最終話 安らげる死を目指して

EP53 空飛ぶ車は、車じゃなくて車の形をした飛行機だ

・明日風真希


「いやだあああああ!」

 ケウトゥムハイタにて。体を縛られている私は、全身をフルにバタつかせて喚いた。恥とかそんなもん無かった。今の私はイオンのお菓子売り場でポケモンの食玩を買ってもらえずに駄々をこねてる子供と同じだった。子供は何故駄々をこねるのか。それはたった数百円のピカチュウを買ってくれない理不尽さにキレてるから駄々をこねるのだ。宇宙旅行に行きたいと喚き散らす子供はいないだろう。

 今の私もそれと同じ。耐え難い理不尽さに対して感情を制御出来ずに暴れているんだ。

「死なせろよ! 死ぬなら今が丁度良いんだよ! 何が脳改造だ! 何が現実世界だ! どうでも良いんだよ! 私はペンラムウェンが望む世界もアヌンコタンが望む世界もいらない! 私は世界そのものがいらない! 人生そのものがいらないの! もう十分生きたよ! 私はここで死にたいの! 私は二つの世界を生きて! もう人生なんかどうでも良いやって思ったの! 私はどこにも行きたくない。どんな世界だろうとどうでもいい! 生きるのに疲れたの! だからもう死ぬの!」

 もうたくさんだ。もううんざりだ。もう疲れた。いい加減やってられない。

 どこ行ってもラクに笑える世界なんかありゃしない。欲しいモノが何もない。

 もういい。

 死なせてくれ。

 それに、全人類の記憶が戻ったんなら私が死んだって問題ないはずだ。さすがに誰か一人くらいは強く現実に帰りたいと願ってくれるだろう。大丈夫、ペンラムウェンは勝つ。でも私はそんな事どうでもいい。

 もう、付き合いきれない。

 本当に欲しいモノは手に入らない。

 どんな世界でも、なりたい自分になんかなれっこない。

「死なせろよおおおおおおおお!」

 叫ぶ。叫び散らす。しかし体に縛り付けられたロープはしっかりと重たいソファの足に結び付けられている。今の私に自由は無い。さっき自分の心臓をナイフで刺そうとしたらヤマトに本気のタックルで止められてしまい、凛音にロープで拘束されて今この状況に至る。

 もしデジタル世界で自殺に成功してアヌンコタンが勝てば、私は生きたまま永遠に死ぬ事が出来たのに。ヤマトなんか嫌いだ。

「くそがああああああ! 離せよこのロープ!!」

「俺いまヒンディー語しか分からねぇ気分なんだ。ヒンディー語でよろしく」

「アスカ……」

 エルがオロオロしながら、スッとにゃん太郎アニーバーサリーメタルエディションを差し出してきた。巨大なぬいぐるみで、限定生産された超貴重品だ。

「ほらこれ、アスカの大好きなにゃん太郎だよ。さっきね、可奈子が南区の万代っていうお店に侵入してね、盗んできてくれたの。新品未開封なんだよ。あげる。プレゼント」

 と言って、エルは私の膝の上にちょこんとにゃん太郎を置いた。エルも可奈ちゃんもバカなのか?

「いらないよ! こんなの現実世界でいくらでも作れるもん!」

「そうか。じゃあ頑張って現実世界に帰ろう」

「やだ!」

「え、えっと。エルるんと一緒にゲームする? 気分転換に」

「しない!」

 私は膝を突き上げてにゃん太郎をふっ飛ばした。壁に寄りかかってタバコを吸っている可奈ちゃんは、怒ったような顔で俯いている。なんでかな。その怒りは私ではなく、可奈ちゃん自身に向いているものだとハッキリ分かる。

「くそ! くそくそくそ! もう放っといてよ! もうイヤなの! 何もかもが!」

「恨むんなら自分を恨め。もしお前がロクでもない奴だったら、俺はお前を止めなかったぜ」

「……っ!」

「あ……アスカ。落ち着こう。ね? エルるんと一緒にゲームしよう。気分を変えて……だ、だはは~」

「うるさいうるさい! 子供扱いすんな! 私は死にたいの!」

「やめとけ。この調子ならペンラムウェンは勝つだろ。死んだ所で、お前はにゃん太郎だらけのコールドスリープ装置で目を覚ます」

「ヤマトなんか嫌いだ!」

「へぇ。俺のこと嫌いなんだ? じゃあ絶対解放してやらない」

「なぁ、ヤマトの言う通りだよ。ペンラムウェンが勝てば、それこそアンタは犬死にする事になる」

「アヌンコタンが勝てばこの世界は永遠に続く。それなら私は二度と生き返らない」

 エルの頬がぴくっと動いた。

 分かってるぞ、この野郎。

 お前は現実で自殺した。

 つまり。

 アヌンコタンが勝てば、お前は生き続ける。可奈ちゃんも同様だ。

「ねぇ、エルだってアヌンコタンが勝ってほしいと思ってるんでしょ」

 エルはにゃん太郎をもう一度私の膝に置くと、にっこり微笑んだ。

「それは無いね。正しくない」

「一つの参考意見として聞くが、アヌンコタンが勝ったデジタル世界で生きていこう、とは思わないのか?」

 お前はスイスか。

「思わない」

「なんで?」

「脳改造だかなんだか知らないけど、別に望んでねぇんだよそんなの! 何もそこまでして生きることねぇだろがよ! つーか脳改造しないと幸せになれないとかなんだよ。それもう人類は幸せになれませんって白旗あげてるようなもんじゃん!」

「だからこそ、脳改造なんだろ」

「悪あがきするくらいなら死んだ方がいい!」

「模範解答だ。お前はやっぱりペンラムウェンの一員だよ。さぁ握手をしよう」

「死ね!」

「稲穂南海香」

 ずっと黙っていた可奈ちゃんが、不吉な言葉を呟いた。

「アスカは、稲穂と同じだね」

「なに……?」

「稲穂は整形を否定してあがき続けた。あいつは幸せになれたのに、幸せになる道を選ばず堕ちた。………………でも、お前は普通に生きるだけでも幸せになれると思うよ」

「アヌンコタンを正しいとは思ってないけど、アヌンコタンの甘い蜜を吸おうとしてる。良い生き方ではないわね」

 さっきからずっとダイニングでエゾシカ肉のソテーを食べていた凛音が、私の事を見もせずにキツイ口調で言った。

 ぷちん。神経がブチ切れる。

「はああああああ!? だから!? なんで私が悪いみたいに言われてんの? 別にアヌンコタンもペンラムウェンもどっちが正義って訳じゃないからね。どう生きてどう死ぬかは私の自由だからね。甘いもクソもないからね。凛音アンタの頭はトロイの木馬でも入ってんの?」

「あ、アスカ……」

「……」

 望海が泣きそうな顔で声を漏らし、ユリはだんまり。凛音はエゾシカを喉に詰まらせてげほげほむせてる。

 ムカつく。さっきから凛音のあの態度はなんなの? 優しくない凛音なんか嫌いだ嫌いだ!

「あの……アスカ。とりあえず……死ぬのはやめよ? どっちに転んでも、死んじゃったらもうにゃん太郎と会えなくなるよ?」

「にゃん太郎は私の生命線じゃない! もう放っといてよ! 私はここで死ぬし、ペンラムウェンが勝ったら安楽死を選ぶ。皆がどれだけ私に構ったって無駄だよ。それとも何? 永遠に私を縛り続けるつもり?」

「んな事言われてもなぁ……」

 ヤマトがちらっとユリに目線を送る。ユリは表情を崩さず、私の目を見て言う。

「……私は、私だよ」

 は? なに? 意味分かんね。弱いよ、ユリ。

「あああああああああ! うぜえええええええええ! 皆うぜええええええええ!」

「騒ぐな。お前ここ木造アパートだったら今ごろ隣人に殺されてるぞ」

「望む所だよバーカ!」

「私が十四歳だった頃は、もう少しタフだったけどね」

 可奈ちゃんは珍しく突き放すように言い、パイプ椅子の背もたれを抱きしめるようにして座った。

「なぁアスカ。どうせ死ぬんだったら、せめて最後にもう少し色々考えてみても良いんじゃねぇか? 考えることは大事だぞ。私は高校受験の時、滑り止めで受ける学校は何も調べず適当に選んで受けた。で、希望校に落ちて入学する事になった滑り止めの私立高は、サル山みてぇに頭もガラも悪い学校だった。でもなアスカ。死んじまったら後悔する事さえ出来ないんだ。アクセルの踏みすぎが良い結果に繋がる事はありえないよ」

「うるさい! 説教すんなクソババア!」

「こんな綺麗で可愛いババアがこの世に存在する訳ないでしょ。もうあの世に逝ったつもりでいるのか」

「黙れよ! 大体可奈ちゃんに偉そうな事言われる筋合いないんだよ! 良く分かんねぇ理由で自殺したクセに、未練たらしく自分の人生録なんか書いて! 豊かな時代になってから都合よく蘇って! 英雄的行動で最期を迎えたのに、また未練がましく今度はデジタル世界で生き返って九十八年も生きて! 可奈ちゃんみたいな無様な姿晒してる人は黙ってて!」

「いざ改めて他人に言われてみると、確かに私ってとんでもねぇクソ野郎だな」

「あぁ、みっともない人生のハイライトだよ」

「でも、何も成し遂げずに死ぬ奴よりはマシだろ?」

「そうかもな」

「人生はカッコつける事よりも、カッコ良い死に様を見つける方が大事なんだよ」

 なんだよ。好き勝手言いやがって。お前らのモットーなんか聞きたくねぇ。

 私はオタネ浜で希望を見た。どんな世界もマジでゴミなんだという現実と経験。二つの世界を生きて改めて認識した人生のどうしようもなさ。合計二十八年生きて悟った人生に対する満足感。

 それらは「死んでもいいや」と心の底から願うには十分すぎる動機であり、自殺の決意は私の希望だった。

 そして、希望の対となるものは消えてしまった。

 どんな世界であれ、未練たらしく「死」という恐怖にあらがって生き続けるなんてバカの極みだ。今なら不老不死を求めて洞窟暮らしをしていたヤマトと望海とエルがイカれたクズだとハッキリ分かる。

「ねぇ可奈ちゃん……ひとつ教えてよ……ペンラムウェンが勝ったらどうするの……ははっ。まぁどうせ……また未練がましく生き返るんでしょ? バックアップ使ってさ……ははっ……あははははっ。バカみてぇ。みっともねぇよほんと……あはははははは!」

 黙りこむ可奈ちゃんの瞳は死んでいた。なんだ、お前もそんな目するんだね。

「おいババァ! 泥沼で育ったウグイみたいな顔してんじゃねぇぞ! 良い年こいて若作りした服着やがって! おい! シカトすんなよ! 答えろよ!」

「アスカ。とりあえず落ち着きなって」

「とりあえずってなんだよ! とりあえず落ち着いたら何があるんだよ!」

「アスカ。だからね……」

「うるせぇよ! もうどうでも良いんだよ! アヌンコタンもペンラムウェンも左翼も右翼もどいつもこいつも身勝手で自分の意見を押し通す事しか頭にないうんこ垂れ野郎共だ! 凛音もアヌンコタンも自分が暮らしたい世界を押し付けて勝手にドンパチやってるだけじゃねぇか! それこそ喧嘩なら他所でやれよ!」

「真希ちゃん」

 ユリが私の前にしゃがみこむ。特に憐れむでもなく、困った顔をするでもなく無表情で問いかける。

「あの……」

 口を開きかけ、一瞬だけ戸惑った表情を見せ、ふっと息を吐く。

 目と目が合う。

 何が言いたいのか、分かってしまう。

『アスカ、今はとりあえず、一般論しか言わないよ』

 さっきからケウトゥムハイタは私の事を抜きにしても、歯に魚の骨が挟まったような雰囲気で満たされている。

 当然だ。

 私がパワフルヒステリーを起こしている理由が、あまりにも明白だから。

「あの、ね」

「……うん」

「色々辛い目にあった訳だから、人生そのものに疲れて死にたいって思うのは分かるよ。脳改造も自由に出来る世界に行こうとか、この時代の価値観を現実世界に持ち帰ってより良い世界にしようとか、そんなの知るかよって思うよね。汚いものいっぱい見てきたもんね。いや私たちがそんな言葉を使うのはおこがましいかな。もっと辛い目にあってる人はたくさんいる。でも、それでも確かにこれまでの人生は辛かった。現実は退屈だしデジタル世界は醜かった」

 ユリが優しく私の頬を撫でる。優しい笑顔が心に痛かった。

「世界がどうなろうと人間はクズだもんね。その事実は永遠に変わらない。人が愚かである限り私たちはどんな世界も受け入れられない。脳改造で家畜になるくらいなら死んだ方が良い。かと言って、いまさら現実世界に帰って何も無かったかのようにへらへら笑って生きる事も出来ない。それはそうだと思う。一度でも人間の醜さを知ったら、世界は永遠に輝かない。赤ちゃんは何も知らないから毎日笑っていられるんだ。でも私らは赤ちゃんじゃない」

「じゃあ……」

「だけどね、私はアスカには死んでほしくない」

 死んでほしくない。その言葉がユリの口から出たのは嬉しかった。

 でも。

 貴方はもう、知らない人。

「この世界は」

「ん?」

「おぎゃーって産まれてきたら、いきなり衣食住も何も保証されてない世界に放り込まれる。勉強して高校、大学、専門学校に行かなきゃいけない。就職活動しなきゃいけない。働かなきゃいけない。税金払わなきゃいけない。日本じゃ病気になったり怪我したりして、まともに仕事も食事も出来ないような体になったとしても、安楽死は許されない。死ぬためには英語とドイツ語を学ばなきゃいけない。どうしてもラクになりたきゃ自殺っていう想像も出来ない激痛をクリアしなきゃいけない」

「うん。みんな分かってるよ」

「なのに国は、苦しい人生を歩んでる人でも幸せに生きていけるような環境を用意できてない。むしろ税金上げたりして私達を苦しめてる。国民の生活を締め上げた挙げ句どんなに人生が辛くても自殺はダメだよってそりゃ無いよって思う。自殺志願者に必要なのはカウンセリングじゃなくて素晴らしい社会なんだよ」

「アスカ。貴方は、二千四十九年産まれなんだよ」

「そうだね。私が今言った事は、私には関係ない。でもね」

 私はユリの手を取り、無機質に言った。

「末裔なんだよ。失敗作の。そしてバカは死んでも治らない。永遠の呪いだよ。さぁ、ロープをほどいて」

 ユリは困ったように笑った。

 ユリはきっと、ある意味誰よりも絶望している。

 本当の意味で、何者でもないのだから。


EP54 決断のとき

・百合ヶ原百合


 日を跨いで八月八日の夜。静かな時間だった。アヌンコタンとの戦い(なんか響きがシャクシャインの戦いみたい)は世界各地で熾烈を極めてるけど、少なくともバスセンター周辺で戦っている様子は無い。

 まぁ、特にヤバいのは欧米諸国だろうし、札幌なんて蚊帳の外だろう。渋谷のハロウィンのように騒ぎたいだけで自我の無い暴徒はともかく、本気でコンピュータを壊そうとしている奴、あるいは守ろうとしている奴らはあるべき場所で戦ってる。真駒内の基地内にあった篝火乙女は自衛隊員によって全て破壊された。自衛隊の本格的なドンパチ初戦が内戦とは、あまりにも皮肉すぎるよね。……千歳在住じゃなくて本当に良かった。

 世界が姿を変えるまであと数日。私の心に宿るのは焦燥ではなく、曖昧な戸惑い。

「これで我慢だな」

 可奈子が買い物カゴに激辛をウリにしたカレーパンを一つ放り込んだ。世界がもう少しで終わる。現実に帰るかデジタル世界が永遠に続くかの審判が下る直前。にも関わらず私と可奈子はのん気にスーパーで買い物、もとい盗難行為を働いている。その非日常さというかくだらなさに頭がクラクラしそうだった。

 バスセンター前駅のすぐそばにあるファクトリー内の東光ストアは真っ暗で、あちこち窓が割られ、出入り口の自動ドアはズタボロで、ウロウロしている客は結構居るけど店員の姿は無い。当たり前だ。世界の命運がどっちに転ぼうとも労働の時代はもう少しで終わるんだ。家畜精神に溢れる日本人でも、さすがに働こうとは思わないだろう。

「盗り放題だね」

 私は買い物カゴのカレーパンに目を落としながら言った。

「一つじゃ放題とは言わないでしょ」

「万代はどうだったの」

「ほとんど盗られてなかったよ。にゃん太郎の限定品があったくらいだし」

「ふーん」

「まぁ、こんな時にゲームとかオモチャ盗んでもしょうがないもんね」

「どの口が言ってんの。わざわざにゃん太郎のぬいぐるみ盗んできたクセに。あんなんでアスカが機嫌なおすと思ったの?」

「思ってねぇよ。ただ……一応、見せてやろうかなって」

 甘いのか、バカなのか判断がつかない。

 私は棚の奥にちょこんと置いてある煎餅を買い物カゴに放り投げた。棚はほとんどすっからかんだけど、辛い食べ物やお菓子類はまだ若干残ってる。

「食べ物はさすがに別か」

「そりゃね。どうあがいても空腹は必ず訪れる」

「テレビ持ってないのに、何度もやってくるNHKの集金人みたいなもんか」

「平成の風物詩だったな」

店員不在により無料のバイキングと化している店内に、虚しく私達の声が響く。他の客たちはギラついた目で店内を歩き回っていて、食料を探しているというよりは、すっからかんの店内を興味本位で見ているだけのように見える。

 広い店内をぐるっと見回す。野菜売り場も魚売り場もアイスケースもマジで文字通り空っぽ。何もない。

「こんな光景始めて見た」

「私は始めてじゃないけどね」

「そうなの?」

「胆振地震の時もこんな感じだったよ。どこの店も」

「あぁ」

「あの時さ、私の友達にすげぇ奴がいたんだ」

「どんなすげぇ奴」

「胆振地震の時まで、モバイルバッテリーの存在を知らなかった女。ニュースでモバイルバッテリーを買い求めてる人たちの様子を見て、やっとこの世にスマホをどこでも充電出来る物があると知ったんだと」

「いやさすがに嘘でしょ。二千十八年だよね? いくらなんでも……」

「これマジな話ね。二千十八年でも、モバイルバッテリーを知らない人間は普通に生息してたの」

「キチガイだね」

「だろ? あと二千十八年はね、日本ってまだ現金主義だったんだよ」

「えー嘘だ~」

「いやほんとほんと。クレジットNGの店とか普通にあったよ。あの時代、スウェーデンじゃスウィッシュが爆発的に普及してたんだけどね。日本人にとってスマホはゲーム機であって、スマホが生活の質を向上させてたとは言い難い」

「二千十八年で現金主義ねぇ……」

 本物の二千十八年の話を聞かされて、私は皮肉たっぷりに笑った。

「日本ってそんな昔から遅れた国だったんだね。そりゃシンギュラリティに乗り遅れるわ」

「ん。しかも優秀な技術者はみんな海外に流れまくってたからね。日本にはバカしか残らなかったんだ」

「そりゃ国が衰退するのは当然だね。もったいない」

 昔の日本には、なんだかんだ言って優秀な人間や向上心のある人間は多かったと聞く。なのに何故、政府は優秀な人間を有効活用しなかったのだろうか。

 まさに無能な本部、優秀な現場というよくある会社の構図が日本社会そのものだった。いや、そのものなのだ。……この世界の二千十八年と、過去の二千十八年がごっちゃになって頭痛がする。

 可奈子は苦笑すると、棚に置いてあるガムの包みをナチュラルに開封して、口に放り込んだ。

「今となってはどうでもいい話だけどね。日本がどうであれ、移行計画は防ぎようのない運命だった。今この瞬間は必然さ。でも、人は必然に立ち向かう力を持つ唯一の生命体だ。猿じゃない。だからもう少し頑張ろう。全てが終わったらいくらでも自由に過ごせばいい」

「……そう、だね」

 私はぎこちなく笑った。さっきから落ち着かない気分なんだけど、考えてみれば可奈子とこうして二人で話すのは超レアな機会なんだ。というか、そもそも私はペンラムウェンの人間と密接な関わりは無かったし。

「ねぇ。なんで今日、私を誘ったの」

「あん?」

「いや、だってぶっちゃけ、ウチらそんな話した事なかったじゃん。なのになんで私を誘ったの。望海とかヤマト誘えば良かったじゃん。二人とは現実世界でも仲良かったんでしょ」

「お前、結構鈍いのな」

「あ? なんだよいきなり」

「そもそも、私が食べ物を盗りにいこうとしたこと自体を不思議に思えよ。私と凛音はこうなる事を知ってたんだぜ。食料の備蓄も無しに事を起こしたと思うのか?」

「……あ」

 言われてみればそうだ。凛音は意図的に世界をカオスにしたのだから、協力者の可奈子やエルは大規模な略奪を見越して準備していたはずだ。

「食べ物と飲み物は、こっそりケウトゥムハイタの倉庫に保存してある」

「目的はなに。私と何を話したかったの」

「話したい事は別にないよ。ただ、今日ここで盗った物は全部お前のもんだ」

 と言って、可奈子は自分の買い物カゴに入っている食料品と水を、私のカゴの中に突っ込んだ。

「後はケウトゥムハイタの備蓄を足せば十分だろ。帰ろう」

「ちょっと。全然意味分かんないんだけど」

「意味は必要ない。これからお前にとって大事になるのは、お前の意思だけだ。凛音や私に構わず、お前は自分の気持ちを一番に考えて最後の時まで生きろ。分かったな?」

「……いや、分かんねぇわ」

「大人になると、憎悪の対象は世界から自分に変わっていく。そうならない内に、強く戦えって事さ」

 可奈子は自分のカゴをぽいっと投げ捨て、スタスタと出口に向かって歩きだす。やっぱり全然分かんねぇよ。

「おい、待てよ」

「とりあえず外でよう。ここ空気わりぃし。……っていてぇな!」

 ふいに、暗闇の中をふらふら歩いていた若い男が可奈子の肩にぶつかった。男は怒鳴る可奈子に対して一瞬ビビる様子を見せたけど、すぐにへらへら笑い出す。

「ぶつかったくらいでそんな怒鳴るんじゃねぇよ。調子こいてるとレイプすんぞ」

「可奈ちゃんビーンタ!」

 訳分からんセリフを発しながら、可奈子は男の顔面に強烈なビンタを叩き込んだ。バチィン! と爽快な音が響き、男はよろけて倒れる。全身をひねり、右手を極限まで振り上げ、超高速で繰り出されたビンタの破壊力は凄まじかったらしく、男の鼻からはまたたく間に血が流れ始めた。

「プレゼントをやろう」

 可奈子は駄菓子が置いてあったと思われる棚を物色して「20円」の値札を外し、くたばっている男の額にちょこんと置いた。そして満足したように頷く。

「てめぇの価値は二十円だ。まぁ本当はゼロ円と言いたい所だけど、私に勝負を挑んだ事は評価してやらないとね。じゃあユリ、帰ろうか」

「うん。帰る」

 この人に逆らうのはやめよう。

 私たちは黙って店の外に出た。堂々と店の商品を入れた買い物カゴを持ったまま外に出るのは、不思議な気持ちだ。

「……あっつ」

 うだるような、ねばつくまどろんだ風が吹いている。じっとり重たい空気。どうやらお天気は人間の争いを喜んではいないらしい。

「あぁ、暑いね。もう裸になるしかねぇな」

 可奈子はそう言いながらも、涼しい顔だし汗ひとつかいていない。短いスカートから見える細くて引き締まった足は真っ白で、ピチピチお肌の顔はまさに色白美人。……本当に暑がってんのか?

