園片香那(そのひら かな)

「先生、これもボツです」

 長時間ノートパソコンとにらめっこしていた担当編集が顔を上げ、苦汁を舐めたように言う。

「いいですか? 読者は『永久歪えいきゅうひずみ』を超える作品を求めているんです。そんな長編が書けないから短編集を作る運びとなったわけで、この短編は、私共が求めるレベルではありません」

「………………はぴしゃん……」

「先生、その……私の話を聞いていただけないのはここ最近いつものことですが、『はぴしゃん』という奇妙な単語についてはいい加減説明していただけませんか? 書けなくなったのはその『はぴしゃん』のせいなんですか?」

「…………逆です……」

「逆?」

「はぴしゃんがいたから……私のような塵芥ちりあくたがなんとか、執筆だの創作だのという地獄の中で呼吸ができていたんです」

「えっと……ペットとか飼っていらっしゃいましたっけ?」

「……今日は帰ります」

 彼女がいよいよ本格的にはぴしゃんについて探ろうとしてきたことを察知し、資料をまとめて席を立つ。今はその部分を、誰にも触れられたくない。

香流かなれ先生、今週末のサイン会、絶対来てくださいね! 来なかったらまた家まで押しかけますよ! ピンポン鬼連打しますからね!」

「…………はい」

 はぴしゃんがいない。厳密に言えば、もう二ヶ月会ってない。

 推しのいない人生がこんなにも灰色になるなんて。

 恋人になろうだとか、そんなことは一ミリも思っていなかったのに。

 メイド喫茶の店員とその客。それだけで良かった。仕事としてご奉仕をしてくれる。ビジネスとして、手袋越しで良いから頭を撫でてほしい。上辺の言葉でもいいから褒めてほしい。それだけで良かった。

 なのに何故、はぴしゃんは私の前から消えてしまったんだろう。

 あれだけ貢いでも私のような気持ち悪い客は受け入れてもらえなかったのだろうか。

 いや……私のせいだ……はぴしゃんが誰かを嫌うわけがない、私が彼女を追い込んでしまったんだ。

 もう一生書けない。どうやって書いていたのかも思い出せない。

 何を書いてもボツになる気しかしない。何を書いていても楽しくない。

 そもそも私は読者のため、とかいう胡散臭い理由で物語を書いたことなんて一度もない。

 ただ私が読みたいものを書いていただけだ。それが換金できたからしただけだ。なのに何故こんなにも苦しまなければならないのか。

 死のう、そうだ、死のう。死んで、はぴしゃんを待とう。

 ああでも、はぴしゃんは天国へ行くんだろうなぁ。自殺でもして地獄に落ちてみろ、もう二度と彼女と会えないじゃないか。

 危ない、死ぬのだけは絶対にありえない。死んじゃダメだ……。

 だけどこの先漫然と生きて、彼女と出会える確率はどれくらいなんだろう。

「……サイン会って……どうせ身内とサクラしかこないのに……面倒だな……」

 帰って机に向かったところでどうせ書けない。今日もまた、はぴしゃんが『おかえりなさいませ』と言ってくれる幻聴を聞きながら、メイド喫茶に吸い込まれていく。


 ×


 日曜日に出掛けたくないから自営業をしているのに……何故強制的に世界へ放り出されないといけないのか。

 それに今は八月、世間は夏休み……ふざけてる。

 暑さなんかよりも幸せそうな人類に私が弱いのを知っていて、こんな繁華街の大型書店でサイン会のセッティングをするのだから、あの編集は性格が捻じ曲がっているに違いない。

