――観覧車――
「本当に、アレに乗るのか……?」
ガラス窓から明かりのもれる高い建物。最上階のさらに上の方を見上げて、佐倉が呆然としたように言った。質問、というよりは呟きに近かった。
大通りからは少し外れた繁華街。周りには高層ビルや商業施設が立ち並ぶ。すぐ近くに有名な商店街もあって観光客にも人気があるからか、すっかり陽が落ちた時間になっても通りは人でにぎわっている。その多くは若者と仕事帰りの会社員だ。飲み屋も軒を連ねる界隈だから、もっと遅い時間に歩けば嫌でも酔っぱらいの姿を見かけるだろう。
そういうのは、高校生の俺たちにはまだ早い。うちの学校にも非行に走る生徒は少なからずいるようだが俺にも、当然、佐倉にも縁がないものだ。
「佐倉が高いとこ大丈夫なら」
「平気だけど……、男二人で乗るものじゃないだろ」
「男でも女でも、カップルでなら一度は乗ってみたい乗り物じゃん。観覧車って」
そういうものなのか……、などとぶつぶつ呟いている佐倉の腕を引っ張る。
読書好きなくせして、彼は色々と疎い。俺にはよく分からない小難しい単語を急に使ったかと思えば、今時の若者なら知っていて当然なことをよく知らなかったりする。居候の身で、あまりテレビを見る機会がないせいか。
俺は佐倉の手を引いて建物の中へ入る。多くの人が行き交うフロア内をエレベーター目指して歩きながら、朝の出来事を思い出した。
「へぇ。今ってこういう音楽が人気なのか」
ワイドショーを見ながら朝飯を食べようとしていた時のこと。
冷蔵庫の中に四枚だけ残っていた食パン、トースターで香ばしく焼いた一枚にバターをつけながら佐倉が言った。彼が関心を示したのは、今話題のアーティストとして取り上げられていた男性ボーカルバンド。十代~二十代を中心に人気を集めているバンドで、代表曲は今やこの国で聞いたことのない人間はいないんじゃないかというくらいに流行している。
が、佐倉の口振りはあたかも例のバンドの存在すら知らなかったようなものだった。バンド名を口にしてから「知らないの?」とたずねると、案の定、彼は「知らない」と答えた。
「えー……、今年の夏に発表した曲なんかものすごい人気なのに。本当に聞いたことない? ほら、こういう曲」
佐倉の無知が信じられず、俺は件の流行歌を鼻歌で歌って聞かせた。それでも首を傾げられ、マジかよと苦笑する。ひょっとしたら、俺の鼻歌が下手過ぎたせいかもしれないが、そのワンフレーズさえ耳にすれば知ってる! と誰もがうなずくことは間違いないような特徴的なメロディーだから、佐倉は本当に知らないのだろう。
「じゃあ今度、CDで聞かせてやるな。
「美郷ちゃんがCDを貸してくれたら、な」
「あー、熱狂的なファンだからなぁ。だめだったらネットで聞けばいい」
「そうじゃなくて。あの子が江森にすんなりと私物を貸すかな、って思って。なんというか、あまり信用されてないような」
「一回、一緒に食事しただけで分かるくらい、俺はあいつから信用されてないのかよ。普通にいとこ同士で仲いい方だと思うけど。つか、佐倉が聞きたがってるって言えば秒で貸してくれると思う」
どうして、と言いたげに俺を見て瞬きを繰り返す佐倉。
熱いコーヒーが入ったマグカップをテーブルに置きながら、俺は深々とため息をついた。つくづく自覚の足らないやつだ。
「……なんなの。さっきから」
朝の何気ないやり取りを思い返している内に、自然と口元が緩んでいた。エレベーターの隅の方に並んで乗り込み、三階を通り過ぎたあたりで佐倉の小さな呼びかけを聞いた。
「ごめん。なんでもない。ちょっと思い出し笑い」
「やめろよ、こんな場所で。不審者だと思われるぞ」
「俺、まだ高校生だぜ」
「充分、不審者として扱われる年齢と見た目だ」
「伊織は悪いことしても捕まらなさそう。美人っていいよなー」
「だからっ、……名字で呼べって」
小声で話している間に、エレベーターは最上階へ着いた。
俺たち以外でこの階で降りたのは、男女のカップルが三組ほど。みんなそろって同じ方向へ歩いて行く。ついてゆくと、ほどなくして観覧車の乗り場が見えてきた。
順番を待つ列に並びながら、雪がちらつき始めた空を見上げた。
厚い雲がかかっていて一つも星は見えない。冬の夜空といえば、大抵はこんなものだ。晴れている日の方が圧倒的に少ない、と俺は思う。
「星、今日は見えないな」
残念そうな声。隣りを見れば佐倉も空を見ていた。
「冬の夜って、なんかいつも曇ってる気がする。星なんていつも見えないし」
「見える日だってあるよ」
「満天の星空も? ……見たことある?」
佐倉がうなずくと同時に、列が前へ進んだ。
「小さい時、星を見につれて行ってもらったことがあるんだ。親に。名前は忘れたけれど流星群が見頃な時で、それをテレビで見かけた俺が見に行きたいってせがんだらしい」
