福添有喜・終

「どうしたの、有喜ちゃん」

 二度目のコール音がなる前に彼女は通話に出てくれた。

 声を聞いただけで心が熱くなって、その熱がじんわりと涙腺を緩める。

「悪い子だね、もう浮気したくなっちゃった?」

 なんと言って切り出せばいいのかわからず沈黙を作ってしまった私に、媛崎先輩は茶化すように明るい声で言った。

「……会いたい」

 脳内を巡る無数の言葉と止めどない感情に整理がつかず、なんとか絞り出せた言葉は、四文字だけ。

「わかった。今どこにいる?」

「家の……最寄り駅です」

「すぐに行くからそこで待ってて」

 通話は三十五秒で終わり、帰路に急ぐ人々に紛れながら、緊張と期待でかつてない程に高鳴っている心臓を鎮めながら彼女を待った。


 ×


「有喜ちゃんっ!」

 既に息を上げていた媛崎先輩が、ベンチで座る私を見つけて駆け寄ってくれた。

 最後に見た姿と同じ、カチューシャと眼鏡が目を引く。

「先輩……媛崎先輩……」

「大丈夫? 顔色がすごく――っ」

 心配そうに私の顔を覗き隣へ腰掛けた媛崎先輩を、何の躊躇も遠慮もなく抱きしめていた。周囲で蠢く人の目なんて一切気にせずに。

「よしよし」

 いつかと立場が逆だ。先輩は何も言わずに私の頭を撫で、時には背中を軽く、ゆっくりと、あやすように触れてくれた。

「……」

 涙が止まり呼吸が正常に戻ったあとも、ただじっと媛崎先輩の体温と香りを堪能していた私へ、彼女は耳元まで口を近づけて囁く。

「行きたい場所があるの。ついてきてくれる?」

 本当はこの状態で餓死するまで動きたくはなかったけれど、顔を上げると道行く人の勢いは増していて、心配そうにこちらを見ていた駅員さんとも目が合ってしまった。

「……はい」

 流石にこれ以上ここで泣きわめいて媛崎先輩に迷惑をかけるわけにもいかない。足腰に力を入れて立ち上がる。

 先輩が自然と繋いでくれた手に引かれるがまま電車へ乗り込み、降りたのは学校の最寄駅。

 そのまま徒歩二十分、いつもならバスを使って進む道を歩き、当たり前のように学校のフェンスを乗り越え、テニスコートへと足を踏み入れた。

 試合中の選手が休むために設置されたベンチに二人で限りなく密着して座り、少しの間心地良い微睡みに身を任せていると、媛崎先輩がぽつりと尋ねる。

「最初に一つだけ聞いていい?」

「なんでしょう」

「有喜ちゃんの恋人は……岡島さん? それとも「媛崎先輩ですよ。私の恋人は、先輩だけです」

 言い終わる前に食い気味で答えると、先輩は反省したような、安心したような表情を浮かべて、コートに面した歩道から薄く伸ばされた光が、彼女の潤んだ瞳を輝かせた。

「……ごめんね、意地悪言っちゃった」

 質問と彼女の涙の意味を考えると、さっき会ってから今の今までずっと、私の記憶が戻っているのか確証がなかったんだと気付く。

「先輩……私……」

「有喜ちゃんもしかして、謝ろうとしてる?」

 相変わらず自分勝手で思慮不足な面も含め、最後のデートから今日までのこと全てを謝ろうとして言葉に詰まった私を、媛崎先輩は再び優しく撫でてくれた。

「絶対そんな必要ないからね? これは……安心したら出てきちゃっただけだから。あのね、もうね、すっごく待つ覚悟決めてたから……だから……ほっとしちゃって」

 言うとその顔に笑みが差し込み、「はい、もう湿っぽいのはおしまい!」と、触れるような軽い口付けをくれた。

「おかえり、有喜ちゃん」

「た……ただいま、です」

 深刻に考えていた諸々が、その言葉と、声と、キスで、霧消したような気がする。

 絶対にそんなことはなくて、私も言葉にして伝えなくちゃいけないことがたくさんあるはずのに、先輩の底知れない包容力が……脳内のごちゃごちゃを、心内のぐちゃぐちゃを、どこか遠くへ吹き飛ばしてしまった。

