺さんが言う。ストローで突き崩された果肉が、紅茶の海に沈んでいく。

「参加必須じゃない、色んな学部が入り混じったやつね。私と良知はそのときからウマが合わなかったんだけど、あまりにも椎谷の熱がすごかったもんだから、渋々参加したのよ」

 実花さんが、眼鏡を拭きながら反論する。

「そう言いつつ、なんだかんだ楽しんでたように見えたけどね、沢辺は」

 黒府さんがうんうんと頷く。話に混ざれない僕は、へぇ~という間抜けな声を出しながら相槌を打つだけのマシーンとなっていた。

 フォークをつまみあげて、沢辺さんがため息をつく。

「まあ、あんたたちと一緒にいるのは、そりゃ楽しかったんだけどさ」

 沢辺さんは、3つに分かれたフォークの先に指を当てながら続けた。

「まず、椎谷のテンションについていけなかった。いいやつなんだけどね。一緒にいると疲れるのよ、あいつ。会うのはオリンピックくらいの頻度でいいかな。

 次に、企画運営にかなりの時間と体力をもっていかれること。その辺の公園使うにも許可が必要だし、子ども向けのイベントにしたって売り込むのが大変。万が一怪我でもさせたらうるさい親もいる。何より私が子ども得意じゃない。

 で、最大の原因が良知ね。犬と猿の方が、私たちより仲いいと思うわよ。宝探しの要になる部分は結局あいつを頼らなきゃいけないから、あいつとのやりとりは避けて通れない道だった。とはいえ、あいつと話してるとフラストレーションが溜まるから、楽しみよりも苦痛が上回った感じかな」

 沢辺さんはフォークを突き立てると、チョコレートケーキを口に運ぶ。押し潰されたスポンジが、時間の経過と共に元の形に戻ろうとし、完全に元通りに膨らもうとする瞬間、彼女の唇に閉じ込められる。

「それより、あんたたちはまだ付き合ってないの?」

 沢辺さんは腹話術のように、口を開けず黒府さんへ言った。話すか喋るかどっちかにしなさいという、よくある注意に対しての最適解かもしれない。

 言われた黒府さんは少しだけ顔を赤らめると、取れそうなほど首を横に振った。

「椎谷くんは私のこと、そんな風に見てないだろうし……」

 さて、困ったぞ。4人でいるのに、ふたりで盛り上がられてしまった。ただでさえ居心地が悪かったのに、いよいよ僕はどうしたらいいかわからなくなった。お金をおいて逃げ出してしまおうか。というか、どうして僕はこの場にいるんだ。

 ええっと、状況を整理すると?

 来週末に、身内だけで宝探しゲームをやるらしい。身内だけとはいっても、決して手を抜くわけではなく、今後の企画に役立てるための練習のようなもの、だそうだ。椎谷くんの親戚の男性が山を持っているとか何とかで、そこを借りて何かできないか、という企画らしい。今回のストーリーや仕掛けは黒府さんがメインで考え、それを実花さんがサポートする予定だ。

 で、僕はその身内だけの宝探しゲームに参加させてもらうことになって、サークルはそのまま解散したはずなんだけど、久しぶりだしケーキでも食べようよという女子的なノリから何故か逃れられず、今に至っている。おかしいんだよな、ここが。僕は女子じゃないんだよ。実際混ざれてないんだよ、全然。っていうか沢辺さん以外とは今日が初対面だってば。人見知りに何たる仕打ち。

 ああ、なるほど。さては沢辺さん、女子会に巻き込まれてワタワタしている僕を見て楽しんでいるんじゃないですか? ケーキの名前が厄介で全然注文できなかった僕を、面白がっていたんだな?

