第139話 三方ヶ原の戦い

天正十二年 夏 井伊谷 真田信繁


 「父上!我が隊、無事に井伊谷に集結終わりました!」

 「よしよし。源次郎で最後だな……これで騎馬隊三千が集結できたか。うむうむ。皆の者、先ずはご苦労。今日は明日に始まるであろう大戦に控え、ゆっくりと寝ておくが良い。明日は休む間もなく働くこととなろうからな」

 「「はっ!!」」


 ここは遠江浜松城の北に位置する井伊谷。

 信尹叔父上の妻、虎殿のご実家だ。


 駿府城を出立した父上に率いられた騎馬隊。


 我らは掛川城、浜松城を素通りし、三河の地をこれ見よがしに走り回った後、夜陰に紛れてここ井伊谷に集結した。


 三河では百騎、三十隊に分かれ、それぞれが人目に付くような形で数日の行軍を行なった。

 そして、今日の夕方に、徳川家の藤川にある砦正面裏手の山に造られた当家の簡易砦に旗指物だけを刺し、我らは闇夜に紛れて井伊谷へと集まった。


 「……父上。本当に家康殿は出て来るのでしょうか?」

 「ん?源次郎よ、父の読みが信じられぬのか?」

 「いえ、そういうわけではないのですが……此度の戦、家康殿は長野家を標的としているのでしょう?当家の進軍を遅らせる目的なら籠城をして大いに邪魔をすれば良いだけではありませぬか」

 「くっくっく。本来の目的、戦の本質を語るならばその通りだ。だがな、その視点を戦の本質から外してみるとそうでもなくなってくるのだ」

 「戦をするのに、戦の本質を見ない??……源次郎には難しくてわかりませぬ」


 父上と叔父上はたまに、このように狐の化かし言葉のような問答をにこにこして楽しまれる。

 私には少々難しいことです。


 「なぁに、要は慣れよ。お主も伊藤家に集う多士済々の方々と交流を深めれば、自然とこのような考えもわかるという物……ただ、今回は俺が教えてやろう」

 「……はい。お願いします」

 「……だから、そのように悲しそうな顔をするでないわ」


 そういって父上は私を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめてくれた。

 私も十九と良い年の男子なのですが、父にとってはいつまでも手のかかる息子であるようです。


 「まずな……思い出さなければいけないのはだ。徳川家は武家ではないということだ」

 「……武家ではない?」

 「ああそうだ。徳川は武家ではない。……もちろん「徳川」という家名は武家としての流れではあるが、家康の生まれは三河の小豪族の「松平」だ。そして、松平は足利の世の中で混乱した三河で頭角を現した豪族だ。……つまり、彼らは在郷武士ではあるが武家ではない」

 「……」


 それがどう繋がるのでしょうか。


 「武家とは長き間に渡って地縁に関わらず、戦いを専門にしてきた家柄を指す。一方で在郷武士や豪族というのは土地を守るために武装してきた連中のことを指す。まぁ、偉そうに言うが、俺達「真田」も武家というほどには武家ではなく、小領主みたいなものだがな……話を戻そう」


 私自身は幼いころに信濃の真田郷から離れて久しいので、豪族の出だと言われてもあまりしっくりとは来ない。

 いや、そもそもが伊藤家の家臣は、そのほとんどが領地を持たないので、豪族というのはいないのではないだろうか?……父上の言を基にするのならば、伊藤家の臣は須らく皆が武家だ。


 「要するに、武家というのは如何に戦に勝つかを命題とした集団であるが、在郷武士とは如何に土地を守るかに特化した集団であるということだ」

 「……」

 「つまり、武家にとって面子などという物は戦に勝つ役に立つ場合ならば大事にするが、戦に邪魔になるのであれば捨て去れる程度のものだ」


 なるほど!

 ここでわかりました!


 「そう、在郷武士というのは面子が大事なのだ。なにせ、舐められたら領地を荒らされてしまうからな」

 「つまり、城と軍を相手にせず素通りされるというのは、在郷武士の徳川家にとっては耐えられぬ恥辱だということですね!」

 「くっくく。そういうことよ。騎馬隊が通り過ぎるのは我慢できるが、七十と八十の老人が率いる軍が目の前を悠々と通り過ぎる。……これは部下の手前、無視が出来ん。間違いなく城から打って出る」

 「なるほど!そして、城から出てきた徳川軍を我ら騎馬隊が襲うという算段ですね!」


 伊藤家が誇る最精鋭の騎馬隊。

 騎馬隊がいない軍を相手にしようと城から打って出てきた軍を撃ち破る算段ですか!