 ――私を抑え込んでいた、理性と共に。

「先輩」

「えっ、わわ、有喜ちゃんっ?」

 朗らかに私へ微笑んでいた先輩をベンチの上で押し倒すと、あっという間に顔が赤く染められていく。

 しばらく見下ろしながらあまりの可憐さに見惚れていたけれど、彼女の瞳は困惑から期待に移ろうのがわかり、容赦なく唇を重ねて口腔を犯す。

 おずおずとそれを受け入れ、私の吐息に飲み込まれないよう懸命に対抗してくる媛崎先輩に嗜虐心が唆られてしまい、自分の意志では止めることができなかった。

「んっ…………有喜ちゃん、その……」

 やがて猫のように腕を突っ張り、私の肩を押して距離を作った媛崎先輩。

「嫌、でしたか?」

「そうじゃなくて……キス、上手くなりすぎだよ」

「その……小説で、勉強したので……」

「ふぅん」

 先輩の怪訝な瞳と不満たっぷりの声音を誤魔化すように、続けてもう一度。

 離れてすぐに深呼吸をしてもう一度。

 何度も何度も、今日までの不足分を補うように繰り返した。

 罪悪感と快楽に溺れている最中、脳裏に過ぎったのは、病室で絶え間なく愛と毒を流し込んでくれた彼女のことだった。

 歪んでしまったのは、貴女だけじゃないみたいだよ。今なら、岡島さんの気持ちがよくわかる。

 可愛さや敬愛などのパステルカラーで彩られていた媛崎先輩への想いは、いつの間にか、赤紫に醜く変色していた。

 私はもう、先輩の全部が欲しい。誰にも触れさせたくない。誰かの視界に入れることすら苦痛だ。

 美しい部分を汚したい。汚れた部分も愛したい。

 そしてこんな、醜い想いも、愛して欲しい。


 ×


「これ、凄いの付けられちゃったね」

 私を見上げながら荒く呼吸を繰り返している媛崎先輩が、星へと手を伸ばすように、首元にある痕を指でなぞった。

「……すみません」

「んーん。気にしないって言ったら嘘になるけど……仕方ないしね。痛くないの?」

「今は、なんとも、ないです」

「そうなんだ」

 媛崎先輩に引き寄せられ、痣は彼女の口元へ。しばらくなぞるように舌が這っていたけれど、不意に歯が当たる感触がして、痛みを受け入れる覚悟を決める。

「……有喜ちゃん、大丈夫だよ。力抜いて」

 この痕を付けられたときも油断していたせいで、そう言われても素直に脱力はできなかった。

「上書きしてあげようかと思ったけど……上書きってことは前の記憶も一緒に残っちゃうってことだからね、大人しく、消えるまで待ちます」

 強張り続ける私を安心させるためか、柔らかい唇で痕に深いキスをしたあと、口元から離してくれた媛崎先輩。

「ねぇ有喜ちゃん、一つだけ、お願いを聞いてくれる?」

 するとすぐに、彼女は真剣味を帯びて問う。

「はい」

 どんな要求でも受ける自信があった。どんな罰でも受ける覚悟があった。

 なのに――

「じゃあ、それよりもずっと濃い痕を……私につけて」

 ――命じられたのは、私にとって望外と呼ばざるを得ない行為。

 ああ、この人はなんて、なんて強く清らかな瞳で私を見るのだろう。今まで攻められていた可憐な人とは思えない。

「……わかりました。その代わり先輩も、私に新しい痕を残してくれますか?」

「いいよ。でも私、絶対手加減できないから」

「それは……私の台詞です」

 お互いの首元をみ、どちらからともなく力を込める。

 痛みを与え合い、痕を刻み合い、逃さないように抱き合い、境界線が滲むほど絡み合い、夜に溶け合う私達を――果てしない暗闇を煌々と照らす星達だけが――静かに見つめていた。

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