何歩か進み、二人して立ち止まる。俺たちの前にはさっき同じエレベーターに乗ってきた三組が順番待ちをしている。雪も降っているし寒いのに、誰もが楽しそうだ。負けないくらいに俺も楽しんでいるけれど。
佐倉は――伊織はどうなんだろう。
「せっかく見るんだったら明かりの少ない場所で……って、レンタカーを借りてわざわざ遠くまで行った。隣町の、街灯も少ない田舎道に車を停めて、そこから少し山の方まで歩いて行ったら真っ暗でさ。民家が何軒かあるくらいは本当に、なにもなくて。そこで見た星空は今でも忘れられない」
「……どんなだった?」
「とにかくすごかった。流れ星はたくさん見られたし、他の星もくっきり見えたよ。名前なんて知らなくても、見ただけでなにかの星座だなって分かる並び方をした星が、いくつもあった。もう少し星座の本とか読んどけばよかったなって、子供ながらに後悔したけど。……まあ後悔したのは後のことで、星を眺めている間は感動してて、寒いのも忘れてた。ああいうのって、映像とか写真で見るよりも肉眼で見るのが一番なんだよな」
黒い瞳は、灰色の雲以外にはなにもない夜空をまだ見上げていた。観覧車に施されたイルミネーションが映り込んで、色とりどりの輝きが黒色に反射しては溶け込むように消え、また浮かびを繰り返している。
実家の近所にある空き地、草むらに寝転んで夏の星空を見上げた時のことを思い出した。
田舎町だから、晴れてさえいれば星がよく見えるのだ。近くに遊ぶところなんてものはなくて、中学生になると誰もが都会に出て行きたがった。今時の子供は自然に囲まれて遊ぶより、雑多な街にあるゲームセンターに行きたがる。あまりにも娯楽のない田舎には、年を重ねるごとに俺も飽きていった。
けれど星だけは別だった。故郷で見上げる星空を気に入っていた。実家を出てからは、星を眺めるなんてこともなくなってしまったが、もし帰省したら俺はまた懲りもせず空を見上げるだろう。
気がつかなかっただけで、冬の晩にも星は見えていたのか。
いつか、また実家の前で冬の夜空を見上げる日がくるのだろうか。根気強く観測すれば、雲一つない星空を拝むことだってできるかもしれない。
「ちょっと、なにしてんの。もう俺たちが乗る番なんだけど」
グイグイ腕を引っ張られ、驚く。気づくと、前にいたカップルたちの姿がなくなっている。
係員に迷惑をかけまいと佐倉は必死だ。腕を絡めて、図らずも俺たちの目の前にいたカップルと同じ格好になっているけれど、それに気づく余裕もないらしい。周りからは、クリスマスを一緒に過ごす彼女もいない寂しい男同士がやけくそで、または慰め合う意味で観覧車に乗りにきた……、みたいな光景に捉えられているのだろう。
れっきとしたカップルなんだけど、傍からは分からないだろうな。
赤い色をしたゴンドラに乗り込んだ直後、重い音を立てて扉が閉められた。その瞬間、二人きりの空間は静まり返る。
「この椅子、あったかいな。シートの下にカイロでも仕込んであんのかな」
「……ヒーター、だと思うけど」
向かいに座る佐倉へ相槌を打つ。
なんだか居心地が悪そうにしている。目はちゃんと外の景色を見ているようだが、純粋に楽しんでいるわけでもなさそうだ。
「緊張してる?」
「……してない」
「今の、俺じゃなくても分かるぞ。嘘だって」
子供にも平気で嘘をつく母親に育てられたせいか、俺は物心ついた頃から他人のつく嘘に敏感だった。彼女はどちらかといえば嘘をつくのが上手かった方だ。ろくに勉強もせずに遊びと野球に熱中していたガキがそれでも母親の嘘を見抜けたのは、子供特有の敏感さがあったからだろう。知らぬ間にコツを身につけ、持っていては損な特技と分かっていながらも今まで磨き続けた。野球を抜けば、俺にはこれしか残らない。
佐倉の嘘は分かりやすい。黙っていればなにを考えているのか分からないが、誤魔化そうとする時だけはすぐに分かる。嘘をつくのが苦手な人間の典型だ。
見栄を張ってばかりの女より、よっぽどつるみやすい。
でもまさか。つるみやすいからとちょっかいを出している内に、こうして一緒に観覧車に乗るような仲にまで発展するとは。
つい半年前まではお互いに存在すら知らなかったのに。
佐倉とよく話すようになったのは、ただの紙切れがきっかけだった。鬱陶しいと思われている。分かっていてもなお近づいたのは、一緒にいると何故か落ち着いたからだ。無理に取り繕おうとしない、佐倉の人柄を無意識に好ましく感じたのだろう。
当時は彼女もいて、野球部の四番に抜擢されて、恵まれた日々を送っていた。毎日、平凡に幸せだった。何気なく佐倉に声をかけたのも、平凡な暮らしの中で生じた平凡な気まぐれの一つに過ぎなかった。