 流石は父上です!


 「それはちと違う。……城から出てきた徳川軍などは、綱成殿と綱高殿率いる一万に敵うはずがない。例え一万に倍する二万で襲ったとて、勝てるものではないわ!」

 「え?……それでは我らの役目とは?」

 「くっくく。わからんか?」


 にやにや笑いを止めない父上。

 大概、父上がこういう笑いをしている時はろくでもないことを企んでいる証拠なのです。


 「戦の一番手柄……そう、大将首よ!」


天正十二年 夏 三方ヶ原 伊藤竜清


 今回の徳川家との戦。

 俺は爺様に初陣を願った。


 俺は父上や弟の景義と違って、政はあまり得意な質ではない。

 爺様からは、「そんなに若い頃から好き嫌いを言うな」とどやされる毎日ではあるが、俺は自分のことは良く分かっている。

 俺は戦場の方が好きだし、似合うと考えている。


 そう爺様に言ったら、「そこまで軍に適性があると思うのならば、此度の戦で綱高殿と綱成殿に戦のいろはを習ってくると良い!」と言われ、こうして綱高殿の近侍として配置され、初陣を飾っているというわけだ。


 ぶるるっ。


 「かっかっか。竜清殿。そう緊張することはない。このような天候の折に城から打って出てきた家康の軍は、その命運が尽きたも同じですぞ」

 「あ……いえ、これは緊張ではありませぬ。そう、武者震いです!」

 「ほうぅ。左様か。……ならば結構」


 いかん……なぜ俺はこんなに肩肘を張るのだ。


 うわぁ!!

 いやぁぁああ!!


 朝もやの中、遠くから武器を打ち鳴らす音と共に戦の声が聞こえてきた。


 「綱高殿!」

 「おお!綱成殿……流石の仕事ぶりですな。見事浜松から徳川軍を釣り上げてきましたか」

 「はっはは。あのような小僧を釣り上げるなど造作もなきこと……とは申しても、申し訳ありませぬな。残念ながらこの靄の中では敵の軍中に家康がいるかどうかまではわかりませぬ」

 「そのようなことお気にせぬよう。大将首が取れれば結構なことではありますが、この声の感じから判断するに、浜松に詰めてあるであろう全軍が出てきた気配です。この軍を撃ち破れば、自然と良き結果がついて来ましょう」

 「綱高殿にそう言っていただければ幸いです……では準備を始めますかな?」

 「そうですな。始めましょう……竜清殿、合図を!」

 「は、はっ!」


 そうだ、綱高殿と綱成殿は昨晩のうちに、今日の戦の粗方の準備を終えていた。


 「一の合図を鳴らせ!」

 「ははっ!一の合図!」「「一の合図」」


 ドンッ!ドンッ!ドンッ!


 ゆっくりと一音ずつ、太鼓が鳴らされる。


 がっしゃがっしゃ!


 靄で良くは見えないが、三方ヶ原に築かれた縦深陣の柵に沿って鉄砲隊が配置につく。


 うわぁあぁぁ!

 たおせぇぇ!!ころせぇぇ!


 さっきよりも明確に戦の声が近付いてくる。


 「二の合図」

 「二の合図を鳴らせ!!」

 「ははっ!二の合図!」「「二の合図」」


 ドドンッ!ドドンッ!ドドンッ!


 今度は二音繋げた形で太鼓が打ち鳴らされる。


 しゃこしゃこっ。ふしゅうぅ~。


 鉄砲に弾が込められ、火縄に火種が灯される。


 「よおぉし!本陣は戻って来る味方兵を迎え入れる用意をせい!」

 「はっ!本陣!槍兵は備え!!」

 「槍兵備え!!」


 がっしゃがっしゃ!ざさっ!


 長槍隊が槍衾を作り上げる。

 伊藤家の槍衾は基本、太めの柄を持った二間槍を使う。

 この槍を構えた兵を三段に重ね、最前列には大盾と竹束を揃える。


 槍兵同士で戦うような時には、より軽い二間半槍や三間槍を持ったりもするが、こうして陣を構えて待ち構える時には二間槍が威力を発揮する。


 どれくらいの刻が過ぎたのであろうか。

 俺には非常に長く感じたが、火縄が切れた様子もない。

 それほどの時間は経っていないのだろう。


 うおぉぉ!!

 どっりゃぁぁ!!


 まさに目の前に逃げ帰って来る味方兵とそれを追ってくる敵兵が見えた。


 「打ち鳴らせ!!!」

 「打ち鳴らせ!!!」

 「打ち鳴らせ!!!」


 ドドッドドッドドドッドド!