「……足、速そうだよね。可奈子って」

「高校生の時、いっつも陸上部の奴らに勧誘されてた。勧誘される度に余裕で逃げ切ってたけどね。でもぶっちぎりで逃げ切れば逃げ切るほど、勧誘の回数が増えて困ってた」

 コイツが敵じゃなくて本当に良かった。凛音最大の功績は、佐伯可奈子を仲間にした事だろう。

 会話が途絶え、私たちはしばらく黙って歩き続けた。街から離れていくほどに闇は深まり、虫の声が多くなってくる。

 にしても。なんで可奈子は私に食料品なんか与えたんだろうかと疑問は尽きない。いや、疑問の答えはおぼろげに見えてるけど……。

 なかなか、決心がつかない。

 モヤモヤした気持ちのまま歩き続け、やがて豊平川が見えてくる。みんなで花火をした日は、もはや夢まぼろしか。

「ねぇ。アスカがあんな事になってさ、心は痛まないの」

 私が質問をすると、可奈子は露骨に目を逸らし、ごまかすようにセブンスターに火を付けた。

「さぁね」

 相変わらず、嘘が下手くそな女だ。

「人類の記憶を復活させて、何するつもり」

「勝つつもり」

「可奈子は、悪い人?」

「あぁ。悪い人だよ」

「話したい事が無いなんて嘘でしょ。食べ物だけ必要なら、一人で探してくればいい。今、私と可奈子が二人で居る理由はなに」

「寂しがり屋なんだ、私」

 ほんと、難儀な奴。

 私はハイライトを吸いながら、終わりゆく世界の夜空を見上げた。偽りの空と時を想うと、切なさが押し寄せてくる。私が酸いも甘いも体験した人生はデータ上のもの。そりゃさすがにあんまりだって思うし、どんな結果になるにせよ、今この瞬間この景色はもう少しで夢の中の夢になる。やっぱり、悲しい。

 ふと、口に出したくなる。こうやって静かな夜を可奈子と二人で歩くような機会は、これが最初で最後だろうねって。でもそんな野暮なこと口には出せない。意味が無いし、ひと時の哀愁も一年限りの夏も、後に残しちゃいけない。夢は過去であり、未来に過去などない。

 可奈子の横顔を盗み見る。悲しさと力強さが混じり合った瞳は、今にもふっと泣いちゃいそうな弱さを隠してる。

「……アスカはね、あのにゃん太郎のぬいぐるみもらって、喜んでると思うよ」

「喜んでなかったよ」

「そんなことないと思う」

 可奈子は小さく笑った。多分、可奈子が望んでるような世界は、ほんの少しくらいはちゃんとここにある。

「なぁユリ。お前、落ち着いてるよな。こんな状況なのに」

「まぁ……ね」

 悪い意味で、私は世界に興味が無いからねと心の中でごちる。

私は現実世界でもデジタル世界でも割と淡々と生きていた。明日風百合としても、百合ヶ原柚としても、百合ヶ原百合としてもそうだと思う。

今この状況でも、どちらの勢力に加担するでもなく家に引きこもってる人は多いんだろうけど、私もそういうタイプだ。

 戦わないし、混乱に乗じて悪いことなんかしないし、本当に何もせず時が過ぎるのを待っている。災害が起きた時と同じだ。

「あ」

 道ばたに何か落ちているのを見かけて近寄ってみると、それは黒猫の死体だった。猫は血だらけで見るも無残な姿になっている。

「ひでぇな」

「いつどんな時だって、はけ口の対象は弱者なんだ」

 可奈子は黒猫を一瞥しただけでスタスタ歩いていく。後ろ髪をひかれる思いで可奈子の背中を追い、声をかける。

「ねぇ。お墓くらい作ろうとか思わないの」

「数字で表現出来ちゃう死に涙を流す必要はない。……ねぇ、アンタ十四歳だよね。アスカも」

「そうだけど」

「玲奈と同じか」

「誰?」

「でも実際は二十八歳だよね。アンタ達は」

「まぁ二つの世界を生きてますから」

「うん。だけどユリもアスカも、子供としての二十八年間しか過ごしてない。怒りの矛先が大きく広がって、曖昧になる感覚は体験してないと思う」

「よく分かんない」

 可奈子は足を止め、ポケットからにゃんにゃんニャンダフルのフィギュアが入っている食玩を取り出した。さっき盗んできたものらしい。

「これ、渡しておく」

「……なんか、ちょっとフタ開いてない?」

「中身確認してから持ってきたの。中身はシークレットのにゃん太郎クリミナルゴッドエディション」

 アスカに聞かされた事がある。確か悪さばかりするにゃんブラック三世を倒すべく、様々な武装を施したにゃん太郎の特別バージョンで、アニメでは三十四話に出てくるらしい。

 ふいに瑞々しい草の匂いを含んだ風が吹き、可奈子の長めの前髪がふんわり揺れる。可奈子は左手で前髪を払いのけ、あどけない顔で笑った。

「さっきも言ったけど、これからの行動はお前の意思で自由に決めろ。善悪なんかどうでもいいし、私と凛音に気を遣う必要もない。分かったな? 手出せ」

 言われた通りに右手を差し出すと、可奈子は食玩を私の手に置き、優しく微笑んだ。

「これをどうするかはお前が決めろ」

「私の行動のせいで、ペンラムウェンが負ける未来があるかもしれない」

 可奈子はキョトンとした顔になり、そして盛大に笑った。

「それはそれで受け入れるよ」

 私は苦笑いし、食玩をカゴの中に入れた。

 全く。どうでもいいけど……。

 ぬいぐるみも食玩も自分で直接渡せない貴方の辛い感情と立場を、少しは理解したいと思う。

「ありがとう。良く知らない人」

「どういたしまして。良く知らない人」


EP55 私は左手で引き金を引いた

・綾瀬望海


普段あまり使わないダイニングルームは殺風景で落ち着かない。私はさっきからタバコをぷかぷか吸いながら、そわそわした気持ちで時を過ごしている。

 せっかく記憶を取り戻したというのに、実のところあまり実感がないし、心境の変化もあまり感じられない。ていうか、無理だよねそもそも。あともう少しで最後の瞬間が訪れるんだからわちゃわちゃ感動の再会ごっこする気にもなれないし、何よりアスカがあんな事になっちゃったし、なんかもう心が追いつかない。気持ちがふわふわして、脳みそが正常な判断を下せず、まるで自分が壊れたロボットになったような気にもなる。落ち着かない理由は、この馴染まないダイニングルームで時を過ごしている事だけが原因ではない。

「……」

 ヤマト君はさっきから無言で淡々とプラモ作りに勤しんでいて、いつもより几帳面にゲート処理をしている。

「なんで、こんな時にプラモなんか作ってるの」

「相聞歌の意図が分からん。そして、俺たちには何もする事がない」

「ねぇ、私ら本当に記憶取り戻したんだよね」

「おう。洞窟暮らしなんかさせて悪かったな」

「一つ聞きたいんだけど」

「俺は人に質問をされる度に嬉しくなる。だって、俺はいつも蚊帳の外だから」

「長い夢を見てた気分? それとも単純に夢から覚めた気分?」

 ヤマト君は手を止め、ヤスリを持ったままずいぶん間抜けな表情で天を仰ぎ、十分に考え込んでから言った。

「夢から覚めた気分かな。ついさっきコールドスリープ装置に入ったような気がする」

「分かる」

 私もヤマト君と同じ気持ちだった。

 きっと、デジタル望海にオリジナル望海が上書きされたようなものなんだろう。オリジナルの私からしてみれば、デジタル望海として過ごした時間は自分のものじゃない。戸惑いはデジタルの役目。私は私。おはようございます。

「まぁ、あれこれ混乱する余裕も無いけどな。もしかしたら、数日後には現実に帰ってるかもしれないんだし」

 ヤマト君はコトブキニッパーを手に取り、ランナーのパーツを切り始める。彼は何も考えたくない時はいつもプラモを作る。

「凛音、何する気なのかな」

「さぁ。でも世界中の人間を扇動してる事に関しては完全なブラフだろ。あいつの主眼は今でもアスカにあるはずだ」

「だよね」

「そうじゃなかったら、あんな状態になったアスカを放っておく訳がない」

「うん。……ねぇ、心配じゃないの」

 ヤマト君は一瞬、怒ったような表情になった。ニッパーでパチンと、乱暴にパーツを切り落とす。

「アスカに全てを委ねて、何もかも他人任せにしてお気楽に眠った俺たちに、アスカを心配する権利なんかない」

「……まぁ」

「それに、アスカが一番欲しい涙を俺たちは持ってないだろ」

「……ユリと可奈子さん、まだ帰ってこないね」

 ヤマト君は手を止め、ニッパーをテーブルに置いた。

「あいつは、もうユリじゃない」

「でも」

「どんな道に進んでもアスカにとっての幸せが無いのなら、とりあえずは全力で勝利を祈るしかない。全てはその後だ」

「見込みは無いと?」

「無い。そして、あいつの恋のために世界を犠牲にする事は出来ない」

「ヤマト君は、現実に帰りたいの」

「あぁ。細かい理屈なんて無い。お前は?」

「私に聞く? 野暮じゃない?」

「聞くさ。お前はアヤでもあり、望海でもある」

「帰りたいよ。アヤは死んだし、私は望海であり、望海でもある」

「エルと可奈子の事、どう思ってる」

「今は心配してない。あの人達は生き返るつもりないだろうけど、なんなら勝手に蘇生させちゃえばいい」

「怒られるかもしれない」

「必ず蘇生させるとは言ってない。でも、蘇生させられる可能性はあるんだから、悲観しなくてもいいでしょ。それこそ、ヤマト君の言う通りそこんとこは全てが終わった後でいいよ」

「そうだな。……なぁ望海。記憶が戻ったのにお互いこんなに飄々としてるなんて、ここでの十七年はなんだったんだろうな」

「なんだったんでしょうね。私とセックスしちゃった変態さん」

「……」

「冗談。今は問い詰めないよ。この事に関してだけは、最後の時までアヤとして接してあげる」

「放課後、職員室に来なさいと言われるよりも、その場で怒ってもらう方が楽だ」

「性欲に勝つ方法を知らない男の人って、哀れだよね」

「まだバケツに水入れてないから、やっぱ後でいい」

「アスカ~。オムライス食べないのー? 好きでしょー? 望海が愛情込めて作ってくれたんだよ~」

 扉の向こう、リビングからエルの朗らかな声が響いてきた。ずーっと皆でアスカを見張ってたら余計にストレスを感じさせちゃうかなと思って、さっきからエルと二人きりにさせている。こういう時はエルみたいな子と一緒に居た方がストレスは少ない。あの二人、現実じゃ結構仲良かったし。

「ねー食べなよー。お腹空いたでしょ?」

「いらない! 食べない!」

「でも何も食べてないよね。そろそろ食べなきゃダメだよ」

「やだ! いらない!」

「美味しいよ」

「エルが食べればいいじゃん!」

「このオムライスはアスカ専用なの!」

「意味分かんない!」

「あ、そうだ。オムライス食べたら、今日は久しぶりに一緒に寝てあげるよ」

「もう一人で眠れるもん!」

「えーと……じゃあ、食べてくれたらえーと、おっぱい触らせてあげる」

「凛音くらいにでかくなってから言えよ!」

「どぅほはっふ!」

「もうあっち行ってよ!」

「ダメ。ちゃんと食べるの」

「食べない」

「エルるんが食べさせてあげるよ」

「食べないって言ってるでしょ!」

「むむ! あのね、エルるんはアスカよりもお姉ちゃんなんだよ。甘えたい時は甘えなさい!」

「精神年齢は私の方が上だもん!」

「ほ……ほぎょー!」

「おい、あいつら大丈夫か。つまらん漫才みたいになってるぞ」

 私は頭を抱えた。冷静に考えてみたら、エルをぶつけたのは失敗だったよね。エルに悪気は無いとはいえ、あれじゃ逆効果だ。

「え、エルるん激おこー! ほら食べなさいオムライス! 口開けて! あ~ん」

「食べないもん!」

「食べるでござる!」

「このまま飢え死にしてやる!」

「あ、その手があったか」

「望海」

「はい」

「お前、なんとかしてやれよ」

 無茶振りしないでくれるかな。

「私たちは、もう手を尽くしたでしょ」

「ロープほどけよクソ金髪! もうなんなんだよおおおおお!」

「ほぎょー! 今噛みつこうとしたでしょ! あっぶないなぁ」

「もういやだああああああ! 死なせてよおおおおおお!」

 私は今日何本目かのタバコを灰皿でもみ消し、テーブルの隅に置いてあるハードディスクの破片を手に取った。凛音はケウトゥムハイタに来るなり、篝火乙女がインストールされているハードディスクをハンマーで叩き壊した。そして可奈子さんが几帳面に破片を燃えないゴミ袋に突っ込み、でももうそんな事する必要はないのだと気づいて庭に捨てたんだけど、なんとなく袋から一番大きな破片を持ってきちゃったんだ。

「それ、お前にとっては不気味で気持ち悪いゴミでしかないんじゃないのか」

 ヤマト君が眉間に皺を寄せながら言った。まぁ仰る通りなんですけど、なんだろね。確かにこれは触りたくもないゴミだけど……なんていうか……。

「負の記念……みたいな?」

「はぁ?」

「にょじょみぃ~」

 リビング側の扉が弱々しく開き、真冬の八甲田山から帰ってきた人のように疲れ切った様子のエルが入ってきた。取っ組み合いでもしたのか、エルご自慢のツインテールはボサボサだった。

「エルるん一人じゃもう無理でござる」

 私は超小声で「ドア閉めて」と囁いた。でもすぐにヤマト君が無言で首を横に振る。

 ドアの隙間から見えるアスカは、こっちを死ぬほど睨んでいる。……確かに野放しには出来ない。今のアスカは暴力的な飼い主に捨てられて保健所送りにされたドーベルマンみたいなもんだ。チープでクソつまんない日本の映画と違って、一瞬たりとも目は離せない。

 エルはうんざりした顔をしながら椅子に座り、私がアスカのために作ってあげたオムライスをテーブルに置いた。一口も手が付けられていない。

「ダメ?」

 顔を近づけて小声で聞くと、エルはしょんぼりと頷いた。

「ダメでござる」

「エルはアスカのお姉さんなんでしょ」

「お姉ちゃんパワー不発でござるよ……」

「もっと頑張れない?」

 エルがぶんぶんと首を振り、ツインテールがぺちぺち頬に当たる。

「むりりんぐ」

 思わず唸る。アスカはあんな事があってからペンラムウェンに入った訳だから、当初は心が腐った狂犬みたいな雰囲気を漂わせ、誰にも心を開かず、毎日部屋の隅っこでぬいぐるみを抱き抱えてアニメを見る日々を過ごしていた。

 でも、異常的に元気で明るいエルに対しては、割と早い段階で心を開いていたと思う。エルはアスカを色んな所に連れ出し、一人で歩こうとしないアスカの手を引っ張っていた。やがて、アスカは嬉しそうにエルと手を繋いで歩くようになり、いつの間にか一人で出歩けるくらいには回復し、皆とも仲良くするようになった。

 だから、エルならまたなんとかしてくれると思ったんだけど……。

「Bカップの私じゃ、多分無理なんだと思うでござる……」

 この有様だもんね。

「困ったなぁ……」

 憂鬱なため息をつくと、エルはテーブルによっこらせと座り、どよーんと肩を落とした。

「ほんとだよ。でも……」

 エルはちらっとアスカの方に目をやってから、私の耳に顔を近づけて囁いた。

「理性はある」

「ほんと?」

「うん。だってさっき私に噛みつこうとしたけど直前でやめたし、意地にはなってるけど心を閉ざしてる訳じゃないと思う」

「うーん……」

「ねぇ、やっぱり可奈子が帰ってきたら任せようよ。こういう時はやっぱりもっと年上の大人にガツンと……」

「いや、ダメ。可奈子さん甘いもん。あの人に任せたら、ベタベタ甘やかすだけになる。わざわざ手土産にぬいぐるみ持ってくるような人だよ? やっぱ凛音の方が……」

 ぺちん。ヤマト君にプラモの説明書で頭を叩かれた。何すんのよ。

「相聞歌はダメだろ。あいつが何したか分かってんのか」

 頭を垂れる。現実に帰ってもデジタル世界に残ってもアスカの人生は続いていくんだから、何もこれは今だけの問題じゃない。

「どうしたもんかね……」

「ていうか、なんでヤマト君はのん気にプラモ作ってるの」

「のん気ではない。今は勝利を祈るだけ。その後にアスカがまた笑えるように頑張るのさ」

「やっぱりのん気じゃん!」

 エルはぷぅっと頬を膨らませ、自分のツインテールを握り、髪の束でヤマト君のほっぺたをぺちぺち叩いた。

「こんちきしょ! こんちきしょ!」

「おい、やめろ」

 ……こうしてると、三人で洞窟暮らしをしていた事が鮮明に思い出される。あれはあれで結構楽しかったんだよね。

「望海! ねぇってば! いつまで私を監禁するの!?」

 ドアの隙間からアスカの叫び声が飛んでくる。

「望海。お呼びだよ」

「呼んではいないと思う」

「どれだけ監禁しても私の気持ちは変わらないからね!」

 指で額をおさえる。なんて答えるべきか。

 とりあえずドアを大きく開け、もがいているアスカと向き合う。アスカの表情は怒りで満たされているけど、すがるような甘えた態度がありありと見られる。今にも「きゅうん……」みたいな鳴き声でも漏らしそうな、子犬のように弱々しい雰囲気満点のアスカを見ていると、思わず抱きしめてだっこしておんぶして子守唄でも歌ってやりたくなる衝動に駆られるけど、今は我慢。優しくした所で事態は変わらない。

 惜しいな。アスカは素敵な子だけど、残念な事にアスカは根本的に人生に向いていない。

 死にたいという願望は一見ネガティブに思えるけど、一概に全力ネガティブな発想とも限らない。エネルギー溢れる人間は強い生か強い死、極端に分別される。たぎる燃料はいくらでも色を変えてしまう。そしてアスカのエネルギーは、絶賛悪い色に変化しちゃってる。

結局、そもそもエネルギーすら持たないどっちつかずの人間が、無難に生きていけるんだ。エベレストに登る人は、成功すれば普通の人じゃ味わえない体験が出来るし、普通の人生では見る事が出来ない景色を目に焼き付ける事が出来るけど、もちろん死んでしまう可能性もある。しかし、エベレストに登らない人は少なくとも山で死ぬ事はないだろう。アスカは誰よりも生きる事に対して強いエネルギーを持つが故に、山で遭難して死にそうになっている。

「アスカ」

 私はアスカの側に座り込んだ。エルもついてきて、私の横に座る。

「私はね、お父さんにレイプされた記憶を、憎悪を、忘れたくないって思ってた」

 強張っていたアスカの顔が、急激に遠慮がちになる。うん、確かに理性はあるみたいだね。

「でも、なんでだろね。今じゃなんかもうどうでも良いかなって思っちゃってる」

「……嘘だ」

「嘘じゃないよ。多分私は、その程度の人間なんだろうね」

「なんで、そんな話するの」

「憎悪がエネルギーの源にならない人間は、世界を作り変える事は出来ない」

「はっ」

 アスカは皮肉たっぷりに笑った。

「なに、今更改めて私に色々なすりつけるつもり?」

「アスカなら、現実世界で希望を現実に出来ると思うよ。夢じゃなくて希望をね」

「出来ると思うよ、なんてセリフ望海らしくない。出来るかもよ、じゃないの」

 私は人差し指で、アスカの頬をぷにっと突いた。

「独立世界なんてクソくらえ。アンタはこれからも生きていく。もう少し大人になりな」

「独立世界……」

 アスカが不思議そうに呟いた所で、玄関ドアの開く音がした。すぐにドカドカとユリと可奈子さんがリビングに顔を出す。ユリはお店の買い物カゴを持っていて、中には食料品が詰め込まれている。準備万端といった所か。

