少年の無意味な祈り

くもの

1

 同窓会をすると昔のことを思い出す。

 秋風が入り込んでくる。今日は十六夜の数日前、といっても月が綺麗な夜だった。

「まったく文子、たくさん飲みすぎ」

 同級生の千尋がぼやく。

「今日は、家大丈夫だから」

「今日は? じゃあ明日は私の家?」

 中学生の頃よく聞いた言い回しを千尋はお酒で赤くした顔で言う。田舎なのだから遊べる場所は限られている。私と千尋はかわりばんこで家で遊んでいた。

「女子って家でなにしてたの。家にばっか引きこもってたら暇だろ」

 四缶を飲み切った隼人はつぶやいた。彼も同じ中学の同級生だ。

「いうて自分もアホみたいに外で遊んでただろ。こんなド田舎なにもないのにさ」

 隼人の隣に座る進は一缶目をちびちび飲んでいる。彼は隼人と中学からの親友であり、私たちの数少ない同級生の一人でもある。

 私たち四人は八年ぶりの再会を果たした。八年とはいえ、卒業してから八年ではない。毎年のように集まっていた同窓会、千尋が子供ができてから途絶えてからの八年だ。みんなもう三十路である。

 久しぶりに地元の空気を吸った。よく行っていた駄菓子屋を訪れた。夏休み小さな祭りをする神社へ、鳥居の手前にあるお地蔵さんへ、神社裏手のため池へ、いつも鮮やかな花が生けられた廃れた墓場へ、巡り巡る光景は最後に実家に向かい自室を見回した。視線を上に向けると写真立てが目に入る。誰もが目を赤くしていた。私はすがすがしい顔、千尋は号泣、隼人は得意げ、進はほんの少し微笑んでいる。忘れもしない、わずか四人で行われた中学卒業ラスト校庭前で撮った写真だ。

 この写真は久々に見た。高校進学のため引っ越しをした以来かもしれない。

 鏡を見た。私はセーラー服を着ていた。そうだ、引っ越しの最中だった――。

 目を覚ます。少し夢を見ていたようだ。

「なんだ眠たいのか」

「ううん、ちょっとね。昔のことを思いだしてた。そうだ。駄菓子屋はどうなってる。あそこまだ寄ってなくて」

 そのまま隼人が答える。「確か五年前か、おばさんが亡くなってそのまま畳んだぞ。葬式には、文子は来なかったよな」思い出す。

「あぁそうだった。あのあと畳んだの」

「そりゃ、跡継ぎがいないから。残念だよ」

 隼人は冗談っぽく言うが、残念なのは本心だろう。四人のうち唯一、隼人はここに残る選択をした。ここに残り、畑を持っている。

「しかし、田舎はたいして変わらない印象を持っていたが、田舎も田舎で時間が経てば変化があるものだ。帰ってきて実感したよ」

 進はしみじみ言った。彼は都会勤めの会社帰りなのでスーツを着たままやってきた。今はジャケットは放って、ネクタイは手元で髑髏を巻いている。

「食器片付けついで新しいつまみ作ったよ」

 寝てる間に席を外していた千尋が追加の料理を持ってきていた。みんなの顔がぱっと明るくなる。彼女の料理は昔から一流なのだ。

 ○●○●

 俺の友達に及川という男がいる。

 男と書いたが、俺と同じ歳の中学二年生だ。俺は及川と同じ小学校に通い、同じ中学に通っている。

 俺の通う中学校は俺と及川を合わせても同級生はわずか五人しかいない。

 先輩はみんな卒業すると県立の高校に行ってしまう。県立の高校は遠くにあって、卒業すると疎遠になってしまう。これだけ仲良くしている俺らも高校生になればきっと疎遠になるだろう。

「隼人は進学どうするの?」

 帰り道が同じの文子が聞いてきた。文子は年齢相応の黒髪おかっぱ頭のかわいい髪型だが、年齢に対して少し大人びた雰囲気がある。いつも小難しい本を読んでいるからだろうか。

「しらねぇ、俺まだ二年だし」

 近くの小石を蹴る。蹴った小石は水路にのみこまれていった。ど田舎の帰り道なんか神社とお墓と池しかない。

「そんなこといってたらあっという間に三年になって、困る事になるんだからね」

「へいへい」

「けれども……あたしはどうしようかな」

 たしか文子は都会に出たいとか言っていた記憶がある。都会の可能性に憧れているとかなんとか。まったく唾を吐きたい気分だ。ここも悪くないというのに。けれども思ったこと別の、これもまた本心が出る。

