――喫茶店――


 江森、と名前を呼ばれた。春の日差しみたいに温かくて優しいけれど、奥にまだ溶けきらない冬の冷たさも秘めているような、そんな声で。


 開いた目を店内の照明が刺激する。青白い光を放つLEDライトのように眩しくはなく、オレンジ色をした明かりは天井や壁からやわらかい光を放っていた。昼前から店にいるが、照明一つで昼と夜とでこうも雰囲気が違うものなのかと、俺は半開きの目で店内の様子を眺めて思った。


 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 浅い眠りの中、なにか夢を見ていた気がする。懐かしい記憶の一部が、無意識に夢として現われ出ていたようだ。


 「バイト、そろそろ終わるから」


 カウンターに突っ伏して寝ていた俺を起こしたのは、喫茶店で働く者の制服でもあるエプロンを身につけた男だ。

 男、に間違いはないけれど、体つきはほっそりとしていて、色も白い。

 おまけに顔立ちが整っているときた。昨日と今日で合わせて半日分くらいをこの店で過ごしたが、カウンターの向こうで作業する彼に好意的な眼差しを向ける女性客が多かった。喫茶店としてはそこそこ繁盛しているらしく、両日とも席は常に半数以上が埋まっていた。男女の二人づれが妙に目につく理由は、今日がクリスマスだからなのだろう。


 店が繁盛してるのって、佐倉のおかげでもあったりして。


 あくびをしながら俺は勝手に推測する。


 「ずっと座って寝てたけど……、首とか痛くないの?」

 「首よりも尻が痛い。俺、どんくらい寝てた?」

 「一時間くらいかな」


 木目調の壁にかけられたアンティークの時計を見る。佐倉のシフトが終わる午後六時、その十分前だ。


 「何杯もコーヒー飲んでるのに、よく寝られるな」

 「そういう佐倉は、カフェイン摂ると寝られなくなるタイプ?」

 「夕食時にカフェラテ一杯飲んだだけでも眠れない。江森みたいにブラックなんか飲んだら、一晩中、目が冴えてると思う」


 「喫茶店で働いてるのになー」


 笑い飛ばすと、それきりなにも話しかけてこなくなった。


 今の今まで俺に向けられていた黒目がちの瞳は、伏せられている。気分を害した、というふうでもなく、ただ単に自分の業務である皿洗いに専念しているだけらしかった。左右上下に瞳が揺れ動く度、長いまつげが微かに震える。


 最初に姿を見かけた時も、彼はこうだった。目を伏せて、なにか考え事でもしているような顔つきで建物と外との境に立っていた。


 雨を眺めているのだと思った。けれど、彼のすぐ隣りに立って横目で顔色を窺った時、違うと悟った。人の考えていることなんて一目見ただけでは分からないのに、その時はなんとなく分かったような、そんな気になった。佐倉は何処も、なにも見ていなかった。夜空の色をした瞳は、曇った空を見上げるでもなく、ぬかるんだ地面を見下ろすでもなく、なにもないところへ向けられていた。

 誰にも見えない、いや彼にしか見えない世界を見ていたのだろう。彼が身を置くつらい境遇を知った今だから、そう思う。


 実の両親が亡くなった時のこと、引き取られた親戚の家でひどい目に遭い、それを誰にも打ち明けられずに苦しんでいたこと。


 昨晩、暖房が機能し始める前の寒い室内で聞かされた。

 重々しい口調ではなく、単なる世間話でもしているみたいだった。まるで他人の人生をダイジェストにして見た後で、その感想を話しているような。つらい身の上を、それほど苦でもなさそうに語る様は、見ていて逆に痛々しかった。彼にそんな話をさせるきっかけとなった自分自身を恨みながら、ただ抱きしめて謝ることしかできなかった。話を遮って、冷たい身体を抱き寄せる時、涙が出た。泣きたかったのは佐倉のはずなのに。当事者より先に泣いた自分は、元カノから散々言われていた通りやっぱり落ち着きに欠けるのだろう。


