第38話 次世代の光

天文二十四年 秋 江戸 伊藤景虎


 江戸城を義昭殿に取られてからというもの、伊勢家は間を置かずに攻め立ててきよる。


 毎回、多数の逃亡者と下総からの援軍と当家の軍に挟まれて死傷者を出すだけだというに……。

 退き兵の悪さもさせぬように多摩川まできっちりと追い返し、鎧を着たままの水泳をさせるまで槍でつついとるのに、まったくもって、伊勢氏康元気な者じゃな。


 江戸城を奪還しなければ腹を切らなければいけない事情でも、伊勢家中にはあるのか?


 毎度毎度、こうも勝ち目のない戦をなんの工夫もなしに仕掛ける理由が、儂には皆目見当がつかん。


 「で、お主は何ぞ聞いておらぬか?伊勢のこの無謀なる出兵の理由を?」


 儂は、今回の遠征で投降してきた一人の若武者に尋ねてみた。

 名を三枝昌貞さえぐさまささだと言い、甲斐の出身だという。


 武田家では兵を百ほど率いていたそうだ。

 昌貞が武田家を出奔した理由は、今年の新年の席でのことらしい。

 その席で、晴信殿が上野での馬場信春殿の行いをなじるようなことを言ったそうだな。

 その故人へのなじりようが、どうにも腹に据えかねたので、正月の席で当主の晴信殿に諫言をしたとのことだ。

 「馬場様のおかげをもちまして、私を含め数千の兵、その家族も含めれば万を超す命が助かったのです。なにゆえ殿は馬場様の思いをお認め出来ぬのですか」とな。


 正論じゃ。降伏を受け入れた景貞も馬場殿のその思いに感じ入り、如何なる手出しも、伊藤家の兵のみならず、上野の民にもさせなかった。


 しかし、正論は時に言葉の刃となる。特に罪悪感を感じているときにはな。


 この言葉は大多数の参加者の心を打ったものの、晴信殿の逆鱗に触れてしまったようで、昌貞はその場で追放を言い渡されたらしい。

 追放上等よ、とその足で甲斐を離れ相模へと渡り、伊勢の顔見知りのものを頼ったそうじゃ。


 そこで、目にしたのは武田家以上に落胆せずにはいられぬ伊勢家の現状であったということだ。


 このような無謀な戦に明け暮れる伊勢家にも愛想を尽かし、意見を同じくする騎馬武者数騎で当家に降ったという経緯。


 「私のような現場の者には全く……ただ、一連の無謀な出兵を計画しているのは駿河から来ておる坊主集団で、氏康様と嫡男氏政様がお二人でご決済されております。反対派の幻庵げんあん様と綱成様は疎まれ、伊豆の韮山城へ追われている……としか」

 「駿河の坊主集団……?ふむ。良く分からないな」

 「今川家の太原雪斎様の配下ではないか、と噂されておりましたが、本当に詳しいところは……」


 ま、前線での槍働きが求められる昌貞にこれ以上聞くのは酷か。


 しかし、この無謀な出兵が駿河主導だと?

 ……ふーむ。今川家は伊勢家と武田家を弱らせて吸収しようとでも思っているのか?

 だが吸収したとて、ここまで腐ったものをその身に取り込んでは、腹痛でも起こして病になるだけだと思うのだが……。


 「信濃守様。佐竹家、当家ともに陣立てが終わりましたぞ!まもなく始まりまする」

 「忠宗、相分かった……昌貞よ、甲斐仕込みのその方の騎馬武者ぶり、しかと見せてもらう故、存分に働くが良いぞ!」

 「はっ!伊藤家の皆様に認めていただけるよう、懸命に働かせていただきまする!」


 うむ。


 陣の配置はここ最近のいつも通り。

 多摩川を渡った街道沿いに氏康率いる相模軍、渡河中の振りをして退路を確保しておるのが綱成率いる伊豆軍。

 対して我が方は、氏康軍の正面に江戸城周辺の兵を率いる義昭殿、東からは東下総軍を義堅殿が、西からは古河軍を率いる儂が固める。この三方の軍で氏康軍を包み込み、多摩川に追い込むというものじゃ。


