第二章

プロローグ

「ここは良いわね、エアコンが効いてて」

「外、暑そうだもんねぇ。たまに換気で窓開けると凄い熱気でびっくりするもん」

 七月十日。

 私が入院した日から二週間が経ち、院内に飾られていた七夕飾りも片付けられ、本格的な夏の到来を示唆していた。

「熱中症とか気をつけてね?」

「ええ。まぁ、貴女は自分の心配をするべきだと思うけど」

「あはは……それもそうだね」

 お医者様によると、私は【エピソード記憶】とやらがごっそり抜け落ちているらしい。確かに、『何かを思い出してください』と言われても『何かって?』とハテナが湧いてしまうくらいにはごっそりだ。

 幸いなことに【意味記憶】とやらは残っているようで、『七夕』とか『ハテナ』とかの意味はちゃーんと覚えている。

 つまりどういうことかと言えば――

「最近はどう? 何か変化はあった?」

「んーん、全然。良いことなんだろうけどねぇ、小説ばっかり読んでるよ~」

 ――とても、平和だ。なんの問題もない。

 ただ、頭の傷口が癒えるまでの間、こうして退屈をやり過ごさなくちゃいけないのはつらいけど、それも耐えられる。

 なぜなら――

「だから、毎日来てくれてありがとうね、幸廼ゆきのちゃん」

「当たり前でしょう。恋人なんだから」

 ――私にはこんなに可愛い恋人がいるのだから。

 岡島おかじま幸廼ちゃん。

 爽やかな茶髪をポニーテールにして、ややつり上がった目尻が特徴的な女の子。

 口調とか顔つきとか……ちょっと強気な感じが良いよね!

 いやー記憶がなくなる前の私がまさか……こんな可愛い子と付き合っていたとは! やるじゃん!

「……有喜うき

「んっ……もう、幸廼ちゃん、いっつも急だよ」

 今の私にとっては一週間前に初めてキスをしたばかりと言うのに、幸廼ちゃんは『今までたくさんしてきたから』と言って、ちょーっと目が合ったり、ちょーっと沈黙が出来る度に唇を重ねてくる。

「嫌なの?」

「嫌、じゃないけど……」

 なんて言えばいいんだろう。……感触的には気持ちいいんだけど、心が落ち着かないというか、ちょっと怖いというか……。

「また……だんだん慣れてくれればいいわ」

「ご、ごめんね、ぎこちなくて」

 記憶消える前の私、結構テクニシャンだったりしたのかな……だとしたらなんか申し訳ないな……。

「……はぁ~早く学校行きたいな~」

 また沈黙を理由にキスされてもなんとなく困ってしまうので、ちょっと強引に話題を変えてみた。

「どうして?」

「どうしてって……今は暇過ぎるから、というか、大した意味はないんだけど……」

「……会いたい人とか、いないの?」

「うーん、そもそも学校の知り合いが全然思い出せないしなぁ」

「……そう」

「あっでも」

 目覚めた後に、身内を除けば最も早く会いに来てくれたあの人のことは、もう覚えている。

「えっと確か、ひめさき、先輩?」

「っ! ……媛崎先輩が、どうしたの?」

「? ううん、真っ先に会いに来てくれたからさ、仲良かったのかなぁって」

 私の右手を握る幸廼ちゃんの力が強くなって少しびっくりしたけど、すぐにいつもの調子に戻ってくれた。

「媛崎先輩も言ってたと思うけど、あの人と有喜は部内で同じチームだったの。ただそれだけよ」

「うん。それは、そうなんだと思うけど……」

 そもそもこんな貧弱な体でテニス部だったことすら信じられない。絶対戦力外だったでしょ、私。

「……会いたいの? 媛崎先輩に」

「ん~……いや、そう言われちゃうとそうでもないんだよねぇ」

「どうして?」

 ジッと、瞳の奥深くまで覗き込むような幸廼ちゃんの視線。うぅ……圧が凄いよ圧が……!

「……あの人の目を見ると……痛むんだよね」

「……」

「頭とか胸とか、なんかわかんないんだけどすっごく痛くなって……とっても……咎められてる気分になるというか……言語化しにくいなぁ」

 もしかして私、媛崎先輩とはあんまり仲良くなかったのかな……。でも真っ先にお見舞いに来てくれたのは媛崎先輩だし……。

 それにパッと見ただけのお顔も、少し話しただけで知った性格も、嫌いになるわけがないっぽいし……ううむ、わからぬ。

「ねぇ幸廼ちゃん、私さ、媛崎先輩と何か……約束とかしてなかったかな?」

「……さぁ。今度会った時でも聞いてみたら?」

 あっ、最近は声のトーンでわかるようになってきたよ。

「そうだね、そうするよ」

 幸廼ちゃん今、ちょっと不機嫌だし、ちょっと不機嫌になった幸廼ちゃんはすぐに――

「他の女の話はこれでおしまい」

 ――避けられないよう私の顔を両手で包んで、唇を押し当てると、深く、長く、貪るように舌を這わせた。

「今、貴女の彼女は……私なんだから」

 ようやく開放されると、お互いに酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。

 その最中、幸廼ちゃんが途切れ途切れに呟いた言葉の意味を、酸欠でやや朦朧気味の私には、理解できなかった。

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