14話 魔術師、キャパオーバー



「アホ……バカ……おたんこなす……!」



 ゲストルームに備えつきの浴室にある広い湯船に浸かり、膝を抱えて縮こまる。

 そして、今日のお説教を思い出しては口からついて出る悪態の数々、と……。同時に思い出される、あれやこれやこれやあれ。



「………ふぎィィッ! 思い出すな、私ッ!」



 今まさに、ぷしゅうううと限界を迎える音が鳴りそうな頭を抱え、奥歯をグッと噛み締める。



「全部……全部……ユリウスさんが悪いィィィ」



 と、悲痛な呻きすら上げる原因になったのは、ユリウスさんから受けたお説教にある。あれは、師匠から受けたお説教とは違うベクトルで、私を抵抗不能にするほど強烈なものだった――。



『いいか、エルレイン。よく聞いて欲しい』



 膝の上に横向きで乗せられ、必然的に近い距離。更に、その体勢のせいで耳がユリウスさんの方を向いており、低音のいい声が容赦なく鼓膜を襲撃してくる。


(え? 新手の拷問ですか?)


 ………なんて、口にしたくなるほどに、恋愛経験値ゼロの魔法オタクには瀕死レベルのクリティカルヒットだ。正直、お説教の内容なんてほぼ覚えていないのが現実。


(それはそれでマズイ……)


 けれど、ユリウスさんの無自覚攻めがこれだけだったかと言えば………そんなはずもなく――。



『危険な目に遭ってはいないかと心配なんだ』



 頭にコツン……と軽く額を押し付けられ、手は指を絡めるように握られて。溜め息混じりで告げられた言葉には真剣さがあるものの、私からしてみれば切なげな色気の方が勝り。極めつけには……。



『こんなにも気にかかる相手は初めてだ。少し、恥ずかしいな……』



 と、初めて目にする照れくさそうな微笑みを見てしまったら――。



「そのあとに続くお説教なんて耳に入るかアアァァァ」



 最早、ジュウウウ……と熱した鉄板のような音が鳴りそうなほど、顔が熱い。今なら、厚切りステーキでも焼ける気がする。本気で。



「政略結婚ってもっとこう………冷めてるものだと思っていたんだけどなぁ……」



 そんな贅沢な疑問に、もちろん返ってくる言葉はなかった。





 ◇ ◇ ◇





 自分と交代で浴室へ入って行ったユリウスさんを見送り、私は“ある一点”に視線を向けて硬直した。

 その理由というのも――



「ベッド………1台しかない……」



 ゲストルームに置かれたベッドが、大きいとはいえ1台しかなかったことである。



「私に……永眠しろというのか……ッ」



 言うまでもなく、崩れるようにその場に膝をついた。


 ………とはいえ。いくらアホな私でも、これが普通だということくらいはわかっている。

 夫婦然り、恋人同士だって1台のベッドで寝るものだ。それくらいの知識はある。

 ………それでも………それでも。



「そこら辺の男や女とは比べ物にならないくらい、着崩したユリウスさんの色気は凄いのよッ!! 死ぬッ!!」



 普段が高い襟のかっちりした団服のせいか、諸々弛め始めると私はもう直視ができない。一度、誤ってガン見してしまった時には、あまりの色気に私はぶっ倒れた。黒歴史である。

 ちなみに、その時のユリウスさんは服のボタンをすべて外していた状態で、ちらちらと見える素肌がなんとも――



「エロ親父か、私は……!!」



 とまぁ、そんなこんなでこの状況は極めてマズイのである。



「何か……何かいい解決策は……」



 ちらりと浴室の扉へ視線を向ければ、そこからはまだ水の流れる音がしている。ユリウスさんが出てくるまでには、まだ少し猶予がありそうだ。



「『ソファーで寝ます』は、あからさまだし……」



 そもそもこの素っ気ない言い方だとユリウスさんが傷つくかもしれないので却下。私が逆の立場だったら、たぶん傷つく。

 そうなると、私の頭に浮かぶ1番マシな考えは、『先に寝てしまうこと』になるけど……。



「自分の仕事を放り出してまで来てくれた人に対して、『おやすみなさい』の挨拶も言わずに先に寝るって………ちょっと薄情じゃない?」



 しかも私の場合、仕事を手伝ってもらった上に、移動はほぼユリウスさんに背負ってもらっていた。「疲れて先に寝ました」なんて、さすがの私でも言えない。



「うーん……」



 もう自分では一生解決できないだろう完全な行き詰まりに唸る。

 するとそこへ――


 ガチャッ。



「………ンッ!?」



 耳に届いたのは明らかな扉の開閉音。しかも、その方向にあるのはユリウスさんが入っている浴室。


(………あーーー!!!)