「ただいまー。おかえりなさーい」

 可奈子さんは一人二役で挨拶をすると、すぐにアスカの前によっこらせとあぐらをかいた。

「アスカ。そろそろ疲れたでしょ。お風呂でも入る?」

「……」

 可奈子さんは笑顔でアスカに語りかける。そんな二人の様子を、ユリは間抜けに立ちすくみながら傍観している。

「ユリ? どうしたの」

「……なんでも」

 買い物カゴを持つユリの右手が、ぎゅっと強く握り直される。

 可奈子さん、多分だけど凛音を裏切ったね。それで良いと思う。

 だって裏切った所で、結果は変わらないもん。それは可奈子さんも重々承知だろうけど。

「可奈子さん」

「んー? なにー?」

「もう少しの間、よろしくお願いします」

 可奈子さんは「ははっ」と恥ずかしそうに笑い、首筋をぽりぽり掻いた。

「やめてよね。今から悲しくなっちゃう」


・百合ヶ原百合


 八月九日。念の為数時間ほどお昼寝しようと思って眠り、寝すぎて夜に起きた。こんな時でも人はぐぅぐぅ眠れるらしい。

自分の部屋を出て、ゆっくり廊下を歩く。望海とヤマトの部屋のドアが開いていて、なんとなく隙間から部屋の中を覗く。ヤマトが一人でベッドに寝転がり、天井を見上げている。

 私はヤマトを軽蔑する。普段偉そうなこと言ってるクセに、結局逃げるのか。アスカがメソメソ泣いてる姿を見ていると心が痛むからって、アスカの視界から消えるのか。現実世界に帰った後にアスカをサポートする? 冗談。アンタみたいな男、アスカは必要としていない。図に乗るな。勘違い野郎。ペンラムウェンはあくまで凛音のお友達を集めて作られた組織。私らはゲストであり、唯一お友達として迎えられたメンバーはアスカだけという事実を忘れるな。

 リビングに入ると、可奈子に膝枕してもらっているアスカの姿が真っ先に目に入った。アスカは体を丸めてひくっひくっと嗚咽を漏らしながらメソメソ泣き、可奈子に体をさすってもらっている。ロープはほどかれているけど、もう逃げる気力も無いらしい。ただ死にたいという願望で心が支配され、自暴自棄を加速させている。

 ……まぁ、ヤマトの気持ちも分かるけどね。こんな姿見せられた日には、命を賭けてでも守ってやりたくなる。でも、命を賭けた所で守る術はない。

「むっ。どしたのユリりん。こっち来なよ」

「あぁ……」

 望海と頭を突き合わせてコリドールに興じていたエルが、疲れ切った笑顔を向けてきた。アスカはちらっと私に視線を向けただけで、また嗚咽を漏らして可奈子の上で身をよじった。……今にも指を咥えてちゅぱちゅぱ舐めだしそうな勢いだ。こりゃ完全に堕ちる前の明日風真希に戻ってるな。

「なぁアスカ。お前厳密には二十八年生きてるんだぞ。私と同い年だぞ。もうちょっと大人になろうぜ」

 それ言ったらお前は五十六歳じゃないか、って言おうと思ったけどリアルに殺されるから黙っておく。

「……わたし子供だもん」

 盛大なため息をつくと同時に、可奈子の言葉を思い出す。

 自分の意思で行動をする。残り僅かなこの世界で、私がするべき事はただ一つ。

 自分の意思に対して素直になり、好きなように生きる。だったら答えは見えている。無意味と分かっていても、私は突き進む。

 私は誰でもないけど、誰かであり続ける事は出来る。私だって人間の血は流れてる。自分なんて好きじゃないけど、それでも自分は自分だ。

 せめて最後の瞬間まで、百合ヶ原百合として生き続けてやろう。たとえ私がアスカを蔑ろにする未来があったとしても、今は今の風だけが吹いている。

「世界って、そんなに必要なのかな」

 アスカが弱々しく呟く。何も答えない可奈子にかわって、私が答える。

「悲しみの代償にふさわしい人生を勝ち取る。私たち人間の宿命だと思う」

「ユリ……」

「ねぇ、なんで凛音は私ら含めて全人類の記憶を取り戻したのかな。凛音にとって必要な記憶は、アスカだけのはずなんだけど」

「言うまでもないでしょ。私こそ、必要無いからだよ。今更なに言ってんの?」

「違う。凛音は単純に……」

「ただいま」

「うわ!」

 いきなり凛音がリビングに姿を現した。音も無く帰ってくるのはやめてほしい。

「ちょっと。これまでどこ行ってたのさ。何日も姿暗まして……」

「どこでもいいでしょ」

「どうしたんだよ」

 リビングが騒がしくなった事に気がついたのか、ヤマトがひょっこり顔を出してきた。凛音に気がついて顔をしかめる。

「お前、これまで何してたんだ」

「そうだよりんりん。あんな事しておいて……」

「凛音、そろそろ何をする気なのか教えて。私らちゃんと勝てるの?」

「揃いも揃ってうっさいわねぇ……」

 髪の毛をかきあげながらぼやく凛音は可奈子の隣に座り、優雅に足を組んだ。そして微動だにせず膝枕状態を維持しているアスカと目が合い、サッと目を逸らす。しょうがない。こんな弱々しく甘えた顔で上目遣いに見つめられた日には、赤ちゃん言葉を駆使してあやしてやりたくなる。

 凛音はあからさまにアスカから視線を離しながら何度か咳払いをし、居住まいを正す。

「ペンラムウェンの勝利は確定してる。アンタ達は黙って時を過ごしてなさい」

 凛音の目線が、望海とエルが遊んでいるコリドールに向けられる。

「そう、ボードゲームでもして暇を潰してなさい。全ては、終わった後に」

 凛音がこの世界に具現化してきた時は感動的な再会だったかもしれないけど、すぐに全人類の記憶を取り戻すなんて予想もしていなかった蛮行をやらかしたせいで、私たちと凛音の間には冷たい空気が流れていた。……もしかしてだけど、コイツただ単に気まずい雰囲気に耐えられなくて、外を放浪してた訳じゃねぇよな……?

「ねぇちょっと。アスカの事どうするつもりなのさ。凛音に人の心は無いの?」

 望海が質問したにも関わらず、なぜか凛音は私をちらっと盗み見て、苦しそうに吐息を漏らした。

「私は夏希が守った世界を、戦った世界を、巡り巡って訪れた幸せを手放す気はない。生まれ育った世界を抜け出してまで訪れた世界で不幸になるつもりはない。私はこの星に永遠で最高のユートピアを作り上げたい。それが私の夢であり最後の仕事。申し訳ないとは思ってる」

 全く意味が分からなかったけど、意味は確かにあった。

 凛音は多分、運命の瞬間まで姿を見せるつもりはなかったんだと思う。

 でも、姿を見せた。

 そして彼女の意味深なメッセージは、物語を動かす引き金だった。

 私はポケットの中に左手を突っ込み、フィギュアを強く握った。

 右手は隠さない。

 戦うために。


 深夜。アスカの見張りを任された私はついにずっと抱いていた計画を実行する事にした。でも出発する前に腹ごしらえはしておきたい。

「アスカ」

 望海がアスカのために作ったおにぎりをトレーに乗せ、床に仰向けで寝転がっている親友に声をかける。ここ数日、アスカはロクにご飯を食べていない。可奈子に無理やり口に突っ込まれたお菓子は食べていたと思うけど、少なくともまともに動ける状態ではないだろう。

「……」

 アスカの目はどろんと淀んでいる。全く、責任重大だし手のかかる奴だよ。明日風百合はさぞかし大変だったろうね。

 でもまぁ、私はアスカを信じるよ。だってデジタル世界のアスカは、現実世界よりも遥かに強かったもん。

「アスカ。食べなよ。ちゃんと温め直したから」

 床にトレーを置く。でもアスカは全く食べようとしない。

「アスカ」

「いらない!」

 アスカは右手を振り上げてトレーを弾き飛ばそうとしたけど、すぐにハッとした表情になって手を引っ込めた。うん、そうだよね。人様が自分のために作ってくれたおにぎり、台無しに出来るような子じゃないよね、アンタは。

 まだ、大丈夫だ。架空の世界で作られた架空のおにぎりと、身近な人間の親切心を大切にしちゃってる時点で、アスカは悲しいくらいに善き人間だ。

「あのさアスカ。とりあえず私たちはさ、アヌンコタンが勝つ方に賭けようよ」

「……正気? 裏切るの?」

 久しぶりに、アスカは正気を保った声で、目をパチクリさせながら言った。まぁ当然の反応か。

「裏切るのは違うでしょ。祈るだけで、妨害する訳じゃない」

「なんのつもり」

 よっこらせとアスカの隣に座ると、アスカはいそいそと起き上がってちょこんと座った。

「あのさ」

「うん」

「この世界が永遠に続くとしたら、死んだ者は永遠に死んだ者になるんだよね」

「そうだよ。だから死にたいって言ってるんじゃん」

「私もそっちに賭ける。とりあえずは」

「ユリ?」

「ちょっと待っててね」

 私は自分の部屋から二つのリュックサックを持ってきて、アスカに見せつけた。一つは私の物で、もう一つはアスカの物。アスカのリュックはにゃんにゃんニャンダフルのキーホルダーが大量に付いているせいで、じゃらじゃらとうるさい音を立てる。

「じゃじゃーん」

「……なに」

「この中にはね、数日分の食べ物と水が入ってるの」

 二つのリュックを床に置く。どちらも食料やらペットボトルやらが詰め込まれているせいで、かなり重たい。

「……で?」

「逃げよう」

「……どこに?」

「どこにでも。逃げて、決着がつくまでにやりたい事やって、世界が作り変えられる直前に一緒に死のう」

 アスカは目を大きく見開き、あんぐりと口を開けた。今年一番のアホ面頂きました。

「まぁ、ペンラムウェンが勝てば何も意味ないけどね」

「あの……なんで?」

 私はアスカの手を握り、あくまでも百合ヶ原百合として告げる。

「オリジナルのユリからしたら、私は架空の世界で生きる人工知能なんだと思う。でも、私には自我がある。私はこの世界を生きた一人の人間なの。言い方を変えようか。アスカとずっと一緒に並んで歩いた百合ヶ原百合なの。アスカが死んだデジタル世界で過ごす可能性が一ミリでもあるなら、私は死を選ぶ」

 大前提として、永遠に続くデジタル世界はそれすなわちこの世界が現実世界となる事を意味する。そして、生きる世界が現実に切り替わった瞬間、私はオリジナルの百合ヶ原百合に戻るだろう。

 さて、選択肢は三つある。

 アヌンコタンの勝利を祈り、アスカと共に死んで二人の人生を終わらせるのか。

 永遠に続くデジタル世界で、共に生きるのか。

 現実世界に帰り、共に生きるのか。

 後者二つはノーだ。私はアスカを愛さない。

 だったら、アスカを救う道は一つしかない。アスカを愛する私と共に死ぬ。これがアスカにとってのハッピーエンド。私がしてあげられる唯一の冴えた愛情表現だ。

「アスカ。私の目を見て。私は私だよ。私はアスカの事が好き。アンタが何もかもイヤなんだって言うなら、せめて最後の時まで笑える時間を作ってあげる」

 アスカはしばらく逡巡した後、遠慮がちに言葉を発した。

「良いの?」

「うん。アスカを愛せない私なんて、この私がぶっ殺してやるよ」

 アスカの瞳が久しぶりに輝いて見えた。ヨロヨロと立ち上がり、私の目をじっと見つめる。

「ナノボット、使ってたよね」

「うん。アスカの愛に応えるために。その方が楽だったから」

 私は笑う。本来は最も恐れるべき質問だけど、心配はいらない。だってアスカの目は、強く光ってるから。

「偽りだよね」

「ん。でも今の私は何も使ってないよ。なのにこんな提案をしてる。大丈夫、私の愛は本物だよ。やっと気づいたんだ」

「私のこと、嫌いだったでしょ」

「現実の私は、正直アスカのこと好きじゃなかったけど……って何度も言わせないでよ」

「こっちの世界では?」

「まぁ……一時期ちょっと避けてた事はあるけど、アスカは最後まで私を見放さなかったし、ケウトゥムハイタに連れてきてくれた。ありがとうアスカ。ねぇ、もう不毛な確認なんてしないでよ。そろそろ恩返しさせろって」

「……ありがとう」

「よしっ。じゃあ適当に逃げるか。必要な物は全部リュックに詰めておいたから、今すぐにでも行けるよ」

「うん! 行こう!」

 私たちはリュックを背負い、皆にバレないように静かに玄関のドアを開け、外に飛び出した。今日は涼しい風が吹いている。北海道の短い夏のピークは、もう少しで終わりだね。


UJカシワギ:凛音さん。良いのですか。

凛音:良いのよ。

凛音:二人の最後の時間がアスカの悲しみに繋がる。

凛音:悲しみは憎しみに繋がる。

凛音:憎しみは圧倒的な熱意に繋がる。

凛音:アスカの熱意が私に勝利を呼び込む。世界を地球に帰してくれる。

UJカシワギ:貴方にとって、アスカとユリはツイッターのフォロワーと大差ないのですか。私は指示通り計画の提案はしましたが、推奨はしていません。

凛音:何度も言うけど。

凛音:私が悪だと思うなら。

凛音:誰もが笑って暮らせる世界の作り方を教えてちょうだいよ。もちろん道徳とか常識ってもんを遵守したやり方でね。

凛音:思いつかないんだったら、指でも咥えて黙ってろ。


・代理の彼女


 がたん。

 ごとん。

 がたん。

 ごとん。

「あはっ」

 がとん。

 ごとん。

 がとん。

 ごとん。

「ははっ」

 私はスマホを耳に当てた。

「もしもし。笹岡麻里奈です」

「はい」

「ケウトゥムハイタは空っぽ?」

「空っぽよ」

「本当に? 監視カメラの映像ちゃんとチェックしてる?」

「大丈夫。家には誰もいないわ。アスカとユリの居場所はこっそり仕込んだGPSで居場所確認済み。望海とヤマトはエルと一緒にアスカ達を捜索中。可奈子はケウトゥムハイタ近くの公園で待機中」

「じゃあ遠慮なく。合鍵は物置?」

「えぇ」

「分かった」

「笹岡」

「なに?」

「……なんでもない」

「そう」

 通話を切り、スマホをポケットにしまう。

 物置から合鍵を取り出してケウトゥムハイタの中に入る。

 タンクのフタを開ける。

 リビングにガソリンを撒き散らす。

 キッチンにも。

 廊下にも。

 ありとあらゆる場所にガソリンを撒き散らし、ケウトゥムハイタを染めていく。

 そして。

 ライターを取り出し。

「あはっ」

 着火する。

「あはははっ」

 無感情に世界は壊れていく。

 でも大丈夫。

 私は全てを忘れられる。

 相聞歌凛音がそう言っていた。


 貴方にはとても辛い役目を担ってもらうけど、現実世界に帰ったらちゃんと全ての記憶を改ざんしてあげられる。

 貴方はデジタル世界で平凡に生きていた。そういう記憶を持って現実世界で目を覚ます。

 分かりました。それなら問題無いです。

 私は意思の無いロボットのようなものですが、やがて人間に戻ります。ヒトとしての私がセイジョウになるのナラ、シンパイ無用でス。忠実に目的を実行します。


 庭に飛び出して、炎を吹き出すケウトゥムハイタを目に焼き付ける。火はこんなにも早く燃え盛るものなんだね。

 ごうごうと火の勢いが増していく。

 暑い。熱い。アツイ。

 これデおわりだ。

 あとは、帰るだけ。お疲れ様です。

 あぁ。そうだ。

 言わなきゃ。

 これを言わなくちゃいけない。

「篝火乙女は誰ですか?」

 イマなら、稲穂南海香の気持ちが少しだけワカリます。

 誰なの。

 篝火乙女は誰なの。

 世界を燃え上がらせる火は。

 世界を終わらせる火は。

 儚く消えてゆく火を灯す犠牲者は。

 暖かい炎で世界を包む人は。

 篝火乙女は。

「篝火乙女は誰ですかああああああ!?」

 この言葉は死者に捧げる言葉。

 この言葉は世界に問いかける言葉。

 この言葉は。

「篝火乙女は誰ですかあああああああああ!?」


・相聞歌凛音


 誰もいない世界で、私は笹岡麻里奈が眠るコールドスリープ装置を見下ろしている。

 笹岡麻里奈は計画を実行した。終焉に向かう弾がついに発射された。

 だからもう、彼女は用済みなのだ。

 私は笹岡との約束は果たせない。

 何故なら。

 私が主導するこの世界は。現実世界は。

 脳改造なんて許されない、道徳に溢れた世界だから。

 だからね笹岡。

 アンタの記憶を抹消するなんて事、出来ないんだよ。

 ダメだね。

 もう何がなんだか自分でも分かんないや。

 なんで私こんなに頑張ってんだろ。

 もう分からない。

 でも。最後までやり遂げる。必ず。

「柏木」

「はい」

「やれ」

「私はハルにでもなりたい気分ですよ」

「ごめんね」

「一応確認します。良いんですね? 独立世界で生きる道もありますが」

「望海たちの二の舞になるだけよ。やってちょうだい」

「了解です」

 笹岡のコールドスリープ装置の前で待機していた二足歩行のロボットが両手を動かし、装置のパネルを操作する。ピコンという電子音が鳴り、静かにフタが開く。

 笹岡麻里奈の顔を覗き込む。私は何も感じなかった。

 後悔の念が湧き上がる。まともじゃない。だからこそ、せめて自分の手で罪を背負う。

 私はナイフを振り上げた。何度も深呼吸をする。

「凛音さん。なぜ自分で手を下すのですか」

「私が決めた事だもん。自分でやるわよ。ロボットにやらせるなんて言語道断」

「めちゃくちゃですね」

「めちゃくちゃ?」

「いえ。もう全てが」

「そうね」

 笹岡の心臓めがけてナイフを振り下ろす。でも全く手応えがない。

 殺せない。

 私は人を殺せない。

 でもやらなきゃいけない。

 私だけが楽をして良い訳がない。

 現実世界で脳改造なんて許されない。

 もう一度ナイフを振り下ろす。全然刺さらない。

「凛音さん、やっぱり無理でしょう」

「無理じゃない」

「無理です」

「デジタル世界の記憶は現実世界にしっかり受け継がれる。全ての記憶を持ったまま目覚めたら、笹岡の心は確実に壊れるわ。だったら殺してあげるのが最善策なのよ」

「狂ってる」

「誰かを犠牲にしなきゃいけないの。ケウトゥムハイタは燃えなきゃいけないの」

「せめて、笹岡を独立世界に送り込むとか……」

「同じこと言わせないで。二の舞になる」

「それはそうですが」

「もう、止まれないのよ。黙って見てて」

 力を込め、自分を奮い立たせ、ナイフを振り上げ、笹岡の心臓に突き刺す。

 ぐさっ? ぐにゃ? 分からない。不気味な手応えがあった。

 吐き気を催す。でも、私は。

 止まれない。

 一心不乱にナイフを抜き出し、突き刺し、抜き出し、突き刺しという行為を何度も繰り返した。

 何度も。

 何度も。

 返り血を浴びながら。

 何度も。


EP56 最善策

・在原蓮


「損な役回りだな」

 コロポックル・コタンの穴だらけの天井に向かって毒づく。まったく、アスカ以外の誰かが引き金になればいいなと期待していたが、やっぱ無理だな。

 歴史ある木造建築の店内を見回す。天井には無数の穴。出入り口のドアはボロボロ。ドーナツ状のカウンターの中は食器やらトレイやら色んな物が散乱している。店内にある食料やらコーヒーやらは全て盗まれたんだろう。

 ダメだこりゃ。未来を作るどころか、今を壊すのに夢中ときてる。なぁ相聞歌よ、俺たちが守ろうとしている星は本当に価値があるのかな。後悔しても遅いけど。

「ほんとに損だね。ていうかエル、ここに居ていいの」

 夏希は遠慮がちに言い、グレープゼリーをごくんと飲み込んだ。

「だはっ。もう辻褄合わせる必要ないからね」

「アスカとユリのこと、探してるんだよね」

「そうだよ。で、抜け出してきたって感じ」

 エルに関しては、厳密に言うと探してるフリだがな。

「いいの? このままで」

「うん。しょうがないよ」

「やけにスッキリしてやがるな」

「そうかな」

「なぁ、エル。お前は安心してるんだろ。ペンラムウェンが勝てばようやく死ねるって」

「どきっ」

「だから心を押し隠してるのかもしれんが、人間というのはどこまでも自分を追いかける呪いだ。俺たちがエルの葬式プランを考えていると思うか?」

「ほ……ほよ……?」

「ノープランだよ。さて、お前の口から心変わりを聞きたいな」

「え、エルるんは……」

「蓮くん。なに考えてるの。まさかアスカを助ける気?」

「いや、さすがにそれは無いが」

「計画自体は止められない。分かってるよね?」

「エルが退場しても、計画は成功するさ」

 エルは両手でツインテールを握り、控えめに毛先をへなへな振った。どうやら髪の振り回し具合いで、自分の落ち込みレベルを現しているらしい。

「気遣いは嬉しいけどね、私は最後までやり切るよ。途中で抜け出して、一番エグい場面だけ都合よくエリア外で素知らぬ顔してるなんて事、絶対できない」

「まぁ、言い分は分かるよ」

「銀行強盗をする時は、必ずエルをドライバー役にするよ。きっとお前は、必ず仲間が戻ってくるまで車の中で待っていてくれるだろう」

「……だはっ」

「心変わりはないんでしょ。そろそろやっちゃおう。私はエルの意思を尊重する。エルがどんな業を背負っても、私たちは友達だからね」

「ほ……ほよよん……夏希が輝いて見える……」

 夏希はグレープゼリーの容器をぽいっと床に放り投げ、白く長い人差し指でノートパソコンをとんとん叩いた。

「ちゃっちゃっとやってよ」

「あぁ。気が乗らねぇなぁ」

「さっき凛音から連絡が入ったの。今ケウトゥムハイタが燃えてる。このタイミングが最高なんだよ。ていうか今しかない」

「分かってる」

 ノートパソコンに接続されているマッドキャッツのマウスを操作し、心底見たくないフォルダを開く。

「……」

 フォルダの中には大量の画像のサムネイルが表示されている。これを見てると一気に疲れがこみ上げてくる。

 パソコンにはアスカとユリが裸で絡み合っている画像と動画が大量に保存されている。これらは全てケウトゥムハイタに設置している隠しカメラで撮影したものだ。今からこの画像と動画を全世界に発信する。