 伊勢方には上流、下流を含めて別動隊の存在はなし。


 前々回だったか、伊勢軍が鉄砲を持ちだしたときは多少びっくりしたが、矢盾に竹筒を何層か縄で巻き付けるだけであっさりと無力化できた。

 何千、何万という鉄砲に囲まれるのでなければ、いくらでも対処の仕様はある……まだまだ、鉄砲を戦場で使うのは時期尚早時期というものだな。


 ぱーん。ぱぱーん。


 火薬の音が鳴り響く。


 じりじりと包囲網を狭められたことに焦りを感じた氏康軍が鉄砲を撃ちかけておる。

 ……竹盾に弾かれてなんの戦果も得られてないの。


 ……早くも弾切れか。


 包囲網は徐々に狭まる……そろそろ頃合いか。

 先鋒は佐竹の方々じゃ。構えからして義堅殿の軍が襲い掛かろう。

 数拍置いて、当家じゃな。


 万事任せるぞ忠宗。

 儂は無言で忠宗に一つ頷く。


 義堅殿の仕掛けに対し力を向ける氏康軍。

 自然、当家側に背面を見せる形となってしまう。


 「儂に続け~!」


 どどどっど。

 どどどっど。どどっどど。


 当家お得意の騎馬突撃じゃな。

 棚倉で引っ込んでいた時には気付かなかったが、当家の馬は他家の馬に比べると二回りも三回りも身体が大きいな。鶴樹が、馬格の良い馬を選りすぐって掛け合わせたとは言っておったが……ここまでの違いが出てくるとはな。

 その馬格の良い騎馬集団が、他家よりも重厚な騎馬甲冑を付け、偃月刀を引っ提げて突撃してくるのだ、堅陣に籠り、槍衾を形成しているのでなければ、対抗は出来まいな。

 ほぅ、昌貞も先頭の方で頑張っておるわ。


 本陣の義昭殿も動くか……それでは儂らも行くか。


 「全軍突撃っ!伊勢軍を多摩川まで追い込めっ!」


 風林火山の旗も前進させるぞ。


天文二十四年 冬 羽黒山


 今日の羽黒山城は大忙しだ。

 大忙しなのだが、どこかに浮かれたような、喜びの気配がある。


 領内から集まったオバサマ方……もとい、ベテランの女中方が「湯の用意はまだか!」「布が足りぬ!」「消毒用の酒精が足りぬ!」等々で大忙しである。


 「なんだな。景藤殿。こういう時は男はやることが無く、なんか微妙に寂しいな」

 「そうですね、義父上。どうにも身の置き所が……」

 「はい!次が炊けたわよ!早いところ握っちゃってよ!」


 姉上の威勢のいい掛け声とともに、目の前に釜より出された炊き立ての米。


 「はい、さっさと握ってよね。次から次に炊き上がるから!」


 一心不乱に握り飯作成に勤しむ俺、伊藤景藤と義父、伊達晴宗。


 「あ、あつっ!。景藤殿、そこの刻み沢庵を取ってはくれぬか?」

 「あ、あつっつつ!少々お待ちを……いま胡麻を振りかけますので……」


 両手を真っ赤にしつつ握る。握る。ひたすら握る。


 胡麻と紫蘇を混ぜた刻み沢庵の握り飯。阿南の好物なのであるが……固形物が食べれるまでには時間がかかるだろうな。


 今日の昼過ぎに、阿南が産気づいた。

 時を置かずに、今度は寅清に嫁いだ杏姉も産気づいた。


 羽黒山城は諸々の産物づくりの中心地であり、俺が母上の為に精込めて作り上げた療養向きの設備も多々ある。

 初産の阿南と杏姉は大事を取って、伊藤家の領内で最も医療設備の整ったこの羽黒山にて出産を迎えるべく、秋ごろから滞在していた。


 晴宗殿は先ごろ、長男を岩城の地で無残な失い方をしてしまったので、初孫の出産では是が非でも母子ともに健康であって欲しいと、遠路はるばる米沢よりの御来場である。

 妻の久保姫、俺にとっての義母上は、母上と一緒に鹿島大社へ無事の出産を祈願しに行っている……戦いとか剣の神様のイメージしかなかったんだが、武家にとっての鹿島香取は一族繁栄をも祈願する場所らしい。因みに、伊達家にいる阿南の弟妹達は塩釜神社でお祈り中らしい。


 一族総出で阿南の出産の無事を祈ってくれている。ありがたい話だ。


 それはそれは、なんとも素晴らしい美談ですな!で終わるはずのところ、勝手場で伊達晴宗と伊藤景藤が、何故にアツイアツイ選手権を繰り広げているかと言えば……義父殿このばかのせいだ。