 綱高殿の合図で盛大に太鼓が鳴らされる。


 パンパンっ!

 パパパパンッ!


 千五百丁を揃えた伊藤家の鉄砲隊が火を噴く。

 薬莢弾と呼ばれる火薬を包んだ紙と弾が一緒になったものが装填され、再度、銃から弾が放たれる。


 パンパンっ!

 パパパパンッ!


 「打ち方止め!」

 「打ち方止め!!」


 号令に従い、太鼓の音が止まる。

 この命令によって鉄砲の打ち方も止む。


 「総員槍持て!刀持て!突撃!!」

 「うおぉぉぉ!!!!」 

 「うおぉぉぉ!!!!」 


 綱成殿が二間半槍を抱え突撃していく。


 俺もここで遅れるわけにはいかない!

 父上から頂いた村正銘の名槍を抱え、綱成殿に置いて行かれぬよう、坂を駆け下りる!


 これより一刻程、俺はひたすらに走り回って、徳川軍の背を討つことに専念した。


天正十二年 夏 浜松 真田昌幸


 おう!流石は伊藤家でも一二を争う軍歴をお持ちのお二方だ。

 見事に徳川軍は城より釣り出され、お二人の仕込んだ罠にはまってしまったようだな。


 大将を守る旗本衆も数えるほどしかおらぬではないか。


 「頼康よりやす!お前は周りの騎馬が来ぬように処理をして来い!」

 「はっ!行くぞ!」


 従弟の頼康が手勢を引き連れて周囲の警戒と掃除に出かける。


 「さて……そこにおわすは家康殿とお見受けするが?ここは、既に覆せぬ状況と思われる。潔く腹を召されるか、縄につくことを選ばれては如何かな?」

 「……」


 家康の供周りは五騎というところだ。

 屈強そうな兵ではあるが、如何せん多勢に無勢。

 頼康に二百ほど連れて行かせているが、ここにはもう二百ほどいる。

 二百対六……さすがの狸殿もここは素直になっていただかなければな。


 ただ、いざという時の為にあれの用意だけはしておくか……。


 「わ、儂は徳川家康!そうやすやすと捕縛されるわけにはいかぬ!」


 ああ、そうですか。

 切腹という選択肢は端から無いのか。


 「おおおおぉ!某がここを引き受け申す!殿は城へお引き下され!!!」


 一人の猛者がこちらに突撃してくる。

 あの巨体と輝く長槍。

 彼こそが本多忠勝その人なのであろうな。

 面を深くかぶっているので顔はわからんがきっとそうなのであろう。


 ぱんっ!


 東海無双と呼ばれるような武士相手に一騎打ちなどは性に合わん。

 カリブの海賊が持っていた短筒に線条の細工を施した物を使う。


 「ぬぉぅっ!!」


 おお!

 凄いな本多忠勝よ。

 俺は狂いなく心の臓に向けて弾を放ったと思ったのだが、忠勝は槍で弾き致命傷を避けた。


 だが、この短筒は線条銃だからなぁ……。

 弾を弾いた槍は粉々に、弾いた弾がかすめた左腕か……肘から肩に掛けての肉をだいぶ削いでしまっておる。

 あれでは、これより先の戦働きは出来まい。


 まぁ、今は敵味方で戦をしている間柄ではあるのだが、一応は俺の長男の婚約者の父親だ。

 知らぬ仲ではなし、死なず、殺さずで良かったということだな。


 「ひ、ひぃっ!」


 ただ、この光景は衝撃的だったのであろうな。

 家康殿はじめ、目の前の徳川兵は皆が揃って腰を抜かしておる。


 「……っと。これで大人しく縄についていただけますかな?なに、俺も景貞様も綱高殿も綱成殿も家康殿の首を即座に刎ねる様な気はない。ここはおとなしくして頂いて、古河まで御同行願えぬであろうかな?」


 こくこく!


 無言でうなずく家康殿と連れの方々。

 忠勝だけが静かにこちらを睨んでおる。


 「源次郎!徳川家の皆様に縄を掛けて差し上げろ!これも戦場の倣い。礼節を以てことに当たるのだぞ?」

 「はっ!父上!」


 勝敗は決した。

 これ以上の無体は武士にあるまじき行いであるからな。


 ぷぅ~んっ。


 ぬっ?臭いな……。

 はて……?