 「……じろじろ見るなって、何度言ったら分かるの」


 剣呑な声で我に返る。作業の手を止めて、佐倉がこっちを睨んでいた。声色は怖かったが、穏やかな目元をしているせいか迫力はない。


 「え、俺……今お前の方見てた? ぼーっとしてたから、自分でも分かんねぇ」

 「ぼーっとなら、今日一日中してたと思うけど。部活がないからって気、抜き過ぎてるんじゃないの」

 「いやいや。読書してただろ、一日中さ」


 脇に避けてあった一冊の単行本を持ち上げて言う。

 佐倉おすすめの小説。自分と馴染み深い高校野球の話だったせいもあって、普段よりページを繰るテンポが速かったような気がする。「この本、すげぇ面白かった」素直な感想を伝えると、佐倉はちょっとだけ笑って「ならよかった」と言いつつ濡れた手をタオルで拭いた。後ろ手にエプロンのひもを解きながら、店の奥に入っていく。着替えに行ったようだ。


 「あの子、すごくきれいな顔してたよね」

 「ほんとほんと。いくつくらいなんだろう」

 「彼女とかいるのかなぁ」


 俺がいる場所より後方のテーブル席で、大学生くらいの三人の女がこそこそと話している。あの子とは誰を指す言葉なのか。考えるまでもない。


 残念。あいつには恋人がいるよ。相手は男だけれど。


 冷めたコーヒーを喉に流し込み、心の中でほくそ笑む。いっそこの場で、店にいる全員へ暴露してしまいたいくらいだ。笑顔で、そして大きな声で。そんなことをすれば、あいつはどんな顔をして俺を睨むだろう。想像していたら、丁度よく本人が戻ってきた。エプロン姿から真冬の外を歩く恰好に変わっている。


 「お疲れ。じゃあ行くか」

 「うん」


 先にドアを開けて外へ出ると、他の従業員たちとあいさつを交わしてから佐倉もついてきた。至極当然の振る舞いなのに、俺は何故だか嬉しくなった。


 「どうかした?」

 「ん。なにが」

 「顔、にやけてる」


 なにも答えないまま、路上の雪にも負けず劣らずの白色をした頬を指先でツンツンとつつく。直後、眉間にしわが刻まれた。出逢った当初はよく見かけた表情だ。せっかく、きれいな顔をしているのだから、しわなんて寄せていてはもったいない。


 「俺についてくる伊織が可愛くて、ついな」


 白色に、うっすらと赤みがさした。

 可愛い、と俺が褒める度、同じ反応が返ってくる。普段よりもさらに赤色が濃く見えるのは、こうこうと光り輝くイルミネーションのせいだろうか。

 いや。多分、下の名前で呼んだからだろう。俺は予想してみる。


 「……なにそれ。連れの後をついてくなんて、当たり前だろ。わざわざ喜ぶことかよ」


 「喜ぶよ、俺は。だって嬉しいもん。伊織がこうして隣りについてきてくれてるだけでもさ。なんか、走り出したくなるくらい」


 「お前は犬かよ。……あと、下の名前で呼ぶのやめろ」


 「なんで? 夜、寝る前に約束したじゃん。二人でいる時はお互いに下の名前で呼び合おう、って」


 「した、けど……。落ち着かないから名字の方がいい」


 そわそわしながら言われてしまえば、彼の要求をのまないわけにはいかない。「じゃあ、今日一日だけな」条件を提示すると、佐倉は一度だけうなずいた。後日、また同じお願いをされてもつい許してしまいそうな気がする。


 そう遠くない未来、佐倉が恥ずかしげもなく俺の名前を呼んでくれるようになった日の光景が目に浮かぶようで、俺はまたにやけそうになる。


 「佐倉はこの後、何処か行きたいとこある?」


 黒い頭が、横に振られるのを見届けてから、じゃあと提案する。


 「俺につき合ってくれる? 行ってみたいところがあるんだ、佐倉と」

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