 

 どうやら、短い猶予が今、終わったらしい。これといった案すら出せずに。


(ど、どうすれと……!?)


 ちなみにさっき聞こえたのは、浴室と脱衣所を隔てている扉の音だ。だから次に、この部屋と脱衣所を隔てている扉が開いた時、本当の終わりがくる。

 そうなってしまったら最後………逃げ場はない。


 けれど、今の私に、この状況を打開する方法は何も浮かばない。無念だ。

 そして――


 ガチャリッ。


 と、より鮮明に聞こえた扉の音に、私は……。



「………エルレイン?」

「……………」



 過去最速で、ベッドに脱兎した。


 1番最悪としていた行動である。

 しかも、布団を頭まで被り、体に巻き付けるという芋虫状態……。


 もう一度言おう。

 本当に、最悪だ。


(もうこの際、寝たふりでも――)



「すごい早業だったな」

「……………えへ」



 悲しいことに、現場をばっちり見られていたので、 寝たふりはできなくなった。恥ずかしさと情けなさで涙が出そうだ。


(ベッドに転がる芋虫状態の妻………なんてアホな絵面……)


 今日のことはもう誰にも話さないと誓う。当然、ユリウスさんへの口止めもしなければ。



「あの、ユリウスさ――」

「エルレイン。寝るならその状態はやめた方がいい。体が痛くなるぞ」

「………はい」



 笑われるのは嫌だけど、冷静すぎる対応も少し辛い。より一層、自分のアホさ加減が浮き彫りになり、更なる羞恥心に襲われるからだ。


 そして、ほぼ全員がこう思うことだろう。「そんなに恥ずかしいなら、さっさと芋虫状態を解除しろよ」………と。


(当然、私もそう思う。思うに決まってる……………だけど――)


 予想よりもかなり綺麗に仕上がってしまったせいか、自分では解除不可能なのである。もう本当に私はただのアホだ。



「ユリウスさん……」

「ん?」

「髪の毛を乾かし終わってからでいいので、この芋虫状態から助けてください……」

「………抜け出せないのか?」

「はい……。抜け出せません……」



 羞恥心と闘いながらそう口にすれば……………気のせいかな。笑っている気配がするのは。


(いやいや。優しいユリウスさんに限ってそれはない。ない………はず)


 聞けばわかることだけど、もし本当に笑っていたら少し傷つきそうな自分がいるのでやめておく。

 そして――私には個人的に気になることがもう1つ。



「ユリウスさん。髪の毛、ちゃんと乾かさないとダメですよ」

「………そうだな」

「今、自然乾燥で済まそうと思いましたね?」

「……………」



 珍しく返ってこない返事に「図星かな?」と心の中で呟く。


 実はこう見えてユリウスさん、自分に関することはやや無頓着な傾向がある。

 そのいい例が、“濡れた髪の自然乾燥”。

 彼に長らく仕えている執事長か、私が指摘しなければ、ユリウスさんは100パーセント髪を乾かさない。


(まぁ、髪も短いから自然乾燥でも一応、乾いてはいるけど……)


 でもそのせいで風邪をひく可能性は充分にある。免疫機能も強そうだけど。

 それに、自然乾燥の弊害とでも言えばいいのか。自然乾燥にした翌日の寝癖が本当にひどい。しかも、その状態のまま仕事へ行こうとするのだから、驚きで開いた口も塞がらない。


(顔洗う時とか、歯を磨く時とか、目の前に鏡があったら見るよね? 本当に謎……)


 けれど、ユリウスさんの無頓着さはこれだけに留まらない。


 私が今までで1番驚いたのは、“シャツのボタンの掛け違い方”。

 1つの掛け違いならまだしも、2つも掛け違えているのに、気がついていない。絶対、違和感があるはずなのに。見た目、完全によれているのに。

 私は、初めてそれを目にした時、当たり前のように2度見をした。それくらい見た目が変だったからだ。

 ちなみに、その無頓着さは本人にとってはもう日常のようで、私がそれを指摘しても「本当だな。ありがとう」と返ってくる。平然としすぎていて、こっちが驚いたくらいだ。


(そういえば、寝室が一緒になったくらいから、ユリウスさんの身だしなみ係、執事長から私になったな)


 それも妻の仕事だろうか? ………なんて一瞬思ったものの、どちらかといえば、“思いやり”かと納得する。


(それに、毎回必ずお礼を言ってくれるから、実は少し嬉しかったりして……。恥ずかしいから内緒だけど)


