変容・1

「お待たせしましたっ」

 荒い吐息まじりの声と共に嗅覚を刺激した香りを感じた瞬間、歓喜で頭がおかしくなりそうになる。

「ごめんね、いろいろと忙しいのに」

 有喜ちゃんが学校に来るようになって、今日で一週間。

 そして期末試験も終わり、夏休みまであと一週間。

 最近、廊下や体育の授業中、(ぎこちなさはあれど)クラスメイトとお喋りをしている有喜ちゃんの姿を見かける。

 聞いていた無視やいじめに近い行為はほとんど完全に無くなったようで、はたから見れば普通の学園生活を送っているみたいだ。

「いえいえ! 私も最近、先輩と一緒の時間が少なくて寂しかったので」

「そっか。良かった」

 どうしてそうなったのか、考えなくてもわかる。

 元はと言えば岡島さんがいた種だ。修復もお手の物だったんだろう。

 岡島さん自身元々人望があるみたいだし、自分がいる輪の人達によく回る頭と舌でていよく演説して、有喜ちゃんを引き入れた。

 自分一人のものにならないなら人海戦術、かぁ。諦めてないもんなぁ。

 そうだよね、五年間も片想いしてるのに、ハイそうですかって引くわけがないもんね。

「有喜ちゃん」

 彼女はもう、私だけの有喜ちゃんじゃない。誰しもが気軽に関われる存在になってしまった。

 あの夜――有喜ちゃんが私の全てを受け入れてくれたあの夜――から、私はその続きを見たくて仕方がないというのに。

「なんでしょう?」

 だけど、今だけは。

 私と有喜ちゃんしかいない、この非常階段にいる時間だけは、その存在を私だけが独占していいんだ。

「あーん」

「っ……」

 膝枕をしてもらって、頭を撫でてもらって、それだけじゃ物足りなくて、口の前に薬指を差し出した。

 意図を理解して小さく開かれた彼女の口に、ゆっくりと、歯に沿わせながら挿れ進めていく。

「ぁ……ぅ……」

「苦しくない? 平気?」

 一応空気の通り道は避けているつもりだけど大丈夫かな。

「……」

 有喜ちゃんは抵抗の意思を込めた瞳で私を見ながらも、小さく頷いた。

 彼女は、私に負い目がある。だから私を強く拒絶できないし、この優越感がたまらない。

 魂は心酔し、私は屈服するしかないというのに、その有り様はまるで逆だ。

 こんなの、間違っている。

 間違ってるって、よくないって、わかってる。なのに、でも、どうしたらいいのかわからない。

 それに私はまだまだ考え、行動しないといけないことがある。

 お母さんが父と別れたれてしまったように、岡島さんが、結局ソレに失敗したように。

 人の心を手にするのが、そしてそれを一箇所に留めておくことがどんなに難しいことか、私は知ってしまったのだから。

 彼女の心を永久に、私に縛り付ける為にはどうしたらいいんだろう。

「嫌だったら噛んでもいいからね、思いっきり」

「ひぁっ……」

 空いている左手で有喜ちゃんの太腿を撫でた。外気と反比例するように冷ややかで、なめらかで、自然と呼吸が荒くなる。あーあ、早く冬にならないかな、こんな無防備に晒してほしくない。

「しぇんぱ……」

「ねぇ、もしかしてそれで噛んでるつもり?」

「ぁぅ……」

 利き手を思い切り噛めるわけないと知っていて、こんなことをしている。彼女が苦心することを、葛藤することを望まずにはいられない。

「ごめんね、意地悪しちゃった」

 口から指を引き抜くと、私がそれを自身の口に運ぶ前に、顔を赤くしながらハンカチで甲斐甲斐しく拭いてくれた有喜ちゃん。……もったいないなぁ。

「いえ……でもあの、先輩、そろそろ部活に行かないと」

「……そうだね」

 有喜ちゃんのいない部活なんて、もうどうでも良かった。だけど……住良木との約束がある。それだけは、無下にするわけにはいかない。

「よいしょ、と」

 離れがたい思いをなんとか振り切って立ち上がると体から温かさが失われて。それは寂しさから嫉妬心に変容する。

 本当、羨ましいな、岡島さん。私だって有喜ちゃんと二人きりの空間で、ずっと一緒にいたかった。

「先輩、最近……あの……」

「っ……なあに?」

 私を見上げるその目には、何かを伝えようとする意志が込められている。

 嫌われた? やりすぎた? でも……だって、私は……有喜ちゃんの彼女で……。

「……言って」

「……えっち……」

「……?」

「えっちが過ぎると思います!」

「……へ……?」

「すぐ胸とか足とか触ってきますし……しかもなんか、えっちな手付きで!」

 立ち上がった有喜ちゃんは頬を赤らめているも、怒気は感じない。

「私もそういうのはやぶさかではないというか嬉しいというかええとそのあれなんですが……恋人と言えど、節度は必要だと思うんです!」

「う、うん」

「なぜなら私に耐性がないので! 修行していく所存ではありますが! ちょっと待っててください!」

「……えと、ごめん、ね?」

「いえ! 耐性がない私が情けないという話でもあるので……。ということで、先輩は部活をファイトです! 住良木先輩に負けられない理由があるんですもんね! さぁレッツプラクティス! レッツテニスです!」

「は、はい」

 有喜ちゃんに背中を押されるように非常階段を出て、部室に向かう。途中で何度振り返っても、彼女は笑顔で私に手を振ってくれていた。

 自制……しなくちゃなぁ……って、こういう時はいつも思うんだけど……本人を目の前にするとどうしようもなくなっちゃうのは……どうしたらいいんだろう。

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