「文子は賢いからどこでも行けるだろ」

 文子は別に喜ぶ訳でもなく、怒るわけでもなく、聞き流している。顔は別のことを考えていた。そしてぼそっと声に出す。

「及川君はどうするんだろ」

 それは俺も思っていた。あの秀才な顔をした聡明なヤツ。子供のくせに大人びていて無垢なヤツ。不思議な事を言う俺の大切なヤツ。そして文子が好きなヤツ。


 給食が終わって昼休み前のこと。及川は五人の机を寄せた通称グループ机を戻さず、皆に話しかけた。みんなは机を運ぶ手を止めて及川を見る。

「もう卒業だからなんか残したいよね」

「急に。残すものなんてなにもないでしょ」

 長い髪を触りながら千尋が答える。俺は「学校に傷跡でも残すのか?」と聞くと及川は「違うよ」と笑う。それに進が「タイムカプセルとか?」と言って、俺は初耳だった単語を聞くと文子がうんざりしながら詳しく教えてくれた。

「タイムカプセル悪くないが、あれはまた集まって掘り起こさないといけない。埋める場所も必要だ。それはちょっと面倒」

「別にそれぐらい問題ないでしょ」

 千尋が言うと、及川は手を振って遮る。

「いや、いいんだけど。僕が言いたいのは、僕らがここにいた痕跡を残しておきたい」

 及川の意思をくみ取ろうしながら文子は「痕跡?」と聞いた。及川は及川で頭の中で言葉を探っている。

 そして及川はそのまま考え込む。細く柔らかで目を隠すほど伸びた前髪が、開けっぱなしの窓から流れてくる風にさらさら揺れる。悔しいが彼が考え込んでいる様は絵になる。

「話としての痕跡だ。思い、願い、祈り。そういったものを、僕らが作る」

「よくわからねぇな」

 俺が聞くと及川は閃いたように言った。

「あれだ、都市伝説。あれを僕らが作るんだ」


 その数日後の帰り道、俺と及川は学校の帰りに駄菓子屋に寄ることにした。

「進も来りゃよかったのに」

「進は進学校行くから勉強してるんだって」

 進は難関を突破するためもうすでに受験勉強を始めている。事実五人の中では一番学力が高い。

「勉強なんていつでもできる。遊ぶのは今しかできない」

 及川は笑って「確かに」と言った。その笑いとった手応えを感じ、しかしここで文子とのやりとりを思い出す。

「及川は進路どうするの」

 及川は目を丸くした後に少し考えて。「実はあんまり考えていない」と小声で言った。

 その無責任さになぜか腹が立つ。

「適当だな。まだ決めてないとか」

 癪に障った及川は「じゃあ隼人は決めてるの?」と聞いてきた。俺は一瞬迷ったが自信満々に文子の志望校を言った。なにも考えていない。始めに進のを言おうとしたが、あいつのは無理となり次順の文子になったわけだ。

 一方の及川は意味深な顔をする。

「それはいい。応援してるよ」

 肩を叩かれたが、意味がわからなかった。

 駄菓子屋に到着すると店主が留守だった。

「いないね」

「いつものところにいるんじゃないか」

 駄菓子屋のおばあさんは学校の帰るタイミングで散歩に出かける。中学生として帰り道に寄りたいのだから、帰るタイミングにこそいてほしい。

 以前学校を早めに帰ることがあって、暇なので進と及川と俺でおばあさんをつけたことがあった。おばあさんは数キロほど散歩をしており、道中にある神社近くのお地蔵さんに手を合わせていた。そこから来た道を帰ってくる。それだけだった。

 なんとなく、今日はお地蔵さんのところまで行こうという話になった。

「毎日毎日なんであんなことするんだろ」

 俺はおばあさんを不思議に思っていた。なんで毎日お地蔵さんのところに拝みに行くのか。おばあさん本人は散歩だと言っていた。

「祈っているんだ。大事なことさ」

「祈り! またそれだ。俺にはわかんねぇ」

「隼人だってバッターボックスに立つとき構えるじゃん。なんならプロ野球選手のポーズまでして」

「そりゃ、かっこいいからな」

「それと一緒だよ。プロ野球選手もそのままバッターボックスに立ってもいいのに特定の動作をしてバットを構える。ポーズすること自体に意味がある。祈りだね」

「難しいな」

「そんなことないよ。だれもが内心持っているはずから。信仰の対象がだれであれ。叶うかどうかは置いておいて。することに意味があるという動作が、おばあさんはお地蔵さんに祈ることだった」