 確かに、出産に際して、いくら近しい血族だからとはいえ、人手が足りている以上は妊婦の近くに男共は近寄れない。

 では、祈祷に付いて行こうかと思えば、妻(娘)を置いてどこに行くのかと言われる。

 要するに暇を持て余したのだ。


 小人閑居して不善をなす。

 いや、不善まで行くのかどうか?暇を持て余した晴宗殿は、お土産にどうぞどうぞと渡した伊奈一族習作の磁器に入れられた澄酒を味見でもしてみるか、とばかりに荷物の山から取り出した。

 俺も、まぁ、味見ぐらいなら良いかねぇ……などと呑気に構えていた……のが悪手だった。


 タイミング良く?悪く?、忠宗の妻と業篤の妻に連れられて城内を歩いていた晴宗殿の母上に見つかってしまった。


 「娘の初産が心配で他家の城にまでお邪魔をしながら!なんじゃその行動は!武士の風上にも置けぬわ!そこに直れ!」


 と正座説教を食らった晴宗殿。

 俺は、触らぬ何とかに……と逃げ出そうとしたところを忠平の妻に捕まった。

 襟首を抑えられ。


 「若殿も晴宗殿と同様に暇を持て余しているご様子。良ければ勝手番の手伝いをして貰えますかな?この数日、いつもよりも人手が多い羽黒山城なれど人手が足りぬ、皆の飯作りが大変だと勝手番から報告を受けております。よろしかったら若殿には手を貸してもらえませぬかな?」


 と……。

 いや、俺ってかなり大柄よ?この時代にしては。六尺ぐらいあるもん。

 けれども、その俺の襟首を掴んでひょいっっと……六十過ぎの妙齢の女性とは思えませぬ。


 もちろん。俺はわが身が可愛いので、「喜んでお手伝いさせていただきます」と二つ返事をしたよ?うん。


 加えて、「お前も景藤殿の手伝いをしてくるが良かろう!」との義祖母様の一声で晴宗殿も俺について、勝手番の手伝いをしているということの顛末。

 以上、回想終わり。


 「はい!これで最後!」


 姉上が最後となる窯から米を出す。

 はい。誠心誠意握らせていただきます。


 「それじゃ、わたしはここにあるものを配りに行ってくるから、晴宗様と景藤はこれを握り次第、ご飯にしちゃって良いそうよ。向こうに味噌汁と鴨の揚げ物があるから、適当に握り飯と一緒に食べちゃって」

 「「あ、ハイ」」


 握り飯を作り続ける手は休めずに、頷く二人。返事は短くはっきりと……。


 出来上がった握り飯を盆に並べ、姉上(城主様)を先頭に勝手番の者達が城中の者へと配りに行く。

 確かに、通常の数倍に人が膨れ上がり、更に城の細々としたことをする手の者が二人の出産に付きっ切りなのだ。飯を食う暇もなく働いているのだから、城主や嫡男や隣領の領主が手伝いをしなくてどうするのか!か?


 まぁ、良い。

 いまは早く握り飯を作り終えて自分たちの飯にありつくのが先決だ。


 ……

 …………

 ………………


 終了!

 さぁ、飯だ!


 「おお!終わったか!では飯を頂くとしようぞ。景藤殿!して……その鴨の揚げ物というのは如何なるものなのかな?言葉の響きだけを聞くと、大層腹の虫を刺激するのだが……」


 流石は晴宗殿。好奇心旺盛なお人です。


 俺は、こちらにどうぞ、と告げ竈近くに設えたテーブルに案内する。


 「ほほぅ。勝手どころに斯様な南蛮机と椅子を備えておるのか……ふむ、出来立ての飯が楽しめる上に、作っているところを見ることで毒見も兼ねておるというわけか!なんとも興味深いの!」


 うん。毒見云々は考えていなかったけどね……。


 この机一式。

 以前、姉上に前世世界で言うところのシェフズテーブルの話をしたら「なんか、面白そうね!今度、羽黒山城に作っておいてよ!」とのお下知が下ったので、急いで作ったという思い出の拵えだ。


 「義父上。少々お待ちください」


 晴宗殿を席に案内して、俺は料理を皿によそう。各種野菜のピクルス(漬物)を添えた鴨のカツレツがメインである。

 汁ものは藤吉郎の大好物、猪肉で作ったトン汁である。

 握り飯を添えて、さぁどうぞ!ボナペティ!であり、プロヴェーチョ!である。


 「ほほぅ。これはなんとも初めて見る食事だな!これも景藤殿の発明か?!」


 いえいえ、そんなことは。


 「いえ、当家に出入りの商人から南蛮の料理を聞きまして、そこで聞いたものを当家で再現しただけです。そちらの肉は鴨を麦の粉で包み揚げにしたものです」

 「おお!鴨か!儂は大好きだぞ!……景藤殿もあまり気にせんで良いぞ、我々は京の武士ではない。奥州の武士じゃ。奥州の武士が獣肉を食えんなどと言っておったら、忽ち餓死か、刀の錆じゃ。食えるものを食える時に食べるのは道理、しかもうまいのなら食わねば阿呆というものだと思うぞ」