 「す、済まぬが昌幸殿……どうやら懐中に忍ばせておいた昼餉用の味噌を尻で踏んでしまったようだ。ど、どこかで身体を洗えぬものであろうか?」

 「は、はぁ……それでしたら本陣近くの川にでも……」


 流石に敵の大将を糞まみれにしておくのも忍び無いしな。


天正十二年 秋 XXXX XXXX


 「殿下……殿下……嗚呼、殿下……何故に前関白殿下はこうまでに無能なのですか?」

 「左様左様。これでは後処理に奔走する麻呂たちが過労で死んでしまいまする」

 「こうして宮中にお戻りされたことは、麻呂たちも脱帽の手腕であると思いまするが……ではございますが、此度の仕儀は如何に始末を付けられるおつもりでおじゃるか?」

 「東宮に五摂家の身でありながら娘を押し付け、出来た皇子を近衛家の後継ぎとするなどと……麻呂たちの生きるこの時代の慣習を大いに破られるお見事な策謀と感心しておじゃりましたが……」

 「「どのように責任を取られるおつもりか!!??」」

 「ふんっ。責任などを取るつもりは無いでおじゃる」

 「なんと!居直りですかな?」

 「居直り殿下ですかな?」

 「……居直りではない!これは端から練られた策の通りの話でおじゃる!」

 「策通り??」

 「全くもって話が通じませぬが、一応は先を聞こうではおじゃりませぬか」

 「如何にも」「「如何にも、如何にも」」

 「ふんっ!!此度の戦、徳川には少しも良いところが無かったのは事実でおじゃる。……だが、それでも、徳川は京尹の職の権限の下に無官の長野工藤家の当代を成敗するために動いたのでおじゃる」

 「……それで?」

 「このように朝廷の命とまでは行かずとも、その権威によるところを以て行われた戦を伊藤家は否定したのでおじゃる!これは十分に朝敵と認定するが相応しいことではなかろうか!?」

 「「おお!」」「「なるほどでおじゃる」」「「一見すれば殿下の言を信じそうになるでおじゃるな」」

 「……なんでおじゃるか?不満でおじゃるのか?」

 「不満と言うか、何と言おうか……そもそもが、武家政権。鎌倉に寄った源氏との間に起こった承久の変では、北条に率いられた軍が上皇そのお方の軍と戦い、破っておるのでおじゃるよ?」

 「……それが?」

 「朝敵だと認定しても、実力が供わなければ意味がないということでおじゃる」

 「な!……朝敵でおじゃるぞ!」

 「殿下……だから、朝敵認定がいかほどの物だと言うておるのでおじゃる……麻呂は亡き父ほどに武家には詳しくはありませんが、官位欲しさに尻尾を振るような郷士とは違い、本物の武家はそのようなものは気にしないでおじゃりまするぞ?」

 「……」

 「武家は公家とは違うことわりで生きているのでおじゃる。……そもそも、畿内から影響力を与えることが出来る勢力で徳川以外にどこが有るのでおじゃりますか?三好は伊藤と境を接してはおりませぬぞ?それに、麻呂が見るところ、三好の軍は徳川の軍よりも弱いでおじゃりましょう。殿下の思惑通りに都合よく両軍が戦ったとしても、敗れるのは三好の方でおじゃる。三好が伊藤に敗れたら、流石の伊藤も宮中や王家を見過ごすとは思えぬでおじゃる。一人で火遊びをするのは結構でおじゃりますが、麻呂たちを巻き込まない形でお願いしたいでおじゃりますな!」

 「な……なんとした物いいじゃ!そ、それでも其方は公卿でおじゃるか!」

 「公卿だから言うておるのでおじゃる。……麻呂も昔は父の言葉が、その真意が理解できませなんだが、今ここで理解できたでおじゃる。九条は王家、公家を守るためにも近衛と手を組むことは出来ないでおじゃる!殿下がこうして京に戻られたことは、王家の顔を立てて譲りもしましょうが、殿下の企みに手を貸すことは一切出来ぬと麻呂は言わせていただくでおじゃる!失礼するでおじゃる!」

 「左様左様!」「まったく何を勘違いされておるのやら!」「王家を危険に晒して、良くも忠臣面が出来るものでおじゃるな!」


 ……

 …………


 「殿下……お気を確かに。九条の者どもが何を言おうとも、藤原長者の正統は殿下の方でおじゃる。麻呂たちはどこまでも殿下について行くでおじゃる……」

 「おお!その方等に感謝を!……そうでおじゃる!九条の者達が何を言おうとも!麻呂の進む道こそが藤原の道でおじゃる!」

 「「おお!」」「「その通りでおじゃる!」」「「まさに、まさに!!」」

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