香流かなれ先生、デビュー作からずっと追ってます。頑張ってくださいっ」

「ああはい、どうも」

 どうせサクラ。

「次回作の短編集、とっても楽しみです!」

「がんばります」

 どうせ編集の知り合い。

「先生が描く物語にいつも勇気をもらっていて……」

「光栄です」

 ……声、可愛いな……。……って違う違う、あまりに私の好み過ぎる。編集が用意した仕込みに違いない。

 私は顔出しNGなので磨りガラス越しとはいえ、普段人と話す機会がほぼないため異常に体力が削れるし、久しぶりに酷使している舌がもう痺れかけている。

 だがそんな地獄もようやく最後の一人。ああ、早く帰って、はぴしゃんにご奉仕してもらう妄想でも――

「あ、あの」

「っ――――」

 ……この声……嘘だ……そんなわけ……私は遂に狂ったのか……? こんな、幻聴を聞くなんて……。

香流かなれ先生、私……」

 その声は、不憫に思うほど緊張していて、か細く、明るさなんて欠片もない、吹けば飛ぶような儚さがなんとか音のカタチを成しているだけ。それでも――

「ずっと、応援させていただいています。……ずっと」

 ――私が探し求めていた彼女のそれだと、疑いようもなかった。

「ずっと、好きです。これからも、絶対、ずっと……」

 磨りガラスの下から差し出された白く、小さな手。声と同じように緊張で震えている。

 綿の手袋はついていない。だけど、私にはわかる。この手のひらが、この香りが、何度私を励ましてくれたことか。見紛うわけがない。

「…………」

 違う。何を凝視しているんだ私は。握手をするんだ。早く、手を差し伸べて、一言お礼を返して、名前を聞いて書き込んで、サイン本を渡す。それだけの話だろう。

 なのにどうして……こんなにも視界がぼやけてしまうんだ。

 指一つ動かない。声一つ出ない。

「……申し訳ございません。先生の具合が優れないようですので、中断をさせていただきます」

「えっ? あっ、はい! わ、私なにか変なことを……?」

 私の異常に気付いた担当が間に割って入り、はぴしゃんの声がうわずる。

「いえ、少々お疲れのようでして。誠に申し訳ありません」

「……わかりました。どうかお大事になさってください。……これあの、先生に……」

「ありがとうございます。私からお渡しいたしますね」

 最後のサイン本が担当の手から渡されたらしく、はぴしゃんの足音が遠のいていく。

 罪悪感よりも安堵がまさった。これで良かったんだ。憧れの作家が私なんかだとわかってしまったら……きっと彼女は幻滅してしまう。

「大丈夫ですか? すみません……こんなにも追い込んでしまっていたとは……」

 膝をついて私の顔を覗き込んだ担当の表情は、私が書いたつまらない小説を読んだ時よりも心配に満ちていた。

「こちら、先程の方からお預かりしたのですが……」

 彼女がおずおずと差し出したのは、落ち着いた雰囲気の封筒。

 なんとか手を動かしてそれを受け取り、破れないようそっと開くと、中には小さな便箋が入っていた。

「……あぁ……ああ…………」

 そこには、私の作品が彼女の恋愛観を後押ししたことや、記憶の深いところに根付き大切なものを繋ぎ止めたこと等が、一節ごとに感謝を混ぜて綴られている。

 そして、その文字は――メッセージプレートやチェキで、何度も目にしていた。

 読み進める度に込み上がる涙で手紙を汚してしまわないよう封筒にしまって、瞳を閉じ、脳内で文字を思い起こす。

 それから彼女がその文章を、膝枕をしながら優しく語りかけている姿を想像して、幸福な世界に浸った。

「…………はぴしゃん……」

 もらってばかりだと思っていた私の人生にも、意味はあったんだ。

「先生、飲み物買ってきました。どれがいいですか? お茶と水とコーヒーと「倉田さん」

「な、なんでしょう? というか、久しぶりに名前を呼んでくれましたね」

「来週までに……最高のプロットをお持ちします。ので、一つ頼まれてくれませんか?」

「それはまた……どんな無理難題を頼まれることやら」

 生きるぞ、私は。

 書くぞ、私は。

 まだだ。胸を張って彼女に会えるようになるまで、書き続ける。

 例え出版社に見放されようとも、どれだけ心無い言葉を投げつけられても、貴女の為に書き続ける。

 これが最初の、第一筆だ。


× 園片 → 福添 ×


「残念だったね、有喜ちゃん」

 夏休みに入ったとはいえ媛崎先輩は大事な大会の真っ只中。

 たまたま休みとサイン会が重なったからデートには来られたものの……

「はい……。でも、先生には健康最優先であっていただきたいので」

 憧れの人に会うことはできなかった。残念といえば残念だけど、正直、緊張し過ぎて何を話していたのかあんまり覚えていないし、これで良かったのかもしれない。

「み、見つけた! あの! そこの方! すみません!」

 大声が聞こえ、周りの人にならい振り向くと、そこにはエアコンが効いて快適な店内では考えられないほど汗だくな女性が、こちらに手を振っていた。

「先程は……すみませんでした……」

 荒い呼吸のまま駆け寄ってきた彼女が、サイン会で脇に立っていた人だと気付く。

「い、いえいえ、先生の体調を第一にしていてだいて……!」

「ありがとうございます。これを、ですね、先生からお渡ししてほしいと」

 呼吸を整えながら手渡れたのは一冊の本だった。

「あの、サイン本なら先程これを……」

「では、交換していただいてもよろしいでしょうか? こちらは貴女に宛てたお返事です」

 言われて新しく受け取った本には、小さなサインと、その余白に短い文章が綴られていた。

『ずっと応援してくださいまして、ありがとうございます。貴女の力に少しでもなれたことを誇りに思います。またいつか、どこかでお会いしましょう。どうかお元気で』

「直筆のお手紙? すごい! 良かったね、有喜ちゃん」

「……はい」

「どうしたの?」

「いえ……」

 この文字……なんだかとっても懐かしい。不思議だな、香流かなれ先生の直筆なんて見たこともないはずなのに……どこかで見覚えがあるような気がする。

 ボロボロのメモ帳とかクレジットカードとか、とりとめのない記憶が、デジャヴのように浮かんでは消えて――

「お名前を入れられず申し訳ありません。……でもあの、転売とかダメですからね」

「もちろんです。ずっと、大切にさせていただきます」

 ――伏し目がちな瞳と不器用な笑顔を、静かに思い起こさせた。

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