「――なんか、江戸川乱歩をたくさん借りてましたよね」

 沢辺さんが黒府さんをからかい始めたので、僕は実花さんに話しかける必要があったのだが、幸いなことに向こうから話題を振ってくれた。

 僕はコーヒーを口に含んでから答える。

「ええ、そうなんです。僕は江戸川乱歩を研究していて、もう大学にあるものは全て読んでいたんですけど、調べるためにまた読み直そうと」

「だからあんな、鷲づかみして借りていったんですね」

 僕は頭を掻く。

「そういうことなんです。……実花さんも、何か読んでましたよね。何を読んでいたんですか?」

 実花さんはしばらく、皿の上のケーキを見つめていた。クリームチーズをふんだんに使った真っ白なケーキに、ミントとレモンが乗っている。その脇には、外されていた眼鏡が置いてある。

「ええと、『赤い部屋』って作品なんですけど、わかりますか?」

 乱歩をあらかた読み尽くした僕が、『赤い部屋』を知らないわけがなかった。

「ええ、知っています。あれは乱歩の作品の中でも初期のもので、谷崎潤一郎の『途上』にインスパイアされたものです。オチについては賛否両論あるようですが、僕はスカッとしたのと同時にモヤッとしました。作り話でよかったという思いと、こんな気分の悪い嘘があるかっていう……」

 実花さんはうんうんと頷いてくれる。

「さすが、乱歩を研究されているだけありますね。谷崎潤一郎の作品へのリスペクトがあったなんて、知りませんでした。谷崎はあまり読んでこなかったので、今度『途上』の収録された本を図書館で探してみようと思います」

 彼女が本気で読もうとしているのか世辞で言っているのか判別がつかなかった僕は、目の前で読むことはさすがに強要しなかったけれども、しばらく自分のスマホを操作して、その画面を実花さんに見せた。谷崎の『途上』が表示されている。

「著作権が切れているので、今はウェブ上で閲覧できますよ。本の方が読みやすかったり、好みがあったりはすると思うんですけど」

 実花さんがスマートフォンの画面を覗き込む。ぐっと顔が近づく。仰け反るわけにもいかないので、何もないかのように振る舞うが、女性らしい甘い香りが鼻に飛び込んできたので、口だけで息をしようと必死になる。

「すみません、どうにも目が悪くて……。ずっと眼鏡をかけているのも疲れるので、外しちゃったんですけど……」

 実花さんは、僕の画面と見比べながら自分のスマホを操作した。

「見つかりました。ありがとうございます。家に帰って、寝る前にでも読んでみますね」

 などと言いながら、彼女はまだスマートフォンをつついている。しばらくして、今度は彼女の方が画面を見せてきた。

「よかったら、連絡先を交換しませんか? 感想とか、お話できればなって」

 例によって、QRコード。

「ええ、いいですよ。ちょっと待ってくださいね」

 未だに、読み込む画面まで辿り着くのに時間がかかる。乱歩の話でエンジンがかかったのか、僕はその間実花さんに質問して、間を持たせることに成功した。

「そういえば次の企画は、黒府さんと実花さんが考えてるんでしたよね? 普段は良知くんが仕掛けを考えているって話でしたけど、今回良知くんの力は一切借りないんですか?」

 実花さんが温かい紅茶をすする。一瞬、黒府さんの視線が実花さんに向いた気がした。それに気づいているのかいないのか、実花さんは温まった唇を開いて、紅茶の香りを漂わせながら言う。

「今回は、良知にも参加してもらうんです。宝探しに必要なのは体力と知恵だけど、良知はどっちも兼ね備えてる。私たち女子はそんなに運動得意じゃないし、椎谷くんは途中宝探しそっちのけで自然と戯れるし、芽方は私たちよりも体力がない。普通にやったら、良知が圧勝してしまうんですよ。

 それに、仕掛けを考えた本人である良知は問題を知っているわけですから、楽しみが半減してしまうわけです。仕掛けの場所は各々がランダムに決めてるんですけど、どこに隠しても良知はぽんぽん見つけ出すし、ぽんぽん解いてしまうんです。だから、当然良知は宝探しを楽しめない。毎回参加せず、本部のテントとかでぶすっとした顔をしてるんです。それを哀れに思った心優しい黒府が、彼も楽しめるような宝探しをしたいって言ったのが今回の始まり。子ども向けじゃなく、メンバーの知り合いなんかを呼び合って実施できたらって。そうすれば、良知よりも身体能力の高い人が出てくるかもしれないから、彼も必死になって遊べるだろう、ってことです」

 なるほど、今回の宝探しは黒府さんの、良知氏への優しさから来るものだったんだな。


 そのわりに、当の黒府さんはうかない表情をしているけれど。


(承に続く)

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