 ご配慮片じけない。

 俺は軽く頭を下げる。


 自分にも晴宗殿と全く同じものを同じところから皿によそい、すべて、先に一口付ける。


 「うむ。かたじけない。では頂こう……!むむむ!なんじゃこの肉はたまらんな!」


 お口に合ったようで結構です。

 漬物には少量の唐辛子を、カツレツには焼塩と胡椒で味付けしております。因みにトン汁には山椒が効かせてあったりする。


 「ほほぅ。みそ汁も美味い。汁の肉は何じゃ?」

 「そちらは味噌漬けにした猪肉です」

 「かぁ~っ。猪とか儂の好物じゃ!……これに澄酒の一杯でもあれば格別なんじゃが、また母上様にどやされてもたまらんからな。今は我慢しておこう……初孫が産まれた時は飲ませてもらうがな!」

 「その時は是非にもご一緒させていただきます」

 「もちろんだ!」


 しばし、義父と婿の食事を楽しむ。


 「そうだった。景藤殿、伊藤家にも鎌倉殿から連絡が届いたか?」


 連絡?公方?……っと、ああ、はいはい。


 「改元の件ですか?」

 「左様。近年の戦乱を鎮めるために改元を行い元号を弘治と改めたと……東国の戦乱を鎮めたいのならば、足利重臣の今川と伊勢の首根っこを摑まえるのが先だろ!と言いたいわ……まぁ、使者にはそう伝えたがな」


 相変わらず晴宗殿はヤンチャである。


 「まさにごもっともですなぁ……しかし、今から弘治ですと、あと一月もしたら弘治二年ですか。多少面倒ですな」


 西暦に慣れ親しんだ身には頻繁な改元はご勘弁願いたい。

 別に元号自体の否定はしないけどさ。


 「何事も物事を決めた本人にとっては、決める理由があるものさ。儂ら余人には窺い知りようもないな」


 まるで、いたずら小僧のような表情で微笑む晴宗殿。


 「天文はこれで二十四年か……やはり、ある程度の長さがある元号は使い勝手も良かったのだがな」

 「ならば南蛮歴も併用しますか?」


 軽いお誘い。


 「ふむ?南蛮歴とな?それはどういう計算じゃ」

 「私も詳しくは知りませぬが、月の満ち欠けで数える我々とは違い、太陽の動きで計算する暦です。そして、彼らの信ずる神の使いが生まれた年を一年とし、今年が千五百と五十何年かにあたるはずです」


 流石に戦国時代の元号を簡単に西暦変換できるようには暗記していない。

 応仁の乱から足し算しないと正確な所はわからない。


 「さすれば今年が千五百五十年とすれば、翌年は千五百五十一年か?そして、永遠に足していくわけか……さすがに、南蛮人共は理を追及してくるのぉ」


 和暦と西暦の併用が楽だよなぁ。

 今まではこっちの書類は全部天文で書いていたのが、これからは弘治となると初めのうちは混乱しちゃいそうだし……。


 「ははは。ではこれから、景藤殿あての文には西暦とやらも合わせて書いてみるかの!あとで、今年が何年か正確な所を教えてくれよ?」

 「しかと……」


 などと、年号談義をしつつ楽しい夕飯が終わった頃、羽黒山城のシェフズテーブルに知らせが届いた。


 「お生まれになりました!阿南様が玉のような男の子がお二人を杏様も男の子を!」


 おっと、いきなり二児のパパ!


 「ははは!男か!跡取り結構、結構!双子であろうとも母子ともに健康ならば、これ以上は無いな!景藤殿!」

 「ええ、その通りです!」


 ひしっ!