 やがて神社の鳥居が見えてきた。そして近くにお地蔵さんがちょこんと添えてあり、その近くでおばあさんがちょうど手を合わせていた。

 なにげない風景だった。秋の夕日に伸びるおばあさんとお地蔵さんの影は遠く小さく、一方の黄色と茜色が複雑に混ざった空は雲は近く大きい。

 声を出すのを忘れていた。上手く表現できないが、俺は光景に飲み込まれていた。及川の方をチラリと見てみると、及川も似たような反応をしていた。 

 先に向こうがこちらに気がついた。おばあさんは俺たちの名前を呼び、俺たちはおばあさんに駆けていった。そのまま談笑しながら駄菓子屋に行き、俺と及川は二百円もの駄菓子を自由に選んだ。

 俺はおばあさんがいつも何を祈っているのかずっと気になっていた。が、この日も結局聞かずしまいになった。


 都市伝説を考えようの会は学校生活の傍ら、進学の受験勉強の合間を縫って、先生の視線をかいくぐりながら秘密裏に進行した。計画そのものは難しくなかった。場所を選び、設定を考えて、布教する方法を決める。それだけだ。

 まずは場所。これは田舎なのだから神社か池かお墓か山かぐらいしかない。神社は怒られるかもしれないから、山は単純に危ないから、お墓は怖いから、など話していると自然と場所が絞られる。池になった。

「設定はどうする」

 進が聞くと、文子は答えた。

「零時に訪れると無数の手が伸びている……」

「やだこわい」

「千尋は怖がりだもんね」

 調子に乗った文子が無意味に凝った演出をして千尋は震え上がらせていた。スカートの袖をぎゅっとしている。怖がりすぎである。

「ただあんまり怖いと広まるっちゃ広まるけど、広まるだけだろ。それじゃそこらの都市伝説と変わんない」

 進の意見に俺は同意した。

「前向きな話がいい、だろ?」

 及川はうなずく。単に都市伝説ならビビらせるだけでいいのだが、今回及川は前向きであることを異様にこだわっていた。呪われる系はダメだし、逃げる系もダメなのだ。求めるのはこれをすれば願いが叶う。というもの。

「そうだな。ベタに池の周りを回ったら願いが叶うってのはどうだろう」

 移動教室時にもそんな話題をひそひそと行う。先生が通りがかったので挨拶をして別の話題をして、また戻る。理科実験室まではもうちょっと距離がある。

「そもそもなんの願いを叶えるようにする?」

 文子の質問に進が答える。

「お金持ち……と、自分は考えたけど、思えば中学生の叶えてほしい内容は恋愛なんじゃないか」

 進は千尋を見る。千尋は筆箱を落としかけながら答えた。

「たしかに、進の言うとおりだわ。だいたいの願望は恋愛な気がする。頭がよくなりますように、運動ができますように、はもっぱら神社で祈ってる気がする。私も」

 これを聞いて及川は納得したようにうなずいた。

「わかったぞ。そういう願望を叶える話に出てくる願いは、みんなに言えない相談なんだ。みんなに言えないような秘密をこういった場所で吐き出してる」

 進がさらになにか言いかけたが、もうすでに理科実験室は目の前にあった。


 やがて池をぐるぐる回ったらなにが叶うのか、それはベタに恋愛ごととなった。そして池を連続三日間三周、しかも回っているときは思い人の名前を頭に強く念して、誰にも見つからずこなすことができたら思い人成就する。という設定が付与されて痕跡は完成した。

 あとは布教するのみ。これもまた問題なく行われた。これが一番簡単だったと言ってもよく、それはそれとなく自分より年下の学生に話せばいいだけだ。

 そしてすべてが終わった頃にはもうすでに俺たちは三年生になっていて、気がつけば夏休みも過ぎていた。今更ながら文子の言うことが頭に浮かぶ。

 ○●○●

 誰もいない襖を開けて、気配はまだ残っている長い長い廊下を歩いている。曲がり角に消えかかった影が声をかけてきた。

「あら珍しい。どうしたの」

 それはどこか色気がある図体をしている。

「ちょっとした用です。たいしたことはありません」

 彼女? は「そぉ」と面白がるように答えてから僕がこれから会う相手の居場所を教えてくれた。あの方はいろんな場所に行っている。けれども十月は少なくともこの建物内にいる。ある意味タイミングがよかった。