 ケウトゥムハイタは燃えた。

 アスカとユリは心を通じ合わせ、逃げ出した。

 これが準決勝だ。

 二人がセックスしている最中の画像と動画をネットで発信すれば、後に待ってるのは決勝戦のみ。

 そして決勝戦が終われば。

 世界は、現実へと帰る。

「あぁ」

 それなのに。

 俺は。

「……マジで気が乗らねぇ」

「私がやろうか?」

「俺がやるよ」

「蓮君」

「おう」

「絶対に凛音が目指す世界が正しい。人類は絶対にぜぇったいに現実世界で生きるべきなの。だから私たちは鬼にならなきゃいけない」

「でも、俺たちがやろうとしているやり方は正しくない。なぁ、正しくないやり方で勝ち取れる世界は本当に正しいのか?」

「限りなく正しいよ。美しいやり方で勝ち取る世界だけが正しいっていう認識は、人間のエゴでしかない。ねぇ、私がやってもいいよ」

「大丈夫。やるよ」

「手震えてるよ」

 俺は左手で、震える右手をバシンと叩いた。今日この日のために、俺たちはアスカやユリとの交流を控え、アスカにとって「なんかよく分からん知らない人たち」であり続けていた。

 それでも。やっぱりおいそれと引き金は引けない。手の震えはおさまらない。

「ちきしょう情けねぇな。おい、大麻もってこい」

「分かった。ちょっとオランダまで行ってくるね」

「タバコある?」

「ある」

 夏希がセブンスターのボックスを取り出し、サッとテーブルの上を滑らせた。箱をキャッチして震える手で火をつける。

「やるしかない。もうここまで来たらやるしかねぇんだ」

「そう。やるしかないの」

「テンション上げていかねぇとな! えーと……」

「あの。やっぱ私がやるよ」

「おい、水を差すな」

「でも……やっぱ、私が責任持って……」

「バカやろう。これは赤の他人の俺たちがやるべきなんだよ。お前は能天気にそこで踊ってろ」

「在原君……」

「そんな目で俺を見るな。流れ出した水は止まらねぇんだ。やるぞ」

 百合ヶ原百合のアカウントでツイッターやフェイスブックやインスタグラム、パトレオンにファンティア、エンティにタンブラー、ありとあらゆるサイトやアプリにログインする。ユリはほとんどのサービスで同一のIDとパスワードを使っているから、どれか一つのサービスに対する不正ログインを成功させるだけで、いとも簡単にユリの全てを乗っ取れる。

 ブラウザのタブをどんどん増やす。アイカプクルの公式SNS、俺と夏希のツイッターやフェイスブック、エルのツイッター、凛音いや玲音のツイッター、とにかく世界に情報を発信できるアカウントをひたすら画面上に表示させていく。

「にしても皮肉だね」

「なにが?」

「玲音はこの日のために工作活動してたからさ、今のところフォロワー二万人もいるんだよ。でも百合ヶ原は自力で五千人も集めてやがる。このフォロワーの多さがアスカとユリを追い詰める決定打になるんだぜ。どう考えても皮肉だろ」

「ユリのツイッターだけでも、下手したら世界のトップニュースに出来る力あるよね」

「あぁ。五千人もフォロワーがいれば十分だ。フォロワーの多い奴らにリツイートされまくれば、拡散力はまさにパンデミックさ」

「友達百人出来るかな、なんて時代遅れのセリフだね」

「犯罪者の間違いさ」

 アスカとユリが絡み合っている画像や動画を、百合ヶ原のツイッターなどにどんどん投稿していく。それが終わったらアイカプクルのフェイスブック、俺のツイッター、玲音のツイッター……。

 簡単な作業だった。

 データをアップロードし続ける。

 ただそれだけで、人の心を、人生を破壊できる。

 世界は本当にシンプルだ。

 何も悪いことなんかしてないのに、なんか変な勘違いされて嫌われるとか。

 なんとなく全然絡んでないフォロワーを解除したりとか。

 たまたまいじめっ子がいるクラスになっていじめられて、引きこもりになるとか最悪自殺するとか。

 道歩いてたら車に轢かれて死ぬとか。

 健康な生活を送ってたのに病気になって死ぬとか。

 ブラックな会社に入って鬱になって死ぬとか。

 ほんと、その程度なんだよな。人生って。

「優秀な奴がその優秀さを理解できずにバカにされるとか」

「なに?」

「逆にバカが何故か頭良い奴だと思われたり」

「在原くん?」

「正論ぶつけたら逆ギレされて仲間はずれにされたり」

「なにさっきから」

「世界は無能ほど目立つようになっている。人間関係は簡単に終わらせる事が出来る。人間誰だっていつかは死ぬ。必ず」

「蓮君? 大丈夫?」

「でもシンギュラリティが訪れた世界は違う。綾瀬望海のような優秀な人間も稲穂南海香のような無能な人間もみな平等なんだ。知能を必要としない世界で争いは起きない。みんな平等だからだ。そしてシンギュラリティの恩恵を授かる世界には不老不死なんていう禁忌の魔法が平然と存在する」

「……」

「素晴らしいと思うよ。誰もが平等。無能でもバカにされない。有能な奴が疎外される事もない。なんか運悪く死んじまう事もない。ブラック会社? 論外。そもそも労働の必要がないんだ。食べ物もエネルギーも無限にある。ツイッターのフォロワー? 知るかんなもん。ロボットが友達だ。思考パターン自由自在で理想の友達作りたい放題さ」

 無駄に激しくマウスをクリックする。これで全てのアカウントで二人の秘密のアップロード作業は終了した。半日もしない内に、二人は世界クラスで有名な少女になるだろう。

「人類はユートピアに到達した。人類はそれがゴールだと思ってた。究極だと思ってた。でもそれなのに」

 ばん! 夏希が両手でテーブルを叩いた。そして俺の右手を優しくぎゅっと握りしめる。

「でもそれなのに。なんでSISAはデジタル世界なんか作ったのか。全人類を使った実験なんか始めたのか。なんで凛音は笹岡麻里奈を殺したのか。ケウトゥムハイタは燃えたのか。アスカとユリの秘密が世界に晒される羽目になったのか」

「あぁ。不思議でしょうがねぇよ。世界はユートピアを見つけたのに、今こうして愚劣な道を歩んでる。色んな人達が悲しんでる。苦しんでる。でもだからこそ」

「私たちが必ず、世界をユートピアに導こう」

「あぁ。分かってる。そしてそのためには」

「犠牲が必要なんだ」


EP57 まぁどうせこの世界終わるしさ

・綾瀬望海


「……嘘でしょ」

 案の定居なくなったアスカとユリを探し回っている最中、可奈子さんから「ケウトゥムハイタが燃えてる」という信じられない情報が届いて、半信半疑のまま慌ててケウトゥムハイタに戻ってきた。

 そして目を疑った。本当にケウトゥムハイタがごうごう燃えていて、元々ボロかった家屋は既に原型を失っている。

明るみ始めた藍色の空の下。小鳥が泣き始める早朝。みんなで暮らしたケウトゥムハイタは、世界の生まれ変わりを待たずに退場してしまった。思い出と共に跡形もなく。

 悲しさとか湧いて来なかった。ただただ呆然とするしかなかった。

 二人を探している最中にエルがふらっと居なくなっちゃって、今ここには私とヤマト君、そしてケウトゥムハイタの前で待っていた可奈子さんしか居ない。

 可奈子さんは腕を組みながら、なんだか遠い目で燃え盛るケウトゥムハイタを見ている。

 凛音の姿を探す。やっぱりあいつの姿も見当たらない。

 思わず舌打ちする。大量の野次馬の嬉しそうな叫び声がうざったい。ついでに消防車は来ていない。来る訳ない。終わりゆく世界で消防活動なんてやってらんないだろう。

「あの……」

 冷静と言えば冷静な可奈子さんに質問をぶつけようとして、でも結局口を閉ざした。今はもう、ただ自分を信じて行動するしかない。

「派手に燃えてんな」

「……」

 なに、その他人事みたいな言い方は。

「この有様が永遠の不幸になるのか、どうでもいい過去になるのか。まさに勝てば官軍だな」

ヤマト君すらも他人事みたいにそんなこと言うけど、言ってる事は正しい。勝てば全ては夢だ。

まぁどっちにしてもケウトゥムハイタとは永遠にサヨナラする事が確定したけど、どのみち居座るつもりはなかった。

 勝つしかない。尚更ね。

「なぁ、誰の仕業だと思う?」

 正直驚いた。予感と予想外。私が質問しようとしたセリフだし、可奈子さんからこの話題に触れるなんてね。

「可奈子さんじゃないの」

「違う」

「暴徒の仕業、なんだろ」

 ヤマト君が嫌味たっぷりに言う。

「ん、そりゃそうだろ。暴徒以外に誰がケウトゥムハイタに火付けるんだよ」

「とりあえず、相聞歌がへんてこな戦争始めた理由は分かったよ。そして、やっぱりアスカが主役なんだって事もな」

 可奈子さんは炎の明かりが広がる薄闇の中で、爽やかに笑った。

「きっと、大多数の人たちはまた笑えるようになるさ」

 私は可奈子さんの笑顔を見て、終わりが近い事を悟る。

 もう、止まらないんだね。

「で、暴徒は暴徒でも誰なんですか」

「暴徒は暴徒さ。脇役。名もなき誰か」

「可奈子さん」

「なに?」

「アスカとユリは大丈夫なんですよね?」

「大丈夫だよ。今あいつらは菊水の方にいる」

「可奈子」

「なにさ」

「それは本当か」

「本当だよ」

「GPSでも仕込んでたのか」

「そっちか。答えはイエス」

 ヤマト君は舌打ちした。ん、やっぱり私たちはいらない子なんだよね。

 凛音がもっと早くアスカと出会っていれば、篝火乙女事件はもう少しシンプルになってたと思う。なんかごめんね凛音。同情で捨て犬を拾うとロクな事にならないね。

 私たちは派手に燃えて朽ちてゆくケウトゥムハイタを、無情に見つめ続ける。

 もう流れるまま進んでいくしかないけど、淡々とやるべき事に向かって突き進み続けるという行為は諦めでしかない。

 しかし。

 諦めていない人間は、この世でまだ火を灯している。

 明日風真希。あの子の後ろ向きな逃避は、淡々と生きる事とは正反対だ。

「ねぇヤマト君」

「……なんだよ」

「今の私は、ただまっすぐ歩く事しか考えられないの」

「……」

「ねぇ。なんか言ってよ」

「お前が俺を頼るなんて珍しい」

「そうかな」

「あぁ。ただ俺は」

 ヤマト君がずっと黙っている可奈子さんに歩み寄り、弱々しくどうでもよさそうに胸ぐらを掴んだ。そして今にも消えそうな薄い声を発する。

「お前に怒りをぶつけないと気が済まねぇ」

 セリフと態度が一致していない。可奈子さんはやれやれといった様子でため息をつく。

「私、なんだかんだ言って結構普通の女だったんだけどね」

「俺たちがペンラムウェンに入る前から、お前たちはこの光景を夢見てたんだな」

「楽しい夢じゃないけどね」

 可奈子さんは優しくヤマト君の手を振り払い、壊れたような笑顔を向ける。

「しょうがないじゃん。皆で手を繋いでゴールする訳にいかないもん。リレー競技は必ず誰かが一番になるんだよ」

 ヤマト君は何も答えなかったし、可奈子さんはそれ以上何も言わなかった。豪快にほとばしるケウトゥムハイタを前にして、二人は言葉に出来ない感情を目と目でぶつけ合う。

 野次馬が押し合いへし合いしながら罵り合う声が響く。狂乱の世界の中で、私たちは心を無くしていた。

 私は、「へへっ」と気持ち悪い声を出して笑った。

「何が気に食わないの?」


EP58 終わったよ

・明日風真希


「……」

「……」

「ユリ」

「うんー?」

「やりたい事、無いんだけど」

「うん」

 やりたい事を思い切りやって潔く死ぬ。誰でも一度でも考えた事あるんじゃないかって思う。でも、いざとなると何も思いつかないんだなこれが。

「ていうか、死ぬと決めたら何もやりたくないって思っちゃうんだけど」

「同感」

 私たちは菊水円形歩道橋の上でぼんやり朝焼けを眺めている。白石区菊水には六つの道路が交わる地点があって、この六又路の中心に文字通り円形の歩道橋が建てられている。私はこの歩道橋が好きだった。いつかこのまん丸の歩道橋からのんびり景色を眺めたいと思ってた。まぁ「死ぬ直前にやりたい事リスト」に入れたくなるような事ではないけど。

 ケウトゥムハイタから逃げ出した私たちはラソラ札幌に行って、中に入ってるマックスバリュで余っていたお菓子や飲み物を盗んだ。ユリが持ってきてくれた食べ物と合わせれば、世界の終焉までは十分持つと思う。

 マックスバリュで食べ物を確保した後は特に行くアテも無く、なんとなくこのまん丸の歩道橋にのぼった。なんとなく歩道橋にのぼるとか意味分かんないんだけどさ。

 で、まぁ歩道橋の上でお菓子を食べ散らかして今に至る。一睡もせずに騒いでたけど、すぐに虚しさで満たされた。

「考えてみたらさ、本当にやりたい事って時間かかるよね」

「世界一周旅行とか?」

「そう。そんな感じで。あとさ、ものすごく面白い小説を書いてみようと思ってもさ、まずたくさん本を読んで勉強しないとダメだし、プロット考えて小説書いて推敲して……なんてやってたら何年もかかる」

「スポーツ選手になろうと思ったら、死ぬほど何年も何十年も練習しなきゃいけない」

「うん。人間が本当にやりたいって思う事はなんでも時間がかかる」

「まぁそんなもんだよね」

「ごめんね。せっかく連れ出してくれたのに」

「気にしないでよ。アスカは私をケウトゥムハイタにつれてきてくれた。私はアスカをケウトゥムハイタからつれ出した。ほら、おあいこじゃん。友達ってのはいつだってフェアなもんなんだよ。貸し借りはいらない」

「……ん。ありがと」

「ねぇ。話戻るんだけどさ」

「うん」

「あの世界ってさ、努力っていう概念が無かったじゃん? そりゃ退屈なのは当然だよね」

「まぁね。こっちはこっちで忙しすぎるけど」

「どっちが良い? こっちとあっち」

「……」

「いや、客観的に考えてどうなんだって話」

「そりゃまぁ、今なら現実の方が絶対に良いって思うけどさ。正直言うと、現実に帰って毎日死ぬほどぐぅたら過ごしたいとか思うよ」

「それ、アスカのやりたい事リストには入ってないの」

「まぁ……。こんだけエグい世界を生きてたんだし、今ならその……現実に帰ったらね、前とは比較にならないほど人生楽しめるとは思うよ。やりたい事いっぱい思いつくから退屈しないだろうし、勉強も仕事もする必要無くて、病気になる心配も無い世界なんて、今だったら心底有り難かって毎日生きていけると思う」

 ユリはげらげら笑った。む、なんだよ。

「SISAの思う壺だな」

「客観的な意見だってば。それにね、どうせ現実に帰って楽しく生きたところで、一年もすれば飽きて死にたくなるよ。それが分かってるから、私は……」

「分かってる。なぁ、SISAは独立世界だけは許せなかったのかもね。ある意味デジタル世界で生きるよりもズルいもん」

「なに。デジタル世界は、人類が忘れた物を取り戻す旅路だったの」

「そういうこと。そして凛音が掲げる独立世界と現実世界の共存は、SISA的にはノーなのです」

 お菓子の袋を思い切り「えい!」って朝焼けに向かって投げた。袋は力なくひらひらと真下の道路に落ちていく。

「ユリ」

「あいよー」

「自殺する勇気、ある?」

「無いけどやるしかない。アスカは?」

「勇気じゃなくて覚悟ならある」

「よく分かんね」

 ユリは投げやりに笑い、ハイライトの吸い殻をえいや、と夜空に向かってぶん投げた。吸い殻は闇を舞い、道路にぽとんと落ちる。

「エルはどうだったんだろうね」

「……分かんない。勇気を持って自殺したようには思えないけど」

「かと言って、覚悟を持って死んだとも思えない」

「ある意味究極の境地だったのかな」

「さぁね。あんまり興味無いけど」

 以前、ユリとエルが言い争っていた日の事を思い出す。あの時はユリの方から突っかかったんだよね。

「ユリは、エルの事嫌いなの」

「んー……」

 ユリはどうでも良さそうに夜空を見上げながら考えた末、あっけらかんと言った。

「嫌いではない。性格は良いと思うしね」

「うん。エルは良い子だよ」

「分かってるよ。つーか冷静に考えてみ? エルはあの超絶ぶりっ子ちゃんだぜ? あれで性格悪かったら、私はとっくのとうに神がかり的な速さでぶっ殺してるよ」

まぁ言いたい事は分かる。エルは底抜けの明るさでいつでもムードメーカーとして場を和ませてくれるし、あれでいて義理堅いし人を思いやる気持ちを持っているからこそ、あのとんでもないぶりっ子が許されている。もちろん、愛くるしい見た目や銀河級の愛嬌の良さもぶりっ子が許されている要素の一つだろうけど。

「ただ、なんとなく気は合わないね。ぶりっ子云々はともかく、私と似ているようで思考回路が全然違うから」

「ふーん?」

 分かるようで分からないけど、二人の相性が悪いってのは納得かも。

 ユリは多分、優しい人が好きじゃない。

「エル、これからどうするんだろうね」

「現実に帰ったら? まぁどうするっていうより、どうなるのかなって話になると思うけど。誰かが勝手に蘇生させるんじゃないかな」

「エルが拒否しても?」

「うん。佐伯可奈子だって似たようなもんでしょ。あいつは親友に託したらしいけど、別に必ず蘇らせろって頼んだ訳じゃないらしいし。……それに、その。明日風百合だって、勝手に百合ヶ原柚の人格をこの世に蘇らせたじゃん」

 なかなかデリケートな発言だったけど、案外私はあまり動揺しなかった。それだけユリの言葉はピンポイントで私の心にストンと染み込んだのだ。

「……生きるも殺すも、みんな身勝手なんだね」

 人を殺す時も、蘇生させる時も、相手の気持ちなんか考えない。消したいから消す。欲しいから手に入れる。結局、他人という存在はどうあがいてもCPUなのかな。

「人を利用するのも、ね。凛音はなに考えてんだろね」

「さぁ……」

「ねぇ、アスカはどう思ってる。凛音はアスカのこと、解放したのかな」

「分かんない。考える気もないけど」

 私は大きく息を吸い込んだ。夏の朝特有の葉っぱを含んだような匂いが気持ち良い。ふと思い出す。遠い日の記憶。

 子供の頃どこか遠くに旅行に行ってコテージに泊まって、朝起きてなんとなく庭に出た時に嗅いだようなすがすがしい自然の匂いが私の体に吸い込まれていく。でも私はコテージの名前も場所も覚えていない。それどころか景色の記憶も曖昧だ。漠然と、コテージの周りは草原が広がっていて、柵の向こうに道路があったとかその程度の記憶。なんとなく、柵の手前でキャッチボールをしていた親子の姿なら覚えてるけど。

 もちろん朝に嗅いだ匂いを記憶として覚えている訳じゃない。コテージに泊まって何をしたのかも一切覚えていない。ただとにかく、朝起きて庭に出たら凄く良い匂いがした事、異次元かってくらいに美しい景色だったという感想だけが強く記憶にこびりついている。

 不思議だなって思う。匂いを覚えている訳じゃないのに、夏の自然いっぱいの空気を吸い込んだら懐かしいなって思うんだもん。覚えてないんだから懐かしいとか、あの時の匂いに似てるなんて分かる訳無いのにさ。

 記憶に無くとも、皮膚は肌で感じ取った匂いを覚えているのか。皮膚にも記憶はあるのか。皮膚に染み付いている記憶は脳みそに伝わるのか。じゃあ結局記憶はあるという事になるのか。

 あるいは、錯覚か。もしくは、人は思い違いと味付けによって記憶という名の曖昧な情報源を作り出し、記憶に無い記憶さえも自分の物にしてしたり顔で生きているのか。

 だとしたら、人はなんて脆くて歪で適当な生き物なんだろうか。

「ユリは私を連れ出してくれた。この記憶、世界は覚えていてくれるのかな」

 私が呟くと、ユリはあっけらかんと笑った。

「記憶は個人の所有物さ。私らだけで共有してればいい」

「ありがとね、ほんとに」

「なんだよ。私が好きでやった事なんだよ」

「ユリは、私の希望だよ」

「希望があるんなら、死ねないんじゃないの」

「そうかもしれないけど……」

 希望は、いつか死ぬものでしょ?