 ふふふ、と笑みがこぼれる。



「――楽しそうだな?」

「……………ン"ッ!?」



 いつの間にか至近距離にあったユリウスさんの顔に驚く。口から出そうになった奇声はなんとか堪えたけど……。

 残念ながら、危機が過ぎ去ったというわけではない。


(イヤァァァ、色気の暴力がァァァ、でも目が離せないィィィ)


 やっぱり自然乾燥にしようと思っていたのか、しっとりと濡れている髪に。お風呂から出たばかりで暑かったのか、シャツは袖を通しただけのボタン全開状態で。

 首筋、鎖骨、胸板、腹筋、と。およそ男性とは思えぬほど綺麗な肌に、髪から落ちた小さな水が滴って――


(う……うぅ……目を閉じられない変態を許して……!)


 顔ではなく体ばかり目で追ってしまう自分を、自分でも変態だと思う。けれど、恋愛経験がないだけで、私も立派な健全女子。目の前に好みの体があったら、当然ガン見して――



「今日は、シャツの前を早く留めろと言わないんだな?」

「……………」

「エルレイン?」

「か………風邪ひきますよッ! ボタンッ!!」



 これはたぶん、邪な目で見ているのがバレているパターンだ。だって、ユリウスさんが妙に楽しそうだし……。

 とりあえず、メンタルの危険を感じるので目は閉じよう。



「もういいのか?」

「い、いいんですッ!」

「着替えの時だとあまりよく見えないだろう?」

「………なんッ!?」



 なんでそれを!? という言葉は、なんとか飲み込む。けれど、思わず目を開けてしまえば、そこにはしたり顔のユリウスさん。

 ………どうやら私は、仕掛けられた罠にまんまとハマってしまったらしい。



「は、はしたないことして、ごめんなさい……!」



 目をぎゅっと瞑って、心からの反省を口にする。

 この仕事を受ける際、同僚には「色気がすごすぎて死にそうだから離婚したい」なんて言ってしまったけど、本気だったわけじゃない。

 ユリウスさんから向けられる好意に、自分の気持ちがついていかなくて。

 恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて。日々溜め込まれていく恥ずかしさの逃がしどころがわからなくて。

 ただ――


(1人でゆっくり落ち着ける時間が、欲しかっただけで……)


 離婚をする気はこれっぽっちもない。

 ………けれど、人の裸を盗み見るような変態だと知られてしまった以上、もうどうなるか――



「謝る必要はないぞ」

「え……?」

「体から好きになるといい」

「体から……………え!? なんッ!? ええッ!!?」



 柔らかな微笑みと共に、軽く投下された爆弾。

 「意味わかってますか!?」と聞きたいけど、聞きたくない。わかっていたらいたで反応に困るし、わかっていなかった場合に説明しづらい。

 もう………どうすればいいのかわからない!



「………エルレイン」

「はいッ!!」

「今日は疲れただろう。もう寝なさい」

「はいッ!! ………え? 寝る?」

「あぁ。熱はなさそうだが、顔が大変だ。寝なさい」

「え? 顔が大変ってどういう……」

「寝なさい」

「あ、はい」



 視界を大きな手で覆い隠され、お腹の辺りを優しくポンポンされる。



「ユリウスさん……、この寝かしつけ方は小さい子向けでは……」

「………言われてみればそうか」

「一応、大人なので………ちょっと恥ずかしいです……」

「それは悪かった」

「ユリウスさ――」



 それは、一瞬の出来事だった。

 視界を遮っていた手が避けられたかと思えば、代わりに近づいたのはユリウスさんの顔で。私が口を開くよりも早く、上にあげられた前髪。

 そして、無防備になった額に――


 ちゅっ。



「え……?」



 柔らかな、感触。



「これなら問題ないか?」



 そう言って微笑んで、指で私の頬を撫でるユリウスさん。


(あれ………え? 今………私、おでこに………キスされ……………え?)

 

 大混乱である。

 私は、小さい子用の寝かしつけをやめてほしかっただけで、キスをせがんだわけじゃない。ただ、「おやすみ」と一言いってくれればよかっただけだ。


(こんな………こんな甘いのが……ほしかったわけじゃ――)



「もう少し慣れたら、次は“ここ”にしようか」



 トントン、と指で優しく叩かれたのは………唇。

 つまりそれは、「いつかは必ず唇へのキスもするよ」という宣言のようなもの。



「エルレイン」

「ひゃいッ」

「おやすみ」



 にこっと笑って、2度目の額キス。


(あ………あ………あ………もう……だ、め……)


 それは自分でも驚くほど、見事なフェードアウトだった。




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