 それらがいる場所に到着すると、襖を隔てて奥は宴会場になっていた。一人ではない複数のたくさんの影が見える。僕は少し緊張した。誰もが同じ境遇だとしても、僕はまだほんの子供に過ぎない。向こうは大人がいる場所で、まだここは僕が立ち入る場所ではない。ここまで考えてふっと笑う。まるで職員室のようじゃないか。

「失礼します」

 相手は一斉にこちらを見た。そしてすべてを察したようだ。一瞬で懺悔と寛容が行われた。

「なんのようだ」

 言葉に対して柔らかい言い方だ。

「僕は禁忌を犯しました」

 続きを言うのを声は制止した。

「いい、言わなくても。そんなことよりも、私らが気になるのはお前のやり方だ。あの信仰の集め方は効率が悪いんじゃないか」

 僕は顔を上げる。こればかりは自信を持って言える。

「効率が悪いのはもっともです。ただ僕は人間が行う、小さな祈りという動作が美しいと思ったのです」

「ちょっと上手く立ち回って大きな祭りをすれば信仰なんてものはすぐに集まる。君はそういうのは上手いとみてとれる。なのにそれを選んでいない。美しいという意味とは」

「以前、僕は友人とおばあさんを迎えに行きました。いえ、正確には違うのですが、そこはいいです。僕は友人とお地蔵さんに祈りを捧げるおばあさんを見ました」

 その光景を思い出す。ほんの少し前だというのに遠い昔のことのように思える。

「僕にはその光景がひどく美しく見えました。僕の見る限り、あのお地蔵さんに強い効力はないでしょう。けれどもおばあさんはそのお地蔵さんに毎日祈っていたのです。ささやかな願いを」

「健気なおばあさんだ」

「その通りです。健気で善良な市民です。僕はそういった人物が行う。無欲な小さな願いを、その行う一連の動作を、信仰を、美しく愛しく思うのです」

 人間のすべてを知っている彼らはうなずいた。そして「若いな」と口々につぶやいた。僕は顔が赤くなるのを感じた。

「まぁいいさ。お前の言っていることはわかった。お前の罪も。咎めることはない。ただすこし反省をしてきなさい」

 それで終わった。すべて終わったのだ。

 ○●○●

 締め切った窓の外から祭り囃子が聞こえてくる。室内は真っ暗だ。

 私はひどい後悔に襲われていた。意気地なしだった。あれだけチャンスがあったのに、なにひとつアクションを起こさなかった自分が情けない。

 ついさっきまで神社でお祭り行われていた。おそらく今も行われいるだろうが、今は大人の時間である。現に家には誰もいない。いないのだ。私は及川君を家に誘う予定だった。

 涙で枕が濡れた。そして乾いてゆく。


 夏休みが終わり九月になった。

 永遠と思われる後悔は徐々に薄れていった。時間が解決してゆき、日常が私を優しく残酷に包み込んだ。もう叶わぬ夢になっていた。

 進学を目前に控えて受験勉強が本格化していった。私も千尋と遊ぶことが少なくなり、一人将来について考えることが多くなった。そして同じくこの行き場のない体力を昇華するために散歩に出ることが増えた。

 もう寒いぐらいの気温だ。私は上着を着て外に出る。いつも歩くルートは決まっており、家から神社へ、神社で合格祈願をしてそのまま帰ってくる。およそ四十分程度の散歩道。

 たまたまこの日は薄暗かった。

 はっきり認知したのは神社を上るとき、上の方が暗くて見えなかったからだ。私は日が暮れるのを早くなったと思うちょうどそのとき、神社の裏道に人影が見えた。

 私は後を追った。影が私より幼い子供っぽかったから心配になったのだ。

 影の正体は一年後輩の私の知る女子生徒だった。彼女はあたりを見渡しながら、神社後ろの池の外周を回ろうかとしている。

「まさかね」

 まさか本当にやる人がいるなんて。私は見てはいけないものを見たような、けれどもすこし高揚した気分になった。そして胸に秘めることにした。隼人が同じ光景を見たらしく嬉々として話していた。このとき進と千尋が付き合っていることを知った。