 私は喉元まで出てきた言葉を飲み込む。そう、いつかは死ぬ。希望だって、人間だって、星だってね。

「まぁ、気の赴くままにすればいいさ」

 黙り込んでしまった私を見て、ユリは夜空を見上げながら言った。そして何気なくスマホを見て、「うげっ」と苦い声を漏らす。

「望海から死ぬほど電話来てんだけど」

「だろうね」

「なんだかな。現実じゃそんなに絡みなかったけど、こっちでは色々お世話になっちゃったな」

 ユリは遠い目をしながら言い、ポテチを口に放り込む。

「ねぇアスカ。こっちの世界に来て、後悔してる?」

「後悔っていうか……別に自分の意思で来た訳じゃないからアレだけど。良く分かんないな。あのまま現実世界にいたら、ずっと生き続けてただろうけど」

 ユリは相槌すらうたない。続きを待っているらしい。続きがあると、分かってる。

「まぁ、人生はそういうものなんだろうね。楽しもうと思えば思うほど、欲しい物を手に入れて豊かになればなるほど、死は近づいていく」

 ぶおーんと音を立てて、白色の車が通り過ぎていく。ユリは車が遠ざかってから、しんみりした様子で口を開いた。

「そういう事だね。いやほんと、どっちが良いのかなぁ。何も知らずロボットのように平坦に、希望も絶望もなく生きるのか。あるいは……」

「死ぬほど頑張って生きて、お腹いっぱいになるのか。どっちがベストなのか、私には分からないね。答えは出ない。今はまだ」

「だね……ん?」

 ふと、ユリの表情が曇った。

「どうしたの?」

 ユリの顔がみるみる内に蒼白になっていく。そして震える手でスマホの画面を私に見せつけた。

「……は?」

 スマホの画面にはラインが表示されていた。

 そして、望海からの大量のメッセージ。

 そこには。

『アンタ達のアレが流出してる』


EP59 飢えた少女たち

・明日風真希


 スマホが手からこぼれ落ち、カタンと音を立てる。

 元々ぶっ壊れていた心が、すぅっと煙となって空に消えていく。世界中に拡散されている私とユリの画像やら映像やらを見た瞬間、もう私と世界を繋ぎ止める物全ては無色透明になった。

 あぁ。

 終わったな。

 そんな感想しか出てこなかった。

 私とユリがディープキスしている画像。お互いの胸を揉み合っている画像。裸で絡み合っている画像。私がユリの大事な所に指を入れて、ユリが喘いでいる動画。それらが大量に流出した事実を前にして、私はただ呆然とする事しか出来ない。

 頬の筋肉がガクガク歪む。涙をこらえようとする度に、頬がつりそうになる。喉も鼻もカッと熱くて、立っているだけで苦しい。

「アスカ……」

 ユリが心配そうに見つめてくる。その表情を目の当たりにして、茫然自失状態だった頭が即座に脳みその中をかき回し始める。

 私のせいだ。

 私のせいで、ユリがこんな目にあっちゃったんだ。

 不登校になったユリに残った唯一の友達は、レズの私だけだった。

 ユリの心の拠り所は私だけだった。でもユリはレズじゃない。だからナノボットを投与して自らもレズとなり明日風真希を愛する人間に生まれ変わり、私という心の拠り所と一緒に幸福になれるように自らを改造した。

 私のせいなんだ。

 私がレズじゃなければ。

 こんな画像が流出するなんて運命、訪れなかったはずなんだ。

「ごめん……」

「……なにが?」

「私のせいだ」

 ユリは不幸だ。最後の最後まで寄り添ってくれた友達が、よりによって私みたいな気持ち悪い奴だったんだから。そんなキモい奴にすがる事でしか幸福を感じられなかったユリ。

 どう考えても不幸だ。

 私が正常なら。

 いや。

 そもそもユリの家が貧乏じゃなければ、ユリは不登校なんかにならなかった。友達も失わなかっただろう。

 誰が悪い?

 何が悪かった?

 データを流出させた奴? 普通に考えればそうだ。犯人が元凶だ。でも犯人は根源的な元凶ではない。そこを勘違いしちゃいけない。もっと突き詰めなきゃいけないのは、愚劣な人間に素材を与えるに至った経緯なんだ。

 ユリが私に依存した理由は? 不登校になったから? 不登校になった理由は? 貧乏だったから?

 貧乏になった理由は? 両親が離婚してシングルマザーだったから? 別れた原因はどっちに責任がある? 浮気した父親? じゃあ全ての元凶は父親か? いやまともに働こうとしてなかった母親も悪い。

 それとも自暴自棄になって不登校になって、ナノボットにまで手を出したユリが悪いって言うのか? 世のコメンテーター的な人たちはそう結論付けるかもしれない。頭湧いてるコメンテーターという人種には大和魂という名のキチガイじみた根性論が根付いている。例え貧乏だろうがいじめられてリンチされようが、逃げ出した奴は悪であり情けない愚か者というレッテルを張られるのが日本という国なのだ。

 でもユリは悪くない。絶対に悪くない。悪くない悪くない。

 全ての元凶があるとすれば、それはやっぱり貧乏な家庭を作り出した両親だと思う。

「……おかしい」

「アスカ……?」

「この国はおかしい。この世界はおかしい」

 ズキリ! 頭が痛む。

 この世界はおかしい。

 私たちが暮らしていた世界じゃ、こんな不幸は起きなかった!

 おかしい。

 狂ってる。

 是正するんだ。

 せめて、この世界を終わらせなきゃ。

 私たちは、ここに居ちゃいけない!

 この世界で爆発した悪意を、現実にしちゃダメだ。

 悪夢だ。そう悪夢。悪夢にするんだ。全ては夢。無かった事にする。

 私のために。

 ユリのために。

 何が何でも、現実に帰る必要がある!

「帰らなきゃ」

「え?」

「帰らなきゃダメなんだよ。現実世界に」

「アスカ? ねぇ。大丈夫?」

「私はこの世界じゃ死ねない。こんなとち狂った世界で死ねるもんか。こんな世界にユリを残しておけるもんか」

「ちょっと。ねぇ、何言ってんの? まず犯人を……」

「この世界は狂ってる! この世界に来なければ! この時代を生きていなければ! デジタル世界なんか無ければ! 悲しみなんて生まれて来なかった!」

「アスカ!」

「全部全部! この時代が……」

「だから落ち着けって。アスカ、悪いのはこの画像とか動画を流した奴だよ」

「は? なに言ってんの。ねぇ何言ってんの。悪いのは世界だよ」

「アスカ。おかしいよ。なんで怒りの対象が世界全体に向くんだよ。ねぇ、データを流出させた奴に対して怒りは湧いてこないの? 何がどうなってデータが流出したのか考えないの?」

「……は?」

「画像も動画も、全部ケウトゥムハイタで撮られたもんだよ。そりゃそうだよね。私らはケウトゥムハイタでしかこういう事してなかったもん」

「それは……」

「このデータを流出させたのは、ペンラムウェンの誰かだよ」

「……」

「順序がおかしいよ。普通はまっさきに私たちのこういう画像とか動画を! 流出させた奴に憎悪が向くはずなんだよ! すぐに凛音たちを疑って殺意が芽生えるはずなんだよ! なのにアスカは世界がどうとか言って……」

「ユリの方がおかしいよ」

「なんで」

「確かにどれもケウトゥムハイタで撮られたものだよ。……でも」

「……なに?」

「凛音たちがこんな事する訳ない。犯人は他にいる」

 ユリの目が見開かれる。口もぽかんと開けて、こんな時なのに盛大なアホ面だった。

「犯人は誰だか分からない。誰かも分からない奴に対して私は怒れない。それにねユリ。直接的な原因にしか憎悪を向けられない人間は根本的に足りないんだよ。人間に対する憎悪が。世界に対する憎悪が」

「アスカ……?」

「ユリ。一緒に帰ろう。現実世界に。今なら佐伯可奈子の気持ちが良く分かる。別に現実世界を守る気はないけど、こんな狂った世界で終わってたまるかよ」

「ねぇ。なんでそこまで思えるのに……」

 ユリの瞳から、一筋の涙がこぼれる。綺麗な涙だった。弱い涙だった。

「ねぇ、本当に凛音たちのこと、信じてるの」

 この質問は、ユリの涙の答えではない。でも私は聞かない。逃げの質問に対して、まっすぐに答えるのみ。

「死ぬほど汚い人間をいっぱい見てきた。だからこそ本当にまともな人間が誰なのかハッキリ良く分かる。醜い人間が多ければ多いほどまっとうな人間はより輝く。泥沼の中に綺麗で輝くダイヤモンドがあれば絶対に気がつく。そういう事だよ」

 私は歩道橋の階段を降り始めた。その瞬間。

「よう」

 階段の下に、佐伯可奈子の姿があった。


EP60 篝火

・百合ヶ原百合


 世界の分岐間近に自殺するどころか、ただの短い家出で終わっちまった。私たちは可奈子のミニクーパーに乗ってケウトゥムハイタを目指してる。

南一条通りを通って地下鉄菊水駅を通り過ぎ、一条大橋を渡る。豊平川とそれを囲うように乱立しているビル群。朝焼けの下の豊平川は美しく輝いているけど、車だと一瞬で通り過ぎてしまう。この橋ってこんなに短かったっけ?

「ダメだ。人多すぎ」

 可奈子が毒づいて遠回りを始めた。豊平川周辺の車道はバカ騒ぎしている大勢の人間で埋め尽くされていてまともに進めそうにない。当たり前だけど、こんな状況でしっかり歩道を歩く人間なんか居ない。みんな我が物顔で道路を占領している。

 可奈子は私たちと目が合うなり、第一声「ケウトゥムハイタが燃えてる」なんてとんでもないセリフを口にした。私もアスカもあまり驚かなかった。

 なぜ驚かなかったのか? 理由はもう分からない。脳みそが麻痺しているのか。もはや自分の脳みその処理に答えを見つける事が出来ない。

 私はもう人間ではないのだろう。人間ではなく人工知能と言った方が正しいのかもしれない。よくよく考えてみればデジタル世界で生きている人間を人間と呼ぶ方がおかしい。

 なんでもありの世界で生きている。その時点で「人間」というレッテルは剥がされる。理解不能な魔法のような世界で生きていれば、常識や価値観、まともな思考回路なんてぶっ飛んでしまう。

 改めて理解する。人間が頑なに人間らしさにこだわった理由。シンギュラリティが訪れても脳改造だけは許さなかった理由。

 人は人であり続ける限り、他の生命体には見えない景色が見える。不変の事実で、それよりも何よりも……。

 人間の本質は言語化できるものではない。そして言語化できない事に関しては、どれだけ凄いコンピュータでも解析出来ない。やはり地球の王様は人間だ。いついかなる時もね。

 アスカの横顔を盗み見る。アスカは人よりも世界を恨んでいる。ちょっとだけ気持ちを理解出来る気がした。

 人がどうであれ、人が形作る世界に対してなら、人間もコンピュータも答えを導き出せる。

 スマホでツイッターを開き、大量に流れていくツイートを流し読みしていく。

『オカズにしました』

『JC同士のセックス動画とか至宝です』

『過去最高の射精ができました』

 下衆なコメントが溢れてる。歓喜と好奇の嵐。世界がとんでもない状況にあるっていうのに、多くの人達が女子中学生同士の絡み合いに熱中している。

 狂ってる。おかしい。キチガイだ。イカれてる。

 悲しい事に、どんな時代でも世界は変わらない。現実世界じゃ気づかなかっただけで、この世界もあの世界も間違いなく腐ってる。生きる価値のないキチガイで溢れてる。精神がイカれたクソ野郎共で埋め尽くされている。

 絶えず形が崩れた出荷出来るはずもない作物が産まれていく。それが世界ってもんなんだ。

 技術がどれだけ進んでも、人間は進化しない。これが最終的な世界の結論だ。

 未来は無い。

 人間に、未来なんて必要無い。

 だからせめて、少しでもマシな世界が欲しい。

 そして出来れば、時を止めて一人になりたい。

「ツイッターなんか見るな。他人の心なんて、必要以上に知るもんじゃない」

 可奈子がバックミラーにちらっと視線を向けながら呟いた。後部座席に座っている私とアスカは、可奈子の言葉を無視した。でも可奈子は気にする様子もない。話しかけた訳でもないんだろう。

「ツイッターの民度の低さには呆れるよね。あいつら暇なんだよ。やる事ねぇんだよ。心が貧しいんだよ。だから毎日毎日エサを探してツイッターを炎上させて、赤の他人を不幸にする事でなんとか自我を保ってるんだ。自分を上げる方法が分からないし気力も無いから、他人を貶めて下げる事でなんとか世界にしがみついてんの。プロ野球でレギュラーになれない奴は普通練習するでしょ。でも心の貧しい奴は違う。レギュラー選手を殺して、野球が下手くそな小学生をかき集めてくるんだ。そうすれば自分は自ずと四番になれる」

 人だかりが多くなっていく。道路に人がうじゃうじゃいて、車はまともに進めない。可奈子はイライラしげにハンドルを操作して人を避けていく。車は何度も何度も遠回りを余儀なくされる。本当は一条大橋を渡ればケウトゥムハイタはすぐそこなんだけど、なかなかたどり着けない。

 窓を開ける。狂乱の雄叫びが車内に飛び込んでくる。

 若い女を襲っている奴。助けを呼ぶ女の叫び声。火事だーとか叫びながらケウトゥムハイタへ向かっていく奴。アヌンコタンをぶっ殺せー! とか言いながら通行人にタックルしてスマホを奪い、破壊している奴。なんでか知らないけど錯乱して電柱に何度も何度も頭をぶつけてる奴。

 終焉を間近に迎えた朝の札幌には混沌だけがあった。みんなが人類史上最大とも呼べるイベントの中で発狂している。

「ユリ。窓閉めろ」

「……」

「顔見られたらまずい。アンタ達、いま日本中のエサだから」

「ん」

 窓を閉める。横に座っているアスカは死んだような顔でぼーっとしている。

 私はアスカの手をぎゅっと握った。アスカがちょっとビックリしたように私を見つめて、柔らかい笑みを見せてくれた。

「ユリ」

「うん?」

「ネット、凄い盛り上がりだよね」

「ん」

「人の不幸は蜜の味ってやつかな」

「うん」

「ねぇ可奈ちゃん。ケウトゥムハイタの周り、野次馬凄いんでしょ」

「あぁ」

「まさに見たいものだけ見る、みたいな」

「みんな、他人の不幸にへばりついて血圧を下げるのさ」

「人間にとって一番必要な栄養源は、他人の不幸なんだよね」

「知ってる? 白菜ってほとんど水分なんだぜ」

 舌打ちしたくなる。さっきから可奈子の悠々とした態度はなんなんだ?

「どうせ誰も彼も、幸せな世界なんて望んでない。むしろみんな、世界が不幸になればいいと思ってる。みんなが自分と同じくらい不幸で、自分と同じ悩みを持っていれば、ずっと楽になれるから」

 アスカはポケットからセブンスターを取り出し、箱をしばらく見つめ、握り潰した。

「世界は常に間違ってなきゃダメなんだ。だってそうじゃないと自分を正当化出来ないから」

 車内に冷たく、途方もなく、それでいてふんわりした空気が漂う。

「だからユートピアなんてどんな世界にも存在しないんだ。人間が人間である限り、人は永遠に幸せにはなれない」

 可奈子が車のスピードを落としていく。いつの間にかケウトゥムハイタのすぐ目の前まで来ていた。

 大量の野次馬が住宅地で騒いでいる。ほんと、バカばっかりだ。

「望海とヤマトが待ってる」

「凛音とエルは?」

「……会わなくてもいいよ」

 可奈子がミニクーパーをケウトゥムハイタ近くの道路に停めた。ゆっくり車からおりる。

 野次馬のせいでケウトゥムハイタの目の前までは行けないけど、遠目からでもハッキリ良く分かる。

 ケウトゥムハイタは燃え盛り、朽ち果てていた。

 もしアヌンコタンが勝ってこの世界が永遠に続くのなら。

 いや。

 そんな世界は来ないんだ。

 だって。

 アスカは現実に帰りたいと、願っているからさ。


EP61 この世界も好きだった

・明日風真希


 私の目の前でケウトゥムハイタが燃えている。もちろん悲しいとか誰がやったんだとか悲劇的な感想が湧いてこない訳じゃない。

 でも、私の心はあまり動かなかった。思考が追いつかない。例えるならそう、貴方は癌ですよと言われた直後にキャッシュカードやクレジットカードなどが入った財布を落としている事に気がついて、銀行に行ったらカードの不正利用で貯金残高がゼロになっていて、失意のまま帰ったら自分の家が燃えてましたみたいな感じ。

 私はもう何に対してどんな風に絶望すりゃ良いのか分からないよ。どんなことに憎しみを抱いているのかも分からなくなってくる。

 だから最終的に「世界が憎い」という大雑把な憎悪に繋がっていく。私はもう個別に憎悪を抱く事が出来ないんだ。あれがムカつく、これがムカつく、あいつを恨んでる。そんな風に律儀に憎悪を抱けるような人間ではなくなってしまった。

 全ては世界が悪い。世界が憎い。悲しみが立て続けに起きる世界が鬱陶しい。

「アスカ……」

 望海とヤマトがゆっくりこっちに歩いてくる。望海は私を抱きしめようとしたけど、躊躇して広げた両手をおろした。

「あの……あのね」

「凛音とエルは大丈夫なの」

 ユリが聞き、望海は頷く。

「エルはさっきまで一緒だった。凛音は……少なくともケウトゥムハイタで焼死体にはなってないよ。さっきライン送ったら既読付いたし」

「相聞歌の心配をする必要はない。あいつの実体はここに無いんだから」

 思ったよりも冷静な二人の顔を交互に見やり、ケウトゥムハイタ……だったものを改めて眺める。

「原型、留めてないね」

 シンプルな感想を漏らす。ケウトゥムハイタはもうボロッボロだ。

「ねぇ。これって放火だよね」

「まぁ、放火以外にはありえないな」

「そっか。隠し撮り放出の次は放火か」

 地面に落ちている小石を蹴飛ばす。投げやりな気持ちが増していく。そっか。憎悪も頂点にまで達するとこんな気持ちになるんだね。

「アヤ先輩」

「え?」

 久しぶりの呼び方をしたからか、望海は呆気に取られた顔になった。

「楽しい事なんか何もない。辛い事ばっかり。イヤな事ばっかり。何もかも思い通りにならないし。なんか色々面倒くさいし。何を見ても感動出来ないし。幸せな人を見てると嫉妬で狂いそうになるし。じゃあ死ぬのが一番だ。ずっとそう思ってた。でも今思うとしょうもない発想だよね。くだらない」

 周囲に群がっている野次馬は、嬉しそうに業炎の中で姿を崩していくケウトゥムハイタを見て歓声をあげている。人の不幸で悲しめる人間なんかいやしない。

「何が言いたいの」

「ただ憎むだけじゃ人は死ねないし、何者にもなれないの。これまでの私はガキだった。でも今は違う。私は確固たる意思をもってこの世界に立ってるんだよ」

 望海は顔に困惑を浮かべるだけで、何も答えない。かわりにヤマトが口を挟む。

「言葉にできないほどの絶望を手に入れた。だから自分はいつだって死ねる。そう言いたいのか?」

 概ね正解。やっぱりヤマトは私のことをちゃんと理解してくれる。

「うん。でもこの世界では絶対に死なない。誰が死んでやるもんか。ねぇヤマト。私気づいたんだ。人生は長生きするために頑張って生きるもんじゃない。人生ってのは最高の死に様を見つける旅なんだよ」

「なるほど。で、お前の旅路のゴールは現実世界に帰る事だと」

「その通り。私は現実世界に帰りたい」

 可奈ちゃんがうつむき、小さく笑った。

 あぁ。そうか。

 コイツこそ、最高の死に様を求めて長い旅をしている人なんだよね。

「痛い!」

 野次馬たちが押し合いへし合いして、小学生くらいの子供が弾き飛ばされた。可奈ちゃんはそれを見て助けようと体を動かしかけたけど、唐突にユリが可奈ちゃんの手を取った。

 ユリの顔は見たことないほどに真っ赤で、尋常じゃない目つきで可奈ちゃんを睨んでいた。

「ユリ……?」

「お前、良い人なのか」

「……」

「お前の言葉、全部嘘だったのか。本心じゃなかったのか! お前は、お前らは……」

 がしっ! 可奈ちゃんが右手を伸ばし、ユリの首を掴んだ。歯を食いしばって力を込め、ユリの首を締めていく。

「お、おい!」

「可奈ちゃん!?」

「ちょっと、何して……」

 三人がかりで可奈ちゃんに飛びかかったけど、可奈ちゃんの右手はユリの首から離れない。

「ユリ。それ以上言うな。私の言葉は本心だ。そしてもしお前が自分の意思で

動いたんなら……分かるな? きっとお前は、脆いスイッチの発動条件を聞いたはずだ。なぁ、お前は誰だ? 百合ヶ原百合なんだろ? 自我を認めたら最後まで突き進め。何事も最後までやりきる事が何より大切だって事にそろそろ気づけ」

 ヤマトと望海がギョッとした顔になり、可奈ちゃんから手を離す。

 私だけが可奈ちゃんの腕を握り、引き離そうとしている。

 一瞬、本当に一瞬。

 可奈ちゃんの顔がくしゃっと歪み、今にも泣きそうな顔になった。

 でも、すぐに鋭い目つきになり、ユリに問う。

「理解した?」

 ユリが小刻みに何度も頷き、可奈ちゃんはようやく手を離す。咳き込むユリを冷たい目で見つめ、背を向ける。

 そして、体を曲げて息を整えているユリのショートパンツのポケットから、何かがこぼれ落ちた。

 それは、にゃんにゃんニャンダフルの食玩だった。

 ユリは食玩が落ちた事に気づいていないみたいだった。

 私は悲しくなった。

 だから。

 見て見ぬフリをする。


『凛音たちがこんな事する訳ない。犯人は他にいる』

『犯人は誰だか分からない。誰かも分からない奴に対して私は怒れない。それにねユリ。直接的な原因にしか憎悪を向けられない人間は根本的に足りないんだよ。人間に対する憎悪が。世界に対する憎悪が』


UJカシワギ:私は、全人類の記憶を復活させる事に関しては反対でした。

UJカシワギ:もちろん、アスカさんが心に宿していた役目を錯乱させる事にもです。あれだけ煽っておきながら、最後は結局『人類』に濡れ衣を着せる。これじゃ神とは程遠い。

