福添有喜・5

「っ……。どうしたの有喜、そんな他人行儀な呼び方で」

「だから……もう、大丈夫なんだってば、岡島さん」

「……」

 私を抱きかかえたまま固まる彼女を押しのけ、ベランダから部屋に入る。

 ふらつく足と揺れる視界のせいで難航したけれど、彼女の鞄から私のスマホを取り出した。パスワードもはっきりと思い出した今、やらなくちゃいけないことがある。

 それを充電ケーブルに突き刺したものの、起動するには少し時間がかかりそうだ。

「……思い出したの? 全部」

 未だベランダで座り込んでいる岡島さんの、力ない声が夜風に乗って流れ込む。

「うん。全部、思い出したよ。小学生の頃だけじゃなくて、中学のことも、高校のことも」

「私は……」

「何も言わなくていいよ。なんとなくだけど……いろいろわかった気がするから」

「……」

 今まで岡島さんが私にしていた行動、それら全てが私と媛崎先輩を破局に追い込む為……だとは、思えない。

 いや……私自身が、彼女の好意は本物だったと信じたいだけか。

 少なくともあの時、あの病室では、私は彼女に愛されて、私はそれを受け入れていた、と。

 真偽を確かめるにはまだ情報の整理ができていないし、記憶の前後関係はまだせわしなく蠢いて、ただ座っているだけなのに目が回る。

 ああ、荒れ狂う船にでも乗っている気分だ。吐き気すら湧いてきた。だけど……なにか後遺症が残るかもとまで言われていたんだ、この程度で済んで幸運なんだろう。

「……」

 気持ち悪さを誤魔化すために辺りを見回すと、最初に抱いた違和感の正体に気付いた。カーペットが変わってるんだ。掛け布団のカバーも。そしてローテーブルがない。おそらく……私の血が付いていたからお母さんが替えてくれたんだろう。

「っ」

 自分の体を伝う血液の温かさすらも思い出して、別種の吐き気に見舞われた。頬を這う――久瀬さんの狂気も、悲鳴も、次から次へと掘り起こされていく。

 ――落ち着け。

 そんなところに捉われてる場合じゃない。今はとにかく……彼女に会わないと。何やってんだ私は。こんなに大切な人を……あんなに傷つけて……!

「ごめん、なさい」

 スマホの充電が未だなされないことに苛立ちを覚えたとき、相変わらずか細い岡島さんの声が消え入る寸前で耳に届いた。

「……怖かったよね、みんながあれだけ血眼になってたら。誰だって名乗り出るなんて無理だよ」

 会話するのもきついけれど、込み上げる胃液を抑えながらなんとか口を開く。

 彼女が何に対して謝ったのかはわからない。ただ、それを探る体力もない。

「今度さ、ゆっくり話そう。それで岡島さんの本当の気持ちとか、いろいろ聞かせて?」

 だから勝手に、私と岡島さんの接点を作ったであろう出来事だと解釈し、強引に話を切った。

 やがて最低限の充電が完了したらしいスマホの画面が付き、ディスプレイには夥しい量のメッセージが。岡島さんはたぶん、これも見せたくなかったんだろうな。

「それじゃあ、行くね。鍵は郵便受けに入れておいて」

 通話アプリを開いてすぐに連絡をしたい気持ちを抑えて玄関へ向かう。

 岡島さんの前で彼女とやり取りをするのは、どうしてもできない。

「……待って……待ちなさいよ!」

 あまりに悲痛な叫び声に両足が止まる。今すぐ目の前のドアを開けないといけないのはわかっているのに、体は勝手に振り返っていた。

「……もっと糾弾しなさいよ……もっと咎めなさいよ! ……優しくしないでよ……もう終わりなら……立ち直れなくなるくらいに……罰してよ……」

 月明かりに照らされながら、涙を拭おうともせずに私を睨みつけて、岡島さんは続ける。

「貴女がいたから……あの時貴女が私を庇ったから……私は……」

 ようやく立ち上がったものの、彼女はベランダからこちらへ入ってこようとはしない。

「どうして……どうして私だけがこんなに醜いのよ! どうして私だけが、こんなに歪んでいるのよ! 私はただ……私と同じ誰かと……一緒にいたかっただけなのに……」

 ああ、せっかく岡島さんが距離を置いてくれていたのに、それを無為にするなんて。

「……ねぇ見て、岡島さん」

 私は引き返し、彼女が佇むベランダへと出て、星空を指差した。

「わかるかな、今日は綺麗に北斗七星が見えるよ」

 肩を跳ねさせて泣きじゃくりながら、それでも彼女は私の示した先へと顔を上げる。

「あの中にね、ミザールとアルコルっていう二つの星があるの。とっても近くにいるように見えるでしょ? 泣いてる時に見ると、一つの星だって勘違いすることもある。だけど本当は……ものすごく離れてるんだよ」

 中途半端だけは、ダメだ。

 媛崎先輩と会う前に、彼女が私に抱いてくれた気持ちと――

「今日までの私達と同じ。ただ、一緒にいるように見えただけ」

 ――正面から向き合う。

「……違う……だって、私は有喜の……ずっと傍に……」

「私は媛崎先輩のことが好き。だから、貴女とは付き合えない。私は岡島さんと、友達以上にはなれない」

「……いや……やめて……」

「でもね、咎めることなんてできない。学校の二階から飛び降りるよりも、こんな痣よりも、ずっとつらい心の痛みと戦ってきたんでしょう? そんな貴女を憎むことなんてできないし、罰することなんてできない」

「…………有喜……」

「岡島さんが望むこと全て、私は叶えられない」

 これまで幾度もなく抱いてきた感謝の想いだけは、決して言わないように努めた。

 貴女が買ってきてくれた小説も、聞かせてくれた偽りの思い出も、唇を焦がして心を溶かすようなキスも、私は孤独ではないと教えてくれた。それがどんなに心強かったか。

 でもこの想いを口にしてしまったら、禍根が、未練が、彼女の心を蝕んでしまう。

「今言えるのはこれだけ。……私、もう行かなくちゃ」

 再び玄関へ向かおうとした私の裾を、岡島さんは掴もうとして――

「待って……」

 ――触れる寸前、弱々しく伸ばされた手をかわして、今度は立ち止まらずに進む。

「行かないで……お願い、有喜……行かないで……私を一人にしないで……」

 すぐ後ろにはきっと、とめどない涙に溺れながら膝をつく岡島さんがいて、もしも私がそれを見れば、スマホを投げ捨てて駆け寄り、呼吸もさせない程きつく抱きしめ、頭を撫でながら何度も何度も愛の言葉を口にしてしまうのだろう。

「……ごめんね」

 だから、どんなに視界が歪もうとも、どんなに良い記憶だけが想起されようとも、振り返ることは許されない。

 鼓膜に縋り付く嗚咽混じりの懇願を――二人で夢見た偽りの幸せな未来と共に――断ち切って、媛崎先輩の元へ。

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