 散歩はその後も続けた。

 十月いよいよ寒く、体がこわばっている。空気も澄んでいて私は凜とした気持ちで神社の石畳を上ってゆく。

 神社に到着すると先客がいた。隼人だった。

「なんだ文子か。なんでこんな寒いのに」

 隼人は手をこすりながら言った。そして合点のいったような顔をして「神頼みしにきたのか」と言う。

「ちがうって。もうほぼほぼ合格確定よ。それより隼人はどうなの」

 隼人が私と同じ高校を志望していると知ったときは驚いた。なにか理由があるのではないかと勘ぐったのだが、彼は彼で必死に勉強しているようで黙っている。

「わかんねぇ、第二志望も真面目に考えてる」

 視線をそらす。らしくなく自信なさげだ。

「それなら仕方ない。正直一回り二回りも理想高いと思ってた」

「そ、そんな風に思ってたのか。……自覚してたけど!」

「まぁ隼人にしては頑張ってると思うよ」

 なにげない一言が隼人を傷つけたらしい。

「腹立つ。絶対合格してやる」

 そう言い残して階段を駆け下りていった。

 神社に一人になる。私はほぼ習慣になっている動作を行った。そしてもう神社に祈ることがない自分に気がついた。

 手を合わせてまま閉じた目を開いて上空を見て考えた。強いて言えば隼人の合格……と考えたところで、神社眼下に見える池に目が入った。

 些細な願いが頭に浮かぶ。

 池の外周はおよそ五〇〇メートル、幅は一メートルほどの草が生えた土の上を歩く。柵はなく、なだらかな斜面が両側に伸びる。

 池は昔、空襲の爆撃によってできた穴だと聞いている。だからあの下に爆弾の柄があるとかなんとか、そして今や少し整備して畑で使う水を貯蔵する役割を果たしていた。

 スタート地点を決めて、私は真面目に及川君のことを考えた。すこしこっぱずかしくなり、そしてまた真面目に想像する。

 彼の姿、そして外周三周。

 けりがつくはずだった。彼の考えた信仰で、彼を考えながら、もう想いなんて伝えなくてもいいと。ただ、気がつけば夢中になっていた。どこを歩いているのかわからないほどに。