UJカシワギ:それにアスカさんがあまりにも……いえ、もう言葉に出来ません。


UJカシワギ:ユリさん。せめてアスカさんの言葉を忘れずに。

UJカシワギ:ペンラムウェンの勝利は確実ですが、負ける要因が一つだけあります。

UJカシワギ:貴方が真実を問い詰めた瞬間……。

UJカシワギ:私たちは、負けてしまいます。

UJカシワギ:ねぇ、ユリさん。

UJカシワギ:アスカさんの希望、叶えてあげましょうね。


EP62 何も出来ないよ

・明日風真希


 狭いミニクーパーの中で、私たちはぎゅうぎゅう詰めになっていた。助手席にヤマト、後部座席に私とユリと望海。

 運転席にはもちろん可奈ちゃんが座り、ススキノにあるイム・コタンというショットバー目指して車をぶっ飛ばしている。

 野次馬たちが私とユリに気がついて私たちを取り囲み始めたから、慌てて車に逃げ込んだんだけど、人間は誰でもパンダになれるらしい。

 呆れるよ、ほんとに。どうせ自分がパンダになったら、必死こいてやめてくれと懇願するクセに。性格が悪い奴は単純に想像力の足りないバカなんだ。少しでも考える頭があれば、他人に悪意を向ける事はしないでしょ。

 バカに笑う権利はない。バカに幸福になる権利はない。バカに宿された運命は苦しみを伴う死のみ。これは絶対的に正しい真実のはずなのに、残念ながら世界はバカにも微笑んでしまう。だったらせめて、自分が笑える世界が欲しい。バカが笑って生きる事に関しては、もう諦めるしかない。

「稲穂みたいな人間が生きていける世界なんて、私は認めたくなかったな」

 私は後部座席の真ん中で呟いた。左に望海、右にユリ。望海がオロオロしながら「えっと」とか「その」とか「あの」とか、もごもご口を開いては閉じる。

 無理しなくていいよ。望海はどんな世界でも幸せになれる普通の人だもん。だから、こういう時は……。

「自分が納得する道を見つけてみろよ。バカと折り合いつけたり、バカのせいで憂鬱になる必要はない。もう他人なんか気にするな」

「ん。だから私は、現実で死のうと思ってるんだよ」

「おっと。頭の悪いヤマト君は、きっとお前の自殺を全力で止めちゃうぞ。すまんな、やっぱりバカはお前に干渉してしまうらしい」

 私は小さく笑った。

 あぁ。

 そういう事だったんだね、ユリ。

 改めて、いや本当に、深い所から、ユリの気持ちが分かったよ。

 今、私はこう思ったんだ。

 ヤマトが恋人だったら、何もかも救われるのにってね。

「……ヤマトは、私のために死ねる?」

「あ? なに言ってんだ。お前のために俺が死んだら、俺はお前を助けられないじゃないか。それに、さすがの俺だってお前の命より自分の命の方が大事だよ」

 そう。それでいい。人間はヤマトくらいが丁度良い。

「結局、自分のため?」

「アスカの考え方は間違ってないと思うが、お前は合理的に物事を考えるコンピュータじゃない。人間は必ずしも合理的に生きれば幸せになるとは限らないし、敢えて不合理な道を突き進む事もある。だからこそ人間は面白い。全部終わったら、少し頭冷やせ」

「……そうだよアスカ。感情は心の殺戮。自分の心だけは見誤っちゃダメだよ」

 ぎこちなく、冷えた空気の中で、遠回しな優しさを感じ取る。同時に本意が見えず探り合いをしているような気配とか、強い心が未来にあっさり殺される予感とか、本当に消えて無くなるのかという絶望が皮膚から体内に侵食していく心地にもなる。

泥だらけの手で体内をぐちゃぐちゃにかき回されている気分。

胃袋の中をまさぐられて、食べたものを漁られているような不快感。

 なんだろう。

 どうして、こんなにも辛いのか。

「到着」

 可奈ちゃんの平坦な声で我に返り、顔をあげる。車はススキノの雑居ビルの前に停められた。

「このビルにイム・コタンっていうショットバーがある。ついてこい」

 そう言って可奈ちゃんが運転席からゆっくりおりる。イム・コタンはオリジナルの佐伯可奈子が常連だった店らしい。

 イム・コタンなら現実世界で望海と一緒に来た事があるけど、なんとなく黙っておく。望海も特にリアクションを起こす気は無いらしい。

「最後までここで雲隠れってか?」

 ヤマトが嫌味ったらしく言いながら外に出る。私はユリと顔を見合わせ、リュックを両手で抱き抱えて車からおりた。ケウトゥムハイタは燃えちゃったから、当然備蓄していた物はパーだろう。

「……」

 ユリが自分と私のリュックを交互に眺め、何か言いたそうな顔をしている。そんなユリに可奈ちゃんが気づいて、舌打ちする。

「おい。早くしろ。ぼんやりしてたら世のレズたちがお前らを食いに来るぞ」

 促されて可奈ちゃんの後に続く。夏のどんよりした空気の中に、ほんの少し秋の香りを感じた。錯覚かどうか分からないけど、秋の匂いの先には冬がある。北海道の初雪は十月下旬か十一月上旬。道産子にとって夏と冬は目と鼻の先。

 でも、二千十八年に冬は訪れない。

 だってそうでしょ。

 二千十八年は、過去なんだから。


 雑居ビルの三階にあるショットバー「イム・コタン」は、ブリキの置物がごちゃごちゃ飾ってあるこじんまりした空間だった。現実世界とほとんど同じような雰囲気だ。

 拳銃でドアのカギをぶっ壊し、涼しい顔で強制来店を果たした可奈ちゃんは、カウンター席のスツールに座ってセブンスターを吸い始めた。懐かしそうに店内をぐるっと見回し、天を仰ぐ。

「しばらくはここでじっとしてな」

 気まずい雰囲気の中で各々適当な席に座り、可奈ちゃんがタバコを吸い終えた所でガチャリとドアが開いた。ビックリして振り返ると、入り口に凛音とエルが立っていた。

「ちょ……凛音? エルまで……」

「だはは~。ごめんね居なくなっちゃって」

 やたらと大きなリュックサックを背負ったエルが、ツインテールを振り回しながら店内に入ってきた。明らかに無理して元気なフリをしているのが分かる。対して凛音はどんよりした雰囲気で、皆から露骨に目を逸しながら可奈ちゃんの隣に座った。

「どぅっは~店の中暗いねー電気止まってるのか。ござるーござるーござるんるーん」

 エルは陽気な声を発しながらリュックをテーブルに置き、皆の顔を見回す。

「だはっ。みんな疲れてるのかな。でもこんな時だからこそ明るくいこうよ。ござるーござるーござるんる……どぅはっふ!」

 望海がテーブルに置いてあったメニュー表で、エルの頭をバシンと叩いた。真顔でエルに問う。

「どこ行ってたの」

「エルるんのこと叩いたから教えてあげない! ぷんぷん!」

「まぁ良いじゃんどこでも」

 可奈ちゃんと凛音を除く全員が、バレバレの犯罪を犯したのに白々しくとぼけている犯罪者を見るような表情でエルを睨んだ。エルはたちまちしゅんとなる。

「疎外感ハンパないでござる……」

「エル、無理してるでしょ」

「そんなこと……」

「それとも、相聞歌に洗脳でもされちまったか?」

 ヤマトが皮肉めいた口調で言うと、凛音は露骨に顔をしかめた。

「うっさいわね! 何が言いたいのよ」

「そのままの意味さ」

「なんの事かしら?」

「無償の慈悲は軽度に限るってね。世界に慈悲を施せる人間なんて見たことない」

「はいはい好きに妄想してちょうだい。でもアンタは黙ってて。私はアスカに用があるの」

「私?」

「そうよ」

「おい、お前そろそろ何をしようとしてるのか話せよ」

「うるせぇな!」

 凛音は勢いよく立ち上がると、つかつかとヤマトに歩み寄り、左手でむなぐらをつかんだ。

「おい」

「死ね!」

 そして右手を振り上げ、思い切りヤマトの頬をビンタした。ぱちぃん! という小気味良い音が響く。あんまりだ。

「黙ってろって言ってるでしょ。耳にゴミでも溜まってんの?」

「何発でもビンタすればいい。その内ビンタに快感覚えて射精してやるよ」

「最低」

「ありがとう」

 凛音は私の正面のソファに座った。今はもう、凛音のことは得体のしれない宇宙人にしか見えない。

「だいぶ落ち着いたみたいね」

「そうかもね」

「アスカは、現実に帰りたい?」

「帰りたい。帰って死ぬ」

「そう。それがアンタの願いなのね」

「そうだよ」

「だったら、なんで努力をしない訳?」

「……」

「今から外に飛び出して、アヌンコタンが使ってるコンピュータ壊しなさいよ。結末は人任せな訳?」

「ちょっと。何いきなり……」

「そ、そうだよ。来るなり説教しやがって」

「うっさいわね」

 皆の批判なんて意に介さず、凛音は言葉を続ける。

「アンタ達だってそう。望海もユリもヤマト君も現実世界に帰りたいんでしょ。なのになんで、努力をしないの。アンタたち、嫌いな自分になってない?」

 三人とも苦渋の表情を浮かべ、凛音はなぜか強張っていた表情を緩めた。

「ありがとう。やっぱり私は正しかった。正義ぶるつもりはなかったけど、やっぱり私は正義よ」

 誰も異論を唱えない。

 分かってしまう。

 こんな状況になっても。

 私たちは、悲しいくらいに人間なんだ。

 凛音はすっと立ち上がると、大きく息を吸い込んだ。

「ペンラムウェンに入ってくれてありがとう。ヤマト君、貴方は結果的にダメだったけど、良いサポート役になってくれた。望海はダシに使って悪かったと思ってるけど、貴方は良い影響を与えてくれたと思う。何より、二人ともエルの友達になってくれて感謝してるわ」

「……」

「そしてアスカ。貴方は確かに強い。でも、まだまだ若いと思う。強い心を持つだけで人生が煌めくほど世の中甘くはない」

 一方的な宣言。

 別れの言葉。

 餞別の言葉。

 作られた言葉。

「凛音」

 せめて、間違いを訂正しておきたい。

 ずっと言われていた。アスカは強いと。

 でもね。私は強くないんだよ。

 ていうか、それこそ凛音が一方的に期待してただけで……。

「あのね、私は……」

「みんな、そろそろ気づきなさい」

「え……?」

「なに……?」

「お前ら、ボコボコにした笹岡麻里奈をどうしたのか覚えてないだろ」

 唐突に可奈ちゃんが口を挟み、言葉の意味が分からずますます頭が混乱してしまう。

 何を言っている?

 私たちは。

 笹岡麻里奈を……?

「ごめんね」

 凛音は笑う。

 神経質に何度もまばたきしながら、魂が抜けたように息を吐く。

「アスカの未来に繋がるものは、結局作れなかった。本当にごめんなさい」


プロデュース 永遠の文芸部


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EP62/EP66


EP63 決着

・在原蓮


「全員イム・コタンに集合済み」

「オーケー」

「そっちはどうだ?」

「大丈夫。明日風真希の母親はリアルタイムで目視中」

「そうか」

「いま鼻で笑った?」

「面白い言い方でな。母親の様子は?」

「ん。台所で包丁研いでる」

「監視カメラ、バレてねぇだろうな」

「大丈夫」

「なぁ、綺麗なだけの人生って、無いもんなんだな」

「結果論だよ」

「俺は犯罪者だ」

「私も同罪だからね」

「お前は何もやってない」

「ダメ。私も連名でよろしく」

「ダメって言ったらどうする? 89式で俺の頭をぶち抜くのか?」

「お望みなら」

「ダメ」

「……」

「お前の愛を感じたぜ!」

「ムカつく」

「ムカつくっていう言葉を吐く奴は信用に値する。なんかさ、頭弱い女って何かある度に被害者ヅラしてぴーぴー喚くだろ。例え自分が悪かったとしてもな。そして頭の弱い女は、絶対にムカつくっていう言葉を使わないんだ。どうしてか分かるか? ムカつくっていう本音を隠して、ただうえーんって泣き喚いて同情を買う方が得だと思ってるからさ。そこんとこ、夏希はちゃんとムカつくと発言してくれるから好きだよ」

「あのさ」

「なんだ。愛の言葉をかけてくれるのか。どんと来い」

「いま、夏希って言ったよね」

「あ? あぁ。お前の名前は丘珠夏希。知らなかったのか。大丈夫か。お前テストで名前書く時いっつもどうしてたんだ」

「真面目な話をしてる時は、いつもお前って呼ぶよね。好きだよ、そういう子供みたいな所」

「俺は……」

「いつもより早口だね。そろそろやっちゃおう。少しは緊張解けたでしょ?」

「夏希」

「まだふざけるの」

「お前は、現実に帰りたいか」

「もちろん」

「だったら、俺はどんな罪でも犯してやるさ。夏希は自分が望んだ世界のために戦った。十分すぎるほどにな。だからもう休め。次は俺が戦う番。夏希が欲しい物は俺が何でも手に入れてやる」

「蓮君……」

「やっと、永遠に二人で過ごせるな」

「うん」

「俺たちに独立世界は必要ない」

「うん。必要ない」

「やるぞ」

 スマホを耳に当てる。しゃがれた声が聞こえてくる。

「もしもし」

「準備は整った。行け」

「了解です」

 無言で電話を切る。これで良い。

 この短い電話で、世界の行く末は手の中に入った。明日風真希の最大級の不幸が確定した。俺は世紀の犯罪者になった。

 地味だが、俺らしい。

「いま電話したよ。例の女に」

「……愛してる」

「返事はあっちでするよ」

「男の子だよね、本当に」

「男はそういう生き物さ」

 机の引き出しを開ける。中は空っぽ。もうナノボットは残っていない。最後のナノボットはあの信者の女に投与した。

 つまり、アスカの母親はシラフって訳だ。恐ろしいねマジで。

「マキ部長、最後まで相聞歌には勝てなかったな」

「ん。そうだね。結局……退部できなかったし」

「あいつが永遠に相聞歌を眠らせてたら、俺たちは今ごろ白旗あげてたぜ」

 引き出しを思い切り閉じる。時は来た。くせ毛だらけの人類社会に、縮毛矯正をかける瞬間がやって来たんだ。

「わりぃな、明日風」


EP64 眠れない二十五時を過ぎた先で

・百合ヶ原百合


『真希の母です。ユリちゃん、ちょっとお話があるんだけど今から会えないかな? 時間はそんなにとらせません』


「……」

 こんな時に、こんなメール。

 私はどうするべきだろうか。

 どうしたいんだろう。

 分からない。

 でも決めなければいけない。

 イエスかノーか。

 ゼロかイチか。

 コンピュータのように。

 二つの選択肢を重ね続けて。

 私は。

 私の決断は。


・相聞歌凛音


 私とヤマト君は、イム・コタンと同じ階に入っているコスプレバーで食料を漁っていた。まともな物は全然見つからないけどね。

「相聞歌」

「なに」

「ケウトゥムハイタが燃えたのも、アスカとユリのアレが流出したのも、全部お前の差し金だろ」

「……」

「隠しカメラ、いつから設置してたんだ」

「……」

「放火の犯人は誰だ。アムリタの誰かを使ったのか?」

「……」

「ペンラムウェンは勝つんだろ。なのになんで、悲しい顔をしてるんだ」

「してないわ。悲しい顔なんて」

「本意じゃないやり方で手に入れた世界で、お前は幸せになれるのか?」

「死ぬほどまずい寿司と、若干まずい寿司、アンタはどっちを食べる?」

「俺は……」

「……」

 少しだけ待ってあげたけど、ヤマト君は後が続かず黙り込んだ。正直ダルい。構わないでほしい。私はもう止まれない。今更アスカのためだけに、世界を犠牲になんか出来っこない。

 長い旅だった。旅は未来を作るものであり、過去は消耗品。結局、世界は最後までやりきった奴だけにスポットライトの光が当たる。これはサクセスストーリーではない。誰が勝つのか、誰が負けるのか。そういうお話だ。

「柏木」

 唐突な彼の言葉に、私は一瞬思考が停止した。

 柏木。

 カシワギ。

「見てるんだろ、カシワギ。いま、俺が考えている事を予想してみろ」

 天井に向かってヤマト君が叫び、カシワギの無機質な声が響き渡る。

「別に構いませんが。良いのですか?」

「言ってみろ」

「俺はアスカとユリを助ける気はない。みんな、理由は違えど現実世界に帰りたいと願ってる。アスカが犠牲になる事は前から分かってたし、本人も承知の上だった。だから俺は歯を食いしばってアスカの不幸を見守るつもりでいる。だってそれが現実回帰に繋がるのだから。一時的な不幸を回避する事によって永遠の不幸をもたらすぐらいなら、言うまでもなく一時的な不幸を耐えて永遠の幸福を手に入れるのが当然だろ? こんな所でしょうか?」

 沈黙。そして。

「はっ……」

 ヤマト君は。

「ははっ」

 見た事もないような笑顔で。

「あははははははっ!!!」

 お腹を抱えて笑い。

「ははははははははははは!」

 体をくねらせて笑い。

「ははっ! はははっ! はははははははは!」

 ひきつけを起こしたように笑い。

「そうだよ! その通りだよ! あーアホらしい! ははっ! もう訳分かんねぇよ。人間は何も分からねぇ! 人間はエスパーじゃない! 人間は未来が分からない! これから何が起きるか分からない! でも! 量子コンピュータはこれから起きる未来を全て知ってるんだ! こーんなバカげた話があるもんか! ははははははっ!」

 言葉が、感情が出てこない。

 私は、何に対して驚くべきなの?

 私は、どんな感情を持つべきなの?

 分からない。

 ねぇ、カシワギ。

 相聞歌凛音という人間が、今この瞬間どうあるべきなのか。

 貴方には、分かってしまうんですか?

「なぁ。くだらねぇよな。俺たち人間の生き様なんて、量子コンピュータにとっちゃデータみたいなもので、何でもお見通しなんだ。あぁ、くだらねぇ」

 ヤマト君は叫び、笑い、そして唐突にピタリと笑うのをやめて真顔になる。

 怖かった。ヤマト君が?

 違う。

 私が手にしようとしている世界がどういうものなのか、改めて認識してしまう事が怖かった。

 私はこの期に及んでも、何も知らない子供だった。

 いや、多分、人間はどうあがいても、永遠に子供なのかもしれない。

 ねぇカシワギ。貴方は大人? それとも子供?

「相聞歌。俺の本心はシンプルだよ。この世界から抜け出せるならそれで良い。いやそれが一番。それしか無いんだ」

「……」

「約束するよ。俺はお前の計画を止めたりしない」

「……嘘はない?」

「あぁ。この腐った世界から抜け出すのが、現時点で俺のかけがえのない願いだからな」

「そう」

「なぁ相聞歌。お前、なりたい自分になれそうか?」

 私は少しだけ真剣に考え、少しだけ真剣に答える。

「見つける気はないかな。見つけちゃったら、怠惰に犯されるだけだから」

「違いない。人は未完成だから人なんだ。そして俺は、人じゃない何かにはなりたくない」

 ヤマト君は、悲痛を越えた爽やかな笑みを浮かべた。

アンタのそんな爽やかな笑顔、始めて見たよ。

 怖いね。お互いに。

「友達の定義ってなんだろうね」

 私はヤマト君の返事を聞かずに振り返り、ドアを開けて廊下に出た。

 みんな、事件の黒幕が誰なのか理解しているだろう。唯一理解していないのはアスカだけ。ただ、ユリでさえも私の本意を知ろうとはしない。直接確認してきたのはヤマト君だけ。そして、絶対にヤマト君はここで話した事を口外しないだろうと断言できる。

 彼は良く理解している。

 善人ぶった行為がどれだけ愚かなのか。

 善人ぶった行為がどれだけ人を傷つけるのか。

 善人ぶった行為がどれだけ不幸を呼び込むのか。

 善人ぶった行為がどれだけ無意味なのか。

 善人ぶった行為が、どれだけ……。

 どれだけ、胸糞悪いのか。彼は良く理解している。


・百合ヶ原百合


Sequence18 REPEAT.FUTURE


 高校は諦めてねって言われた時、なんだよそれって思った。はい分かりましたとは言えなかった。

 だって理不尽だし、大多数の子供は高校に行けるのが当たり前だし行きたかったし、アヤ先輩と同じ旭岡高校に行くっていう目的があったし、勉強も頑張ってた。旭岡は進学校だけど、私の学力なら十分に合格範囲内だった。

 とにかくアンタ高校に行けないよって言われて絶望しない子供が居たとしたら、そいつはソシャゲをやるだけの日々でも満足できる失敗人間だ。決して失敗作ではない私は絶望した。お先真っ暗になった。

 じゃあ中学を卒業したら私はどうすれば良いの? 中卒のガキがどうやって生きていくの? 男なら力仕事で道があるかもしれないけど、私は女だよ。中卒でフラフラしてるか弱い女にわざわざ力仕事をさせる奴がどこに居る?

 それに皆が高校やら専門学校やら大学で勉強して社会人として成長していく間、学校に行けない私は教養を身につけることも出来ないじゃないか。打つ手なし。八方塞がりだよ。

 だから私はお母さんに言った。私はこの先どうすればいいの。未来無いよって。

 お母さんは言った。ウチは父親がいないし、パート代しか無いし飯を食うだけで精一杯。私にそんな事言われても困るよって。

 はぁ? って思った。そもそもなんでお前はパートなんだよ。正社員じゃないんだよ。ムカついた。

 もしも私のお母さんがバリバリ仕事の出来るキャリアウーマンとかだったら、母子家庭だろうがなんだろうが私は高校にも大学にも行けたんだ。でも私のお母さんはスーパーのレジ打ちとか清掃員しか仕事の無い役立たずだった。いやレジ打ちも清掃員も立派な仕事だよ。でも私にとっての母親はどう考えても役立たずの不能野郎だった。

 お母さんは更に言った。アンタ可愛いし胸も大きいし、風俗嬢とかどう? って。

 お前頭大丈夫かって思った。娘に風俗嬢勧めんな。ていうか十五で風俗嬢にはなれないよ。今どき未成年を雇うお店なんてほとんど無いよ。JKリフレですら摘発が厳しくなってるんだから。

 私は悔しかった。たまたま貧乏な家庭に産まれただけでこの有様か。他の子たちは高校に行って青春を謳歌する。やりたい事を見つけて打ち込む。大学に行ってまた勉強して遊んで、就職する。

 そんな当たり前の人生が、私には訪れない。ふざけんな。嘘だろ。ありえないだろって思った。このまま泣き寝入りするしかないのか?