どんなに些細な気まぐれにも、それなりに意味はあるのかもしれない。ひょっとしたら、運命というものは本当にこの世界に存在していて、あらかじめ決められた選択肢の中から俺たちが正しい方を選ぶかどうか見守っていたりして。佐倉に話せば「馬鹿馬鹿しい」と一蹴されてしまうだろうが。
「隣りに座ってもいい?」
たずねた時には、すでに腰を浮かせていた。
「は、な……なんで」
「せっかくだし、伊織が見ているのと同じ景色が見たい」
名字で呼べと、ついさっき頼まれたばかりなのに、つい下の名前で呼んでしまう。
睨まれるかと覚悟していたら、案外、曖昧にうなずかれただけで、佐倉はガラスの向こうへ目をそらしてしまった。何処かぎこちない態度が気になるものの、俺はこれ幸いと彼の隣りに移動した。
厚ぼったいコートを身にまとった肩と肩が触れ合う。佐倉が、あからさまに俺から顔をそむけた。照れているらしい。
恋人の可愛らしい素振りを目にする度、顔や手に触れたくなるのは俺の悪い癖だ。
「夜に乗ったのは初めてだけど、ずいぶん街の灯りが明るいなぁ。雪のせいかな」
「……昼間に、乗ったことあるの」
「うん。田舎からこっちに来てすぐ、叔母さんに街の中を案内してもらったんだ。その時に、一回だけな。観覧車なら、幼稚園くらいの時に親につれてってもらった遊園地でも乗ったけど、あまり楽しいとは思わなかった。進むの遅いし、退屈でさ」
かろうじておぼえている、両親との思い出。頭の片隅から引っ張り出して話すと、可笑しそうな笑い声がすぐ隣りから上がる。
「確かに、江森はそういうの苦手そうだよな。遊園地ではジェットコースターとかお化け屋敷とか、とにかく迫力のあるアトラクションをまず選ぶだろ」
「そうそう。佐倉は遊園地、行ったことあるか? どんな乗り物が好きだった?」
「俺は……、ブランコみたいなアトラクションが好きだった。回るやつ」
「あー、あの振り回されるやつな。あれ、俺も好きだったな。夏は乗ってる間は涼しいけど、止まった途端に地獄になるっていう」
「暑いのは観覧車も同じだよな。夏なんて蒸し風呂みたいだろ」
「降りるまでひたすら外の景色見て、暑いのを我慢してたなぁ。今考えると、なんのために乗ったんだか」
外を眺めながら佐倉が短く笑う。声が反響し、不思議な色を帯びて俺の耳まで届く。
小さい頃は退屈でしかなかった乗り物。あの頃は好きではなかったけれど、なんのためにあるのか、一周するまでの時間をどんなふうに過ごせばいいのか、少し大人に近づいた今ならよく分かる。
「ねえ。今、なに見てる?」
膝の上に置かれた白い手に素早く自分の手を重ねる。
耳元でたずねたせいか、華奢な両肩が大きくすくめられた。刺激には敏感らしいと知ったのも、昨夜のことだ。
近い、と彼の唇が声なく呟く。
「……雪」
「雪。街の様子じゃなくて?」
「だって、こんなに高い位置から雪が降る光景を見たことなかったから」
言われてみれば、そうだ。雪はいつも、地上を歩く俺たちの遥か上空から降っていた。でも今は、違う。ゴンドラは雪が落ちていく方向とは真逆に動いている。空へ近づこうと、上昇しているのだ。
「きれいだな、雪。街より何倍も」
「うん」
「……よかった」
「なにが」
「佐倉と同じ景色、しかもこんなにきれいな景色を見られて。来て正解」
ごく近くでこちらを見上げる顔に、笑みが浮かぶ。たまらなくなって「キスしていい?」と聞いたら、苦笑しながら「だめ」と言われた。
だめと言われたら、やりたくなってしまうのが人の性だ。
唇にしようとすれば逃げられると思い、前髪をかき上げて額に口づける。呆れているような照れているような、ため息に似た音が聞こえた。
「佐倉さ、今日も泊まっていかねぇ?」
「それは質問、それともお願い。どっちにしても、俺は帰るけど」
「じゃあ、家の近くまで送っていく……これならいい?」
「いい……けど、なんで」
「一秒でも長く、お前と一緒にいたいからさ」
「うわっ……。そういう気障な台詞、現実で初めて聞いた……。っていうか、江森には似合わないな、びっくりするくらいに」
「え。素で言ったんだけど、……引いた?」
「ドン引きしたよ」
冗談だとすぐに分かる。「嘘つけ」腕をまわして両耳の下辺りをくすぐると、佐倉は笑い声を上げた。迷惑そうでも、楽しそうでもある声音に俺も一緒になって笑う。
ほどなくして、ゴンドラは下降し始めた。雪と同じように地上へ舞い降りた時、空を覆っていた雲の帯が途切れ始め、隙間から星が姿を覗かせていた。明日の夜空は、今夜よりも晴れて星がたくさん見えるかもしれない。根拠もなく思い描き、隣りを歩く恋人の温もりに目を細めた。
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