 なにかにつまずいた。つまずいたものがなんなのかわからないまま、私は体勢を崩す。視界が斜めになりながら、向かう先は池だとわかり、身構えた。

 そして冷たい水が私を包む。

 落ち着かなきゃ。もがく。わからない。光が見える。体が冷えてくる。

 ……もう助からない。

「そんなことはないよ」

 声が聞こえてきた。ゆっくり目を開けると、ほのかに光が上に下に漂っている。どちらが上かわからない。だだよいながら曖昧に、私は言葉の先を見る。人影が見える。

「まったく」

 同じ歳の男の子だった。

 及川君だ! 体を動かしてもその場から動かない。水中で走っているようだ。及川君は十メートル先で立っている。

「あぁ、まぁうん」

 及川は無表情でこちらを見ている。

「ここは……」

「疑問に思うのは最もだ。けれども聞かないでおくれ。ちょっとした場所だよ」

 うなずいて黙る。及川君も切り出し方がわかんないようで黙っていた。

 すこし私は迷っていた。けれども迷うのは愚かに思えた。だっていま願いが叶ったのだから。

「及川君。そのね……」

 及川君はこちらを見た。

「私は、及川君のこと、理由はわかんないんだけどずっと気になってて」

 察しのいい彼は私の言おうとする言葉を先走って知った。そしてしっかり耳に入れる。そして顔を赤らめる。私はここでひどく安心した。及川君は及川君だった。

「このタイミングで言われるとは思わなかったからなんて答えていいのか」

 急に恥ずかしくなって「返事はいつでもいいから」など口走る。手が勢いよく振られて、気泡が浮かび、ここが水中だとやっと気がつく。

「ここは不思議空間だというの、わかったと思う。そしてここからすぐ出なきゃいけない」

「でよう。早く」

「うーん僕もそうしたいんだが」

 ここで及川君はこちらを見て「言った方がいいか」とつぶやく。

「ここを出た瞬間。君は僕の記憶を失う。正確に言うと、君たちは僕という存在を忘れる」

 絶句した。言葉が出なかった。

「なんで、どうして」

「理由は言えない。難しいから」

「難しくても聞きたい。だって、そのために勉強してきて……難しい本を読んで……」

 及川君はつらそうな顔をした。けれども「答えられない」とそっぽを向いた。

 この表現であっているのか、空間が破れた。上空で大量の水が流れ落ちてくる。

「急ごう」

「そ、そんな」

 まだ迷っている私に及川君は言った。

「なんで痕跡を残そうとしたかわかる? まぁ祈る動作が美しいのもあるけど、僕はね、僕を忘れてしまっても痕跡が残っててほしかったからなんだ」

 彼の言葉を理解しようとした。

「僕が君たちといた記憶が、たとえ君たちが僕の記憶を失おうが、祈りの動作は残ると思った。残ることが大事なんだ。信仰とは無意味でも行われる動作だから」

 空間がさらに派手にわれた。

「帰ろう」

 気がつくと及川くんは前にいた。目の前に差し出される手、私はそれに手を伸ばす。止める。言うなら今しかないと思った。

「私は及川君のことを忘れない」

「ありがとう、僕も忘れないよ」

「名前で呼んで」

「そうだね。おいで、文子」

 彼の手を握った。瞬間、すざましい水流が体を襲った。手が何度も離れそうになり、私は両手を持って彼の手を握った。絶対放したくなかった。

 次に目を覚ましたのは池の斜面だ。体はびしょびしょだった。ひどく泣いた後のような、少し前は苦しんでいた残滓が心の底でうずいている。理由はわからなかった。

 ○●○●

 先ほどうとうとしていた文子が千尋の料理をつつきながらまた眠ってしまっていた。

「しかしさぁ、昔話久々にしてやっぱ思うんだよ」

 俺が話し始めると、進は手を止めて、千尋はこちらを見た。

「当時、進は受験勉強してただろ。文子と千尋もやってた。当然俺一人で遊ぶことになる。そして俺は俺を知っている。俺は一人だとつまんない手のタイプなんだ」

「後輩連れてたんじゃないの。ほらあの池の話を言いふらしたみたいに」

 俺は缶ビールをトンと置いた。

「それだよそれ。そんな複雑な話を俺が思いつくはずないんだ。話の塩梅から文子が有力だが、文子はつまんないヤツだった」

 文子が体を起こした。目元を拭っている。寝ながらに泣いていたようだ。

「また夢でも見てたのか」

 俺が聞くと文子は「そうみたい」とつぶやいて俺をじっと見た。

「なんで同じ高校を受けたの」

「なんでそんなことを言い出すんだ」

「夢、神社の夢を見てた。それで起きて思い出した。隼人とあの神社で会ったこと。実はあの後神社で、隼人の合格を願ったの」

「えっ、マジで?」

「一回だけだけどね。で、どうなの」

「あぁ、なんで同じ高校受けたか。なんかすげー頭にくること言われて選んだ記憶ある」

「私を追ってきてじゃないんだ」

 周りの連中が「嘘だ」「照れてる」とやいのやいの言ってくる。文子をみると当時の生意気そうな面影が覗いていた。

 俺は切り返したくなった。

「で、なんでおまえは池に落ちたんだ」

「それは……」

「あのとき、お前もお前で『なんでかわからない』と言っていたよな。あの池の話を知る分では俺かな? と期待してたのが馬鹿なほど放心してた」

 文子はぼっとした。

「本当にわかんないの。今更時効だからいうけど、あの池でなにか不思議なことがあった気がする」

 進がコップ片手に言った。

「さっきもそんな話してた。あの池の話はだれが思いついたのかって」

「いいや、私じゃない」

 俺は周りを見回した。

「まてよ。じゃあ誰が考えたんだ」

 千尋と進は口々に自分じゃないことを言った。文子ももう一度「わたじじゃない」と言って自分で問いかける。自分は絶対にあり得ない。

 夜風が吹いた。ずいぶん涼しい風だ。俺はどうしていいのかわからずにいると文子が言った。

「ねぇ、これから池に行いかない?」

「え、なんで、今から?」

「そうそう今から」


 深夜、四人そろって外を歩くことになった。

 神社の近くの鳥居を見て俺は足を止めた。

「どうした」

「駄菓子屋のおばあさんいたろ。おばあさん、あのお地蔵さんに毎日祈ってたんだ。何を祈ってたか、ついに聞けずじまいだったなぁって」

 それに文子は「知ってるよ」と続けた。

「子供たちが無事に帰れますように、だよ」

「かなわないな」

 空を見上げた。月が綺麗だった。

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少年の無意味な祈り くもの @kumonogu

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