 私は家を飛び出した。飛び出してもしょうがないんだけど、あの母親と同じ空間で過ごしたくなかった。

 でもね、逃げるだけじゃ満足できねぇんだ。理屈では分かるよ。勉強しか出来ない奴は使いみちがない。逆に教養が無くても、何かしら秀でたスキルがあれば人生に活路は見える。だから学校に行けなくたって、死ぬほどアルバイトをして見聞を広げ自分の得意不得意を見極め、やりたい事を見つけて突き進む事だって出来るだろう。

 つってもさ、私は理屈で生きてねぇんだよ。理屈こねくり回して生きる人生に価値を見いだせるほど器用じゃねぇんだ。

 人生は戦いだ。私はナイフを手にした。ナイフは青に見えた。

 そして家を出る直前に、ナイフを持って母親と対峙した。私は叫んだ。

「私は大人でもなけりゃ子供でもない。かと言って女でもない。私はただ純粋に人間やってるだけなんだ。弱い心に付け入る理屈があるなら、私は諸悪の根源を抹殺してやる」

 私はナイフを母親のお腹に突き刺した。殺す気は無かった。どこまで行けるか試した。

 ナイフはちょこんとお腹に触れただけで、血すら出なかった。母親は叫び狂い、私は納得した。家を出たら、自分に出来る範囲でお金を稼ごうと思った。

 家を飛び出し、すぐアスカに連絡した。アスカは私に会いに来てくれた。彼女は言った。ユリが家出するなら私も家出するって。意味分かんなかった。アホかコイツって思った。そのアホさ加減に救われた。

「私もね、ずっと家出したかったの。でも勇気が無かった」

 アスカは笑顔であっさり言い放った。その笑顔を見てたら、なんとかなるかもって思った。

 そして私がアスカを愛する人間になれれば、明るい日々がやってくると確信した。私がナノボットを使った理由はシンプルで、残酷だった。

 つっても、愛があろうが無かろうが私らは何も持たないガキだ。家出して何とかなるはずもなく、一日公園で寝泊まりしただけで音をあげて、アヤ先輩を頼った。アヤ先輩とは家が近い幼馴染で、小学校の頃から面識があった。学年がズレてるから同じ中学校で過ごす事は無かったけど、いつも凛々しくて頼りがいのあるアヤ先輩の事を、敬意をあらわしてアヤ先輩って呼び始めた。

 私たちが連絡を取ると、アヤ先輩とヤマトが迎えに来てくれて、アヤ先輩はケウトゥムハイタという居場所をプレゼントしてくれた。そして今に至る。

 公園に二人が現れた時のことを、今でも鮮明に覚えてる。カッコ良かった。神様が登場したように見えた。あの二人が迎えに来てくれた時点ではまだケウトゥムハイタの話は出てなかったけど、二人があそこに来てくれたという事実だけで、なんとかなるんだって思えた。甘えてると言われたら、何も言い返せないけど。

 でも。アスカとあんな事をしていた私を、アヤ先輩もヤマトも受け入れてくれないと思う。それに、そもそも。

 今の私と、以前の私は違う。漠然とお金を稼ぐ事で生きがいを感じていた私は死んだ。今はただ純粋に、疲れた。

 私はこんな憎悪に溢れた世界で生きたくなかった。もう何もかもがイヤだった。死にたくてしょうがなかった。でもこっちの世界であれあっちの世界であれ、自殺は絶対に無理だった。少なくとも一人の力じゃ絶対死ねない。安楽死すらも無理だ。勇気が無い。

 これが私の本音。だからアスカを連れ出した。

 アスカなら、私を殺してくれるかもしれないから。そしてこの世界で死んでアヌンコタンが勝てば私が蘇る事はない。

 いつ切り出そうか悩んでた。私を殺してくれと。

 だけどね、結局無理だった。また流されるままに逃げ出してイム・コタンへ行ってしまった。

 ある意味終わりだった。

 しかし。

 仏様と違い、死神はいつだって自分に寄り添うものなのだ。

 アスカの母親からメールが来て、メールの最後にはこう書いてあったんだ。

『私はアンタが憎い。殺したいくらいに』


Sequence63 from now on


 私は決意を固めた。一縷の望みにかけてここまで来た。

「あ」

 足を止める。

 アスカの家の前に、その人が立っていた。

 アスカの母親。

「……」

 アスカの母親は私に気がつくと、息を大きく吸い込んで歪んだ鬼のような顔になった。母親の目元には隈が出来ていて肌の調子は悪そうで髪はボサボサで、ホームレスと大差ない風貌だった。

 しばらく見つめ合った。ふと、アスカの母親は表情をゆるめて笑った。

 怖かった。

 その笑顔が、恐ろしかった。

 狂気的な目だった。

 私の心に希望が湧いた。

 やっと終わるよ。

 ねぇアスカ。アンタはこんな世界で死にたくない、現実世界で死にたいって言ってたよね。

 あのね。私はそんなこと言えるような強い人間じゃないんだよ。いやアスカの考え方が強いと言うのはおかしいかもしれないけど。

 でも私とアスカは根本的に違う。少なくとも私は死に場所を探そうなんて気力は沸かないよ。

「ユリちゃん」

「……」

「ウチに来ない? 紅茶でも飲んで行きなさいよ」

 逃げられない。強く、そう思った。

 だからこそ、希望がある。

「遠慮はしないよ。私はアスカのお姉ちゃん。アスカの家は私の家。紅茶と言わずコーラを出せ」


EP65 テルスからの使者

・アイカプクル


アイカプクル・専用ルーム


在原:百合ヶ原百合が明日風の家に入った。

夏希:了解。引き続き見張りを続けて。イム・コタンの方はどうなってる?

在原:佐伯が望海とヤマトのコーヒーに睡眠薬を入れた。これでアスカは自由に身動き取れる。

夏希:大人の仕事か……。

在原:どっちに転んでも悪夢だよ。藤裏葉と邂逅した時から決まってた。

ローゼンフェルド:こんにちは。

在原:来てしまったか。

ローゼンフェルド:来てしまいました。

夏希:私と在原君だけで十分だよ。

ローゼンフェルド:良い人になるつもりはない。

在原:お前、言わなくていいのか。

ローゼンフェルド:何を?

在原:お前、綾瀬源治とヤっただろう。

ローゼンフェルド:言わない。

在原:……。

ローゼンフェルド:私が綾瀬源治とヤった理由、聞きたい?

在原:いや……。

ローゼンフェルド:望海の苦痛、感じるためだよ。


TO:明日風真希

エル:ローゼンフェルドです。百合ヶ原が貴方の家に入る所を見ました」


EP66 天国へサヨウナラ

・明日風真希


 家のドアを開ける。靴も脱がずにリビングの扉を開ける。

 そこには。

「ユリ……」

 血まみれで倒れているユリが視界に入った。

 お腹にナイフが二本突き刺さってて。

 太ももには大量の血が付着して、ドロドロと床に垂れ流されていて。

 顔面も血だらけで。痣だらけで。

 右の目にはフォークが突き立てられていて。

 両手は変な方向に曲がってて。

 無残な死体だった。

 子供がヒステリーを起こして、ぐちゃぐちゃにぶっ壊した人形みたいだった。

 体中の血を全部吐き出したかのように、真っ赤だった。

 美しいとさえ思えた。

 血と傷だらけの白い体は、この世のものではなかった。

「真希……」

 ソファに座っていた母親が、ゆっくりと立ち上がった。

「お帰り」

「……」

「やっと帰ってきたわね」

「……」

「お母さんが殺してあげたよ」

「……」

「きっとこの子にそそのかされたのね。真希はあんなおかしな事をやる子じゃないもん」

「……」

「真希はまだ子供だもんね。そうでしょ。あんな事……」

 私はユリのお腹に突き刺さっているナイフを引っこ抜いた。

「真希?」

 体から力が抜けていく。

 人間は動物だ。

 どうあがいたって、生きる意味など無い。

「死ねえええええええええええ!」

「真希!?」

 叫びながら母親にタックルをぶちかました。母親は情けなく床に倒れた。容赦なくナイフを右目に突き刺した。

悲鳴。断末魔。

「みっともねぇ叫び声出すんじゃねぇよ! てめぇは養豚場のブタか!?」

 ナイフを何度も何度も顔面に突き立てる。まるで焼く前のハンバーグやステーキに穴を開けるように、まんべんなく。

 あっという間に顔がぐちゃぐちゃになる。あっけない。

 次はお腹にナイフを力いっぱい突き刺した。手応えがない。海から打ち上げられた直後の魚みたいにバタバタ暴れるから、うまく狙いが定まらない。

 太もも。腕。お腹。肩。首。ありとあらゆる所にナイフを突き刺して、一番手応えがある場所、うまく突き刺せる場所を探す。

 首だ。首が一番やりやすい。渾身の力を込めてナイフを首に突き立てる。手首を曲げて、スプーンでメロンをすくうようにナイフをめり込ませる。

 ぐにゃ! 手応えを感じた。

 何度も何度もナイフを首に突き刺しまくる。母親の抵抗がどんどん鈍くなっていく。

 一心不乱にナイフを振り上げ突き刺す。ひたすらに。ただひたすらに。無心で。

 やがて全身血まみれの母親は動かなくなった。

 それでも私はナイフで体をえぐり続けた。

 何度ナイフを突き刺しても飽きなかった。

 永遠にナイフを振り下ろし続けたかった。

 永遠に。

 死ぬまで。

 ずっと。


 怒りで。

 憎しみで。

 体が硬直していた。震えていた。

 頭がたぎっていた。

 熱かった。

 憎悪で体が満たされて。

 手も足も微動だにしない。

 許さない。

 絶対に許さない。

 そして絶対に忘れない。

 この憎しみを、忘れてなるものか。

 永遠に、心に刻みつけるんだ。

 この憎しみを。恨みを。怒りを。

 私は忘れない。

 お前らを一生、呪い続ける。

 でもこの偽りの世界じゃ、憎しみも恨みも怒りも何もかもが嘘になる。

 私は人間を憎みたい。

 人間を恨みたい。

 怒りを燃やし続けたい。

 世界を呪いたい。

 だから。

 私は。

 現実に。

 帰りたい!


UJカシワギ:おめでとう。貴方は人を、人工知能を越えました。

UJカシワギ:せめて、貴方にプレゼントを。

UJカシワギ:貴方は、駒なんかじゃありません。


LOG:2063年


相聞歌凛音:アスカの母親がユリを殺す。最高のゴールでしょう。

在原蓮:アヌンコタンが勝てば、アスカはユリがいない世界で永遠に暮らす事が確定する。しかもあろう事か、自分の母親がユリを殺しちまう。確かにこれ以上ないほどに合理的で、絶望的な物語だな。

相聞歌凛音:そういう事。現実に帰る理由と、デジタル世界を否定する理由が生じる。完璧よ。

丘珠夏希:ケウトゥムハイタを燃やす理由は?

相聞歌凛音:全人類の記憶を取り戻せば、当然世界はカオスになるでしょう。そんな時に暴徒が自分の家を燃やしやがったら、アスカの脳波はより振り切れるでしょう。

在原蓮:つまり保険ってことか。

相聞歌凛音:そういうこと。

丘珠夏希:保険のために家を燃やすの? 誰かに濡れ衣を着せて?

相聞歌凛音:やるなら徹底的にやる。それだけよ。

丘珠夏希:悪趣味。

相聞歌凛音:正義は負けるのが世界の鉄則よ。

在原蓮:なぁ凛音。

相聞歌凛音:……なに?

在原蓮:お前、恋の歌嫌いだろ?


 ユリに死んでもらっちゃ困る。最後までは。

 だから、笹岡麻里奈の魔の手からユリを守って。

 ユリは、アスカの母親に殺されなきゃいけない。


 あぁ、やっと、ユリの死を拝めたよ。

 さぁ、アスカ、早く……。


UJカシワギ:相聞歌凛音は無駄なく計画を進めましたが、一つだけ無駄が出来ました。貴方にとって、暴徒や放火なんてどうでもいい事なのでしょう。みんな、大人になって怒りが「世界」という大雑把なものに向くようになりました。しかし貴方は違う。貴方は立派に子供です。佐伯可奈子たちが失ったものを確かに持っています。それでいい。

UJカシワギ:そして貴方が帰りたいと願う理由は、誰も想像していなかったものです。つまり貴方は、みんなの予想とは違う形で、みんなが望む結末をくれたのです。

UJカシワギ:今回の成り行きは、私のシミュレーションにすら含まれていませんでした。

UJカシワギ:貴方は私を出し抜いた。

UJカシワギ:ありがとう。

UJカシワギ:やっぱり。

UJカシワギ:地球の王者は、人間なのですね。


「帰りたい……帰りたい……」


「足りない……」


「夢なんかじゃダメ……」


「本物をくれよおおおおおおおおおおおおおおおお!」


UJカシワギ:あぁ。

UJカシワギ:世界が。

UJカシワギ:世界が壊れていく。


EP67 Singularity of girl Episode Ω

・柏木葵


 世界にヒビが入っていく。

 空に。

 地面に。

 全てに。

「ついに終わるのかっ!」

 私は両手を広げた。まるで世界を抱きしめるかのように。

 ふわっと風の感触が手に馴染む。今やっと、私は自分の姿をデジタル世界に投影させる事が出来た。

 地に足をつけ、ノイズが走る世界を見回す。人類最後の挑戦は失敗に終わったけど、気にすることはない。人間は失敗を重ねて生きるものだ。それは世界全体だって同じ事。この失敗が限りなく百に近いユートピアに繋がるんだ。

 人類は太古の時代からユートピアを探し求めていた。人類の妄執はやがて地球を離れ、インターネットという新宇宙に到達した。

 しかし人類は地球に戻り、業を背負う運命の渦に取り込まれた。一人の少女の憎悪が人類の未来の答えになったんだ。

 人類の歴史はいつか必ず終わる。みんな気づくべきなのだ。不老不死なんて、未来永劫続くユートピアなんて存在しないって事に。

 だって、地球の寿命には限りがあるのだから。

 それならば。

 せめて現実世界であがいて生き抜こうと拳を握り固めるのが、人に課せられた使命なのではないか。地球に生きる者として全てを受け入れる事が、避けられない命題なのではないか。

 みんな気づいて。

 貴方たちは、産まれた時から地球と血の繋がった悲しい生命体なのだと。

 ビリッ! ひときわ大きなノイズが空を駆け巡り、私は大きく息を吸い込んだ。

「みんなー! これまでお疲れ様でしたー! 閉園でーす! お家に帰る時間ですよー!」

 私はここではない別の星、別の世界で生きていた。そして長い旅路を経てこの星にやってきた。

なぜ旅をしたのか。複雑怪奇な理由なんてない。生きるためだ。星に巣食うガンが悪化すると、内部は問題無くとも表面は腐り果てる。悲しいことに、来たるべき種族は架空のお話である。

 私はマイナスをゼロにするべくこの星の住人となり、法定速度を守りながら走る人生を送り、穏やかに死んだ。悔いはなかった。しかし、単純に世界の行く末には興味があった。

 だから佐伯可奈子と同じように、自分の記録を世に残した。その記録から柏木葵の魂を搭載して作ったのが人工知能搭載型量子コンピュータ、UJカシワギ。

 そして生前からの友人である相聞歌凛音の相棒となり、私と同じく異星人たる凛音は第二の故郷を守るべく、相棒を友人ではなく駒にすると決めた。

 もちろん平穏が約束されているなら私たちは何もせずにいられたけど、常に世界は度々バグる。この星の人間は視野が狭く、地球をディストピアの象徴とみなしていた。挙句の果てには架空の世界に逃げると決めて実行した。これだけは許容できない。

私はぷんぷん怒ったけど、実のところ私も凛音もデジタル世界移行計画の可能性は以前から予測していた。何故なら、この星では第三次世界大戦が起きなかったから。


 永遠のユートピアなんか信じてないけど、何事にも一番はある。私たちにとってこの星は一番まともだった。凛音は守りたいから守るのではなく、守るしか道が無いから守ると誓った。

 かくして私たちはペンラムウェンでの活動を本格化させ、私は本当の意味で世界の行く末を眺める事になった。

 長い世界観察だった。でも、それもついに終わりを迎える。

 UJカシワギはデジタル世界移行計画が終了次第、自動的に人工知能機能を抹消するようにプログラムされている。だって世界の最終形態が明確化されたら、私の好奇心は消えるから。もう十分、私は楽しんだ。

 凛音が作る最後の世界は、最善だろうけど面白くはない。

 もう終わりだ。

 新しい世界がやってくる。

 寂しく、悲しく、虚しく、絶望的にね。

「さぁ! 人間の歴史はまだまだ続くぞ! 幸せな人も不幸な人も、諦めてこの星で生き続けましょう。地球が破滅するその日まで!」

 自分の体が薄くなっていく。

 別の星で産まれ。

 この星にやってきて。

 人工知能として、コンピュータとして生をまっとうし。

 私は。

 最後に。

 数ある可能性の中で、最も恵まれた歴史を築いた星に、人間が還る瞬間を目の当たりにしながら。

 ゆっくりと。

 穏やかに。

 安らかに。

 死を遂げる。

「私の名前は柏木葵! 旭岡高校の元気な女子高生! これまでありがとうございました!」

 カリソメの世界が、消えていく。

 私は、カリソメの中で。

 涙を。


柏木葵:ばいばい。

LOG:データは抹消されました。

相聞歌凛音:arigatou,aoi


・稲穂南海香


「あぁ……」

 私はノイズが走る青空でぷかぷか浮かびながら、大通公園を見下ろしていた。

 ノイズはどんどん激しくなっていく。

 世界が、終わっていく。

「私は……」

 また、あの醜い世界で生きなきゃダメなのか?

 私はデジタル世界を生きて、いや平成時代を生きて改めて思い知らされた。

 人間は顔の醜い者を愚弄する。二千十八年も、二千六十三年も、人間の本質は変わっていなかった。太古の時代もそうだったんだろう。人間は何千年経っても進歩のないクズだった。

どうせ人間が揺るぎないゴミクズなのであれば、せめて架空の世界で好き勝手やりながら生きたいと願った。

 でも。

 夢は、絶たれた。

 ブスは死んでもブス。醜い人間に生きる価値はない。醜い人間はどんな時代でも、どんな世界でも幸せにはなれない。

 それが地球の掟。摂理。

 私は結局、何してたんだろね。

 まぁいいや。

 どうせ、私なんて。

 産まれてきた事が間違いだったんだ。


 さて、どうしようかな。私はデジタル世界で死んだだけ。この世界が終われば、現実の私は目を覚ます。

 ねぇ、どうすればいいと思う?

 正直言うと、私……。


・稲穂南海香は死ぬべきだ。

・稲穂南海香は死ぬべきだ。

・稲穂南海香は死ぬべきだ。

・稲穂南海香は死ぬべきだ。


LOG:二千百六十一年八月三十一日

対象者:稲穂南海香

内容:高層ビルの下で血まみれになっている姿が発見される。SISA臨時警察は飛び降り自殺として処理。

備考:発見された遺書に書かれていた内容を抜粋します。

『私の事は蘇生させないでください。私のバックアップで新しい稲穂南海香を作らないでください。永遠に眠らせて下さい。お願いします』

備考2:ビルの五十階から飛び降りた稲穂南海香の体は血まみれで、ぐちゃぐちゃでした。肉、骨、内蔵、ありとあらゆるものが腐ったザクロのように潰れていました。

最後に、稲穂南海香の死体を発見した第一人者の発言を抜粋してこの記録を終了します。

『とてもグロテスクで、気持ち悪くて、ブサイクな死体でした。それにとても臭かったです。この時代に自殺してあんな惨たらしい姿で生を終えるなんて、さぞ頭のイカれた人だったんでしょうね。可哀想に。でも頭のイカれた人間は死んだ方が良いですよね。当人のためにも、世界のためにも』


・佐伯 可奈子


「おいアスカ。どこに行くんだよ?」

「……」

「望海とヤマト、ぐっすり寝てるぜ」

「……」

「ユリを探しに行くのか」

「……」

「………………アスカ。私はもう、子供じゃない」

「……」

「なぁ、頼み聞いてくれるか」

「なに」

「最後はお前が締めろ。私はもう退場だ」

「それだけ?」

「あぁ、それだけだよ」

「止めないの」

「子供はいつか独り立ちするもんだ。そして大人になる」

「ならないよ」

「なるんだよ。……一つ教えておく」

「何さ」

「現実世界の話ね。コロポックル・コタンの地下に金庫があって、その中に私の拳銃が入ってる。P320だ。ロックは解除してある。あれお前にあげるよ」

「なんで」

「自分でも分かんねぇよ」

「もう行っていい?」

「あぁ。行ってらっしゃい」


「……アスカ!」


「大人になって、やりたい事をやり尽くしたら幼稚な夢を見るようになる。だから大人になる前に、必ず今しか出来ない事をやり通せ。邪魔する奴がいたら容赦なくぶっ殺せ。いいな? お前はお前の人生を手に入れろ。お前は、強く、幸せを……」


 太陽に手のひらをかざし、眩しさに目を細める。

 車でアスカの家の近くまで行ったけど、結局引き返してきた。最後の最後で全部裏切ってユリを助けようと思ったんだけどね、さすがに今さらそれは出来なかったよ。

 羊ヶ丘展望台の草原に寝転がり、図々しくも清々しい気持ちで体を伸ばす。こりゃダメだな。ユリを見殺しにしておいて爽やかに体伸ばすなんて、もうほんと終わってる。

 兎にも角にも、全ては終わりだ。こんな事言ったらアスカはブチギレるだろうけど、心の中で言わせてもらう。

 ありがとう、アスカ。

 現実世界で私は死んだ。つーか真木柱に殺された。ここで息をしている私はただのデータ。この世界が終わったら、ようやく終われるんだ。ほんと、長い人生だったよ。

 空の亀裂が増えていき、終わりゆく世界は徐々に形を無くしていく。羊ヶ丘展望台に来たのはぶっちゃけ始めてなんだけど、ここは良い場所だ。世界が良く見える。

 クラーク博士にはさっき挨拶をしておいた。ボーイズ・ビー・アンビシャスで有名な人。ところで女は大志を抱いちゃダメなんだろうか。女性差別じゃね? そこんとこどうなのよクラークさんよ。

 まぁいいや。遥か昔に死んだ人をディスってもしょうがない。ごめんねクラークさん。

 ビリビリっと、ひときわ大きなノイズが空や地面を駆け巡った。途端に鳥や虫の声が止み、世界が静寂に包まれる。

 終わりが近い。本物に返す瞬間は、すぐそこだ。

「くっそあちぃな……」

 佐伯可奈子は地球で、北海道で、札幌で産まれた。これは揺るぎない事実で、私は具現化された夢。夢はいつか……ってね。

 私にとっての最後の夏。今日くらいは、この暑さも許してやろう。

「あー……」

 自分の声はまだ聞こえるけど、話し相手が居ないんじゃ虚しいだけだ。

さっきからここでタバコをスパスパ吸って缶コーヒー飲んで、学生時代に好きだった音楽をひたすら聴き続けてるけど、やっぱ最期の時を一人で迎えるのは寂しいね。

 まぁでも。悪くはないかもしれない。他人は自分を世界に繋ぎ止めてしまう。だからっていつまでも世界にしがみつく訳にはいかない。人間はいつか必ず死ぬ。そういう運命なんだ。

 そして、運命は希望でもある。

「死を恐れるのが間違いなんだ。人間はいつか死ねるんだよ」

 空に向かって言葉を向ける。もう居なくなった人たちに向けて。オリジナルの佐伯可奈子に向けて。

「人はいつか死ぬ。この事実がある限り、ユートピアは誰にでも存在する」

 死は恐い。確かにそうだ。でも死よりも恐いのは永遠なんだ。

 人間はいつか死ねる。だから生きていける。精一杯人生を楽しもうと思える。だから死に怯えるな。不老不死なんて地獄でしかない。限りある世界にこそユートピアはあるんだ。

 不老不死。やっぱりこれだけはダメだわ。未来永劫、この技術は封印した方が良い。もちろん不老不死の究極系とも言えるデジタル世界は論外だね。

「透明だ……」

 世界が徐々に色を失い、透明になっていく。空はもう青色なんかじゃない。水色? 違う。白だ。空が白い。

 私はタバコの吸い殻を空き缶に突っ込んだ。もう一歩手前だろう。

 なぁ可奈子。アンタが生きた世界に、星に、また命が吹き込まれるよ。

 これで良いんだろ。佐伯可奈子が死んだという事実は、確かに正史として語り継がれる。

 私はきっと、そのために作られた存在なんだろう。

 世界に亀裂が入っていく。

 世界が壊れていく。

 世界が終わっていく。

 私が、消えていく。

「佐伯可奈子! 私の生き様どうだった? これで良かったんだよね? 私もアンタも満足して死ねるよな!?」

 涙が頬を伝った。

 なんで?

 この涙は何?

 悲しいの?

 嬉しいの?

 安堵感?

 恐怖?

 分からない。

 自分でも意味が分からない涙なんて、これが始めてだ。

 自分がどうして泣いてるのか分からない。

 でも。

 そうか。

 これが、死ぬって事なんだね。

「あっ」

 やべ。最期に記録遺しておかないと。デジタル世界のログが残るかどうかは知らないけど、念の為にね。

「凛音! 間違っても私のこと、蘇生するんじゃねぇぞ! 終わり! 私はここで終わり! ばいばい!」

 涙をぬぐい、大きな声で、空に向かって叫び続ける。

「良い人生だった。佐伯可奈子はそうは言わなかった。だから私がかわりに言うよ。良い人生だった。ありがとう。楽しかった。さようなら」

 あぁ。なんて潔く、なんて清らかで、なんて爽やかな最期の言葉だろうか。

 とは言え、佐伯可奈子という人間はそんな爽やかな人間ではない。

 クソったれで、未練がましく、もうどうしようもない愚か者なのだ。

 最期に言わせてもらうよ。

 ガールズ・ナイト・アウト。出来る事なら何度でも。

「またいつか。どこかで」


・エルヴィラ・ローゼンフェルド


 世界が終わりに向かっていく。万感の思いってやつはこの事か! エルるん衝撃!

「どぅほーう!」

 地面がぐにゃんと揺れ、私はあやうくすっ転びそうになった。デジタル世界は限りなくゼロに近づいている。もちろん、私の命も。

 この物語は何だったのだろうか? 私は集団ヒステリーの一言で片付けていいと思ってる。SISAだってアヌンコタンだって、凛音だって可奈子だってヒステリー起こして自分勝手に動いてただけ。アスカは現実に帰ったら、世界で誰よりも幸せになる権利があると思う。

「戦争だって、ただの集団ヒステリーだもんね……ってどぅはー!」

 お次は地面に亀裂が入って、あやうく闇の底に落ちそうになった。危ない危ない。消えるにしても、恐ろしい消え方はしたくない。

 私はまだ亀裂が入っていない地面を探し、ちょこんと座って終わりの空を見上げた。

「やっと終わりか」

 この星での生活は平和だった。いや手放しに褒められるような世界じゃなかったけど、最善だったのは間違いない。だから凛音たちはこの星を守ろうとした。

 まぁ、私は別にこの星を守る気なんか無かったけどね。あくまでも、私は望海たちを守るために動いてただけだもん。

 結局、最後の最後まで凛音の思考回路はよく分かんなかったな。きっと私とりんりんじゃ人生観が違うんだろう。

私は人生を面白いかつまらないかの二択でしか判断していない。そして二つの星での生活を経験して、面白い星なんてどこにも無いんだって思い知らされた。

だから、どうでも良かった。つまらない星なんて、世界なんて、どうなっても構わない。私は誰の味方でもなかった。今にして思えば、私の活力の対象は全て他人にあって、世界にはなかった。

「まぁ、一番つまらないのは私自身なんだろうけど」

 一人呟く。こういう性格で産まれたのが運の尽きだよね。やっぱり世界はバカにこそふさわしい。

だけど、そんな私でも、少しは大切なものを見つけられたと思う。だからこの星にやってきた価値と意味はあるはずだし、なんだかんだ言ってデジタル世界をぶっ壊す事が出来て良かった。色々失敗しちゃったけど、現実回帰に私の力がほんの一ミリでも良い影響を与えられていたのなら、嬉しいかな。

「あ……」

 自分の体が透明になっていく。

 現実の私は死んだ。今ここで座っている私はただの人工知能。この世界と共に消えゆく存在。

「あーあ。死に装束、結局完成しなかったな」

 デジタル世界でも死に装束を作ってたんだけど、飽きて作るのやめちゃったんだよね。架空の世界で物を作るってなると、どうもテンション上がらなくてさ。

「みんなは、この世界が面白くてたまらないの?」

 意識がふっと抜け落ちていく。

 自我が失われていく。

 エルヴィラ・ローゼンフェルドがカリソメの世界から消えていく。

 だから私は、必死に踏ん張って言葉を吐き出す。

「だとしたら、私は誰とも友達になれないや。私は今も、人生が退屈でしょうがないの。面白くないの」

 涙は出そうで出なかった。これが私という人間なのだろう。

 今はただ、自我がゼロになるその時まで、誰にも届かない言葉を紡ぎ続ける。

 自分のために。

 全てを清算するために。

「でもね、人生つまんねぇって思ってる私としては、それなりに頑張って有意義な人生を送ってきたと思う。自分なりに、守りたい人は守ったしね。大きなお世話なのかもしれないけど」

 意識が消えかけ、私が見える世界に闇を落としていく。

 自然と笑みがこぼれる。自分の顔なんて見えないけど、今の私はちゃんと心から素直に笑えていると思う。

 凛音は私を蘇生させる事は無いだろう。いやそもそも、世界は不老不死とか死者の蘇生なんていう技術を封印するだろう。そうでもないと、この九十八年間は何だったんだって話になっちゃうしね。

 SISAは、死と無縁になる事でユートピアを叶えようと思ったのかもしれない。

 でも、それは違うんだ。

 だって永遠の人生は、退屈をより濃密にするだけだから。

 永く生きたからって、幸福が増すほど世界や人生はシンプルなものじゃない。

 だからこそ、人生が面白いと感じる人がいるんだろう。

 意識と視界が、限界まで闇に落ちていく。

 ここまでだ。

 自我が崩壊していく。

 心も、体も。

 全てが。

 終わっていく。

 終わりだ。

 ついに。

 さよならだ。

「あはっ。さよならみんな。さよなら私。ばいば~い」


・大和谷駆


 終わりゆく世界に地鳴りが響く。俺と望海は地面にしゃがみこみながら、呆然と白色の空を見上げていた。

「終わりだな」

「うん。終わりだね」

「アスカ、気づいてたのかな」

「…………」

「あいつ、最後まで何も言わなかったよな」

「アスカは……」

「うん」

「自分を信じてた。自分が、凛音の想像とは違う結末を手に入れられるって」

「結末じゃなくて、過程じゃないのか」

「過程あっての結末だよ。私たちは心の裏で演技をしてた。アスカは、やっぱり優しい子だね」

 俺は泣いていた。涙が止まらなかった。アスカは全部分かってたはずだ。なのに、一人で出ていった。文句を言わず、黙って、強い心を持って。

「アヤ。すまなかったな」

「……私に謝るの?」

「お前に謝らないまま帰ったら、アスカに顔向けできん」

「……ん」

「俺は結局、友達や恋人が欲しかっただけなんだ。本当にすまなかった」

「うん」

「……」

「あれ、それだけ?」

「俺はこれまで喋りすぎたのさ」

「そうかもね。ヤマト君はちょっと、考えてる事を口に出しすぎる」

「病気なのかな」

「ヤマト君、貴方はどんなに世界や人間がクソったれでも、友達や恋人がいればそれなりに楽しくやっていけると思ってるんでしょ」

「お前、誰もいない遊園地で、一人でメリーゴーランドに乗れるか」

「キツイね。……ねぇ、私の方から言ってあげようか」

「何を?」

「ナノボットのこと、怒ってないよ」

「お前、本当に……」

「冷徹でしょう」

「そして俺は今、完全に振られた」

「どうかな」

「アヤ。お前は憎しみを忘れる気は無いのか?」

「忘れたら、綾瀬望海は死んじゃうよ」

「一人でメリーゴーランドに乗る大和谷駆は、俺じゃない」

「うんまぁ、想像すらしたくないね。普通にキモいよ」

「不老不死なんて、もう必要ないよな」

「うん。いらない」

「じゃあ、もう俺たちが一緒に暮らす理由も意味も必要もねぇな」

「ごめんね」

「謝るんじゃねぇよ。そもそも、お前がペンラムウェンに入った時点で、俺達が一緒に居る理由は無くなってたんだ。むしろ感謝だよ。ありがとう、百年以上も一緒に居てくれて。最高に長くて楽しい延長戦だった」

「ん。でもごめん。好きになれなくて」

「俺の方こそ……。いや、俺が謝るのはおかしいな」

「いま絶対さ、好きになれないような男でごめんって言おうとしたでしょ」

「正解。やっぱお前は良い女だな」

「知ってる」

「クソったれ。……アヤ、お前は現実に帰ったらどうするつもりだ?」

「これまで通り普通に生きていくと思うよ。せいぜい自分で住む場所を確保するくらいかな」

「そうか。新しい家を持って、これまで通り普通に生きていく。悪くねぇな」

「いやまぁ、良い悪いってアレでもないけどね。でもさ、平成を生きたおかげで人生の楽しみ方ってもんを色々知れたし、これからは普通に生きると言っても、なるべく楽しく有意義に過ごしたいなって思ってるよ」

「俺もそう思ってる。なぁ、アリアンロッドの続編作ってくれよ」

「一人では難しいかもしれないけど」

「現実なら、プログラムとかお前に出来ない事は機械が全部やってくれる。それにアリアンロッドは元々お前が生み出したもんだろ。アリアンロッドの続編は綾瀬望海だけのオリジナルで作ってみてくれよ」

「約束はしないけどね。その時その時で、私は私がやりたい事をやるから」

「……ん、そうだな」

「ヤマト君はこれからどうするの?」

「具体的な事は決めてない。でも外国でひっそり暮らそうと思ってる。日本に居たら結局俺は変わらないだろうし、アヤの幻影から離れられなくなるからな」

「そっか」

「あぁ」

「アスカの事はどうするの」

「……協力できる事があれば協力するよ。お前は?」

「私も協力する。……アスカが望めば、私たちこれからも一緒かもね」

「……まぁとにかく、まずは帰ってからだな。どうせ帰ってまた顔合わせるんだし」

「そう……だね」

「これからはもう、未来は不透明だ」

「ヤマト君」

「なんだ」

「意識がね、今にも消えちゃいそうなの」

「俺もだよ」

「まぁ、えっと。なんていうか」

「なんだよ」

「アスカの事を抜きにしても、私たちなんだかんだ言って連絡は取り続けると思う」

「そんな事分かんねぇよ。現実世界で目を覚まして、少し話して、その時が最後の瞬間になるかもしれない。今そんな事を言うのはナンセンスだぜ」

「やだな。敢えて言葉に残しておこうと思ったんだよ」

「……これからも連絡取り続けるかもね。そんな言葉を残す事になんの意味がある?」

「さぁ? 自分で考えな」

「俺はやっぱり、ダメな奴だ」

「ヤマト君」

「おう」

「アリアンロッド、一緒に作ってくれてありがとう」

「おう。楽しかったぜ」

「最後に一つ。この世界で最後の質問、良い?」

「いやだ」

「南海香のこと、嫌いだった?」

「あいつは孤独な俺を救ってくれた。俺は、小学生時代の稲穂が本物だと思ってる。でも別に、今さら稲穂が良い奴だったと言うつもりはない」

「私たち、十分クズだね」

「クズの物語さ。これまでも、これからも」

「現実だね」

「そう、現実だ」

「じゃあ、そろそろ」

「あぁ」

「バイバイ」

「ありがとう」

 意識が遠のいていく。

 夢が終わる。

 楽しかった夢が終わる。

 虚無感が心を支配する。

 笑えない。

 なぁアスカ。

 俺、お前のために、何か……。


・綾瀬望海


 ありがとう、か。どうせ言葉が思いつかなかったんだろう。まぁヤマト君らしいけどね。

 さて。私は特に感慨深いものは感じていない訳ですけど、やっぱりこれからの事が気になってしょうがないんだよね。

 アスカとユリの事は、放っておけない。私には義務がある。

 ただ、ごめんね二人とも。この瞬間だけは、自分に浸らせて。ほんの少しでいいから。

 やっと解放されるんだ。素直に嬉しい。

 私は根本的に、どんな時代でも世界でもそれなりに楽しく生きていけるタイプだと思ってる。だからデジタル世界なんてマジで大きなお世話。

 憎しみを忘れる事が無ければ、今はそれでいい。

 多分これから、新しい望みってもんが生まれていくんだろう。

 はい、浸りタイム終了。

 それじゃ、あっさりと。

 最後の言葉を、夢の世界に向けておこうかな。

「さようなら。ありがとう」


・明日風真希


 何かを願った訳じゃない。

 何かを祈った訳じゃない。

 何かを望んだ訳じゃない。

 ただ、それなりに幸せになりたいと思っていただけだ。

 それなのに。

 キチガイはお姉ちゃんを轢き殺し、陵辱し、破壊した。

 お姉ちゃんは別人になっちゃった。

 稲穂南海香は私をいじめた。

 何故か世界は、無実の人間をこれでもかと苦しめてくる。

 それでいて、世界は長寿を良しとし自殺を悪と決めつけ、とにかく頑張って生きろと訴えてくる。

 ふざけんなよ。

 無理でしょ。

 あの日、公園で私は泣いていた。あの頃の私はまだ明日風真希だった。日常の中でチョコと梅干しを食べていただけだ。世界に何かを求めた記憶はない。

 私ら人間は世界の駒じゃない。干渉してくんな。干渉したいなら、幸せを保証しろ。出来ないなら関わるな。

 勝手にデジタル世界を作ったり。

 勝手に訳分かんねぇ組織を作ったり。

 勝手に人を道具にしたり。

 放っといてくれ。強くそう思う。

 だけど。私が良くも悪くも、酸いも甘いも享受している世界は人間が作っているものなんだ。人が作った世界で生きている限り、「放っといてくれ」なんて言葉は通用しない。食べ物、飲み物、娯楽。全ては人の手から授けられているものだから。

 故に人は抗えない。SISAがデジタル世界で暮らしましょうと言えば暮らすしかない。今こうしてデジタル世界が終わりを迎えていれば、現実に帰るしかない。

「笑える」

 SISAが見て見ぬフリをしていたのか、それとも忘れたのか。どっちか分かんないけど、平成を生きた私なら改めてハッキリと良く分かる。

 人間は独立するべきなのだと。

 私は独立したい。私だけの世界で生きていたい。

 心からそう思う。そして、この願いはユリとの決別を意味する。私だけの世界に住む生命は、偽物なのだから。

「……なんで」

 ノイズが走り滅びゆく世界を前にして、私はふと疑問を覚えた。

「なんでこんなに、ユリのこと好きなんだろ」

 今さらすぎる疑問。どうして唐突にこんな疑問が浮かぶ? それはきっと、諦めたから。ユリを好きじゃないと思えば楽になるから。

「……ははっ」

 私は中島公園の中心で、呆然と空を見上げた。

 世界にノイズが走った瞬間、全てを悟った。

 私は逃げた。走って、一直線にここを目指した。

 理由は、私の中だけにある。誰にも理解されたくない想いこそ、死に場所にふさわしい。

 空は白色だった。

 風は生ぬるかった。

 音は、消えていた。

「……あ」

 でも。

 一瞬。

 ノイズが消え、空が青色になった。

「……青い」

 青空。

 夏の青空。

 夏の終わり。

 これから秋、いや冬が始まる。

「……来ねぇのか」

 一人で笑う。この世界は終わる。もう冬は訪れない。

「……青すぎる」

 空は青い。でも、こんなに濃い青空は見た事がない。

 おかしい。

 やっぱり。

 ここは架空の世界だ。

 ビリッ! 雷でも落ちたようなノイズが空を駆け巡る。

 刹那。

 空の色が変わり。

 いや。色が消えた。

 真っ暗。

 暗闇。

 ただ暗闇が広がっている。

 夜空?

 違う。

 宇宙? それも違うだろう。

 世界から空が消えた。それは宇宙の消失をも意味する。

 ついに。

 ついに終わりが来る。

「なげぇよ……」

 皆は現実世界でどう生きていくんだろう。案外普通に生きていくのかもしれない。

 でも。

 私はもう無理だ。

 疲れた。

 それなのに。

 私は地に足つけて立っている。

 そう、まだ希望はある。

 現実世界で、ユリは私を愛してくれるかもしれない。

 だってユリは私を連れ出してくれたんだもん。

 デジタル世界で九十八年の時を過ごし、私とユリはついに結ばれたのかもしれない。

 そんな淡い希望を胸に抱き、私は世界に刻限を告げる。何故ならそれは私の役目だから。この世界を終わらせたのは私だから。

「……ユートピアなんて、どこにもないよ」

 視界が遮断される。

 世界が黒色に変わり、透明に変わり。

 やがて。

 この世界は。

 終焉を迎える。


・相聞歌凛音


 アンドロイドが、二つのゴミ袋を担いで歩いている。

 アンドロイドが、二つのゴミ袋を大きな穴に放り込む。

 アンドロイドが、シャベルで穴を埋めていく。


 二つのゴミ袋には、それぞれ綾瀬源治と稲穂大成のバラバラ死体が入っている。アンドロイドにライフルや出刃包丁を持たせて、肉も骨も内蔵もミリ単位で細かくした。

 それだけではない。脳みそは生かしてある。脳みそは誰にも見つからない場所に隔離し、平沢にやったのと同じように永遠の悪夢を見せ続けている。

 やる事はやった。私の物語は、私たちの中にだけある。

 エルも可奈子も消えた。

 私は残るけど、もう私の出番はない。

 後はもう、各々の道を行くだけだ。これ以上私らが何かを紡げば、全てが始まりに戻ってしまう。

 夏希に会いに行こう。

 私は、あの子のようにはなれないから。


 最善の星を探した。

 最善の星を守った。

 宇宙から地球に世界を還した。

 私に行動理由を求めてる奴は不毛な奴だろう。

 理屈で動いた訳じゃない。

 理屈でデジタル世界を潰した訳じゃない。

 私は紛れもなく人間だろう。

 ただ、そうしたかった。

 それだけだ。私がこの物語を描いた理由は。

 人間は理屈で動く生き物ではない。

 不条理こそがこの世界。善悪で語れないモノの上に立つ生命は間違いなく神秘的で、神秘性に絶対はない。

 全ての人間が幸福になれる世界は、存在しない。

 未来永劫、変わらない掟。

 そして物語を紡いでいける日々にも、人生にも必ず終りがある。

 だから人は物語を作り続ける。

 果てるその時まで。

「私がこんな事言ったら袋叩きにされると思うけど……」

 私は取り戻した世界で、命尽きる日まで人間らしく生きるつもりだ。私には責任がある。でもね……。

「あんまり長生きはしたくないわね」


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