 涙ぐんで抱き合う男二人。


 「で、では早速、阿南と孫の顔を見に行かねばな!」


 駆け出す晴宗殿、俺も負けてはいられぬ、とばかりに席を立つ。


 「その前に!そのような汗まみれの格好で会いに行くとは何事ですか!先に湯あみでもして綺麗になってから行きなされ!」


 は、ハイ。

 晴宗母に叱られる二人でした……。


弘治元年 師走 羅漢山 安中忠平


 「おお業篤殿、これは忝い!見舞いなど要らんというのに……やはり年には勝てぬものですかな、このところ冬になると、風邪を引いてしまう。昔は風邪などひかなかったというのにな」


 今年の風邪は倦怠感と熱じゃな。喉も鼻も痛くはないし胸もどうこうは無いのだが、如何せん熱で体がだるくなる。


 「ご家老様、どうぞそのままに……今年の正月の集まりには久方ぶりに、ご当主の方々が集まるとか、ご準備の心労が堪えたのでしょう。今しばらくお休みになってご回復なされられませ」

 「これはこれは、痛み入る……で、何か内密に話でも?」


 業篤殿の言うように今年は久方ぶりに当主会談が行われるのじゃ。

 忙しいのは業篤殿も御同様のはず、そのような忙しい身で羅漢山を訪れるのだ、何かしらの相談事があってしかるべきだろうさ。孫の寅清殿も連れてきておるしな。


 「ええ、少々……その儂では考えが……一つ、ご家老様にご相談したき儀がございまして……」


 ふむ。業篤殿にあるまじき動揺っぷりじゃ。

 なんとも厄介な相談事なのじゃろうか……。


 「何なりと申されよ。業篤殿と儂は三十年近い付き合い。ともに伊藤家をお支えしてきた仲なれば、何ぞ遠慮などは必要なかろうものよ」

 「はっ。それではお言葉に甘えて遠慮なく……」


 何やら視線が定まらぬな、業篤殿は。


 「……あれは三年前でしたかな。あの時もご家老様は風邪を引かれ床に就いておりました」

 「おお、そうじゃったな。確かに、あの時も見舞いに来ていただきましたな」


 あの時の風邪は咳が止まらずに苦しかったのを覚えとる。

 一族の者達が儂の容体を心配して勢揃いで集まっておったな、くくく、滑稽な話じゃ。


 「その時にお聞かせいただいたお話……その前にまずはご家老にお見せ致したきものがございます。これ、寅清。ご家老様にお見せするのだ」

 「はっ」


 寅清が懐から何やら布に包まった品を見せに来る。


 ふむ、何かの骨?牙と……角のかけらか?


 ぬ?もしや!


 「先月、阿南様と同日、寅清の子を杏様もお産みになりました。その寅清の赤子が両の手に持っていたのが、その二つ……見ようによっては狼の牙と鹿の角のかけらにも見える物でして……」

 「……」


 言葉が出ぬ。確かに狼の牙と鹿の角のかけらに見える……。

 しかし、若殿の子ではなく、寅清の子にじゃと?


 「ご家老様より聞いたお話。某は柴田の者には一切話をしておりませぬ。もちろん、ここにおる寅清にも……それゆえ、このことを寅清から聞いたのは一昨日のことなのです。曰く、「息子がおかしなものを両手に持って生まれてきたが、これは何でしょうか」と……」


 緊張で喉が枯れておるのであろう、業篤殿は茶を一口飲む。


 「某もはじめはおかしなことがあるものだとしか思いませんなんだが……一つ、思い出したことがあったのです。赤子が産まれた日は、珍しく羽黒山周辺の阿武隈山中の方々で狼の遠吠えが響き渡っていた、と……」


 うむ!確かに儂も若殿から聞いたわ!


 「あの日は珍しく狼の遠吠えが山中で響き渡って困ったよ……まぁ、うちの旗印が狼の字なだけに吉兆だとは思うんだけどね」


 確かにあの日のことを若殿はそう仰せになり、恥ずかしそうにしておった!

 思い出したぞ!


 「その狼の話で、もしや?と思い。これらを見返すと、どうにも狼の牙と鹿の角のかけらにしか思えてきませんでしたので……ご無礼は承知ながらも、是非ともご家老様の下で確かめねばと……本日参上した次第であります……」


 うむ!うむ!


 確かに、あの時、儂は母上から聞いた話を安中の者全員に伝え、若殿への忠義を誓わせたが……。

 まさか、両手に持って生まれてきたのが寅清の息子だとは……。


 「合い済まぬ。業篤殿……さすがに儂も混乱してきておる……兎にも角にも、寅清の持つその物が本当に当家で預っているものと同質の物なのか確かめねばな!寅清、かまわんからそこにある箱を持ってまいれ」


 儂は動揺する心を静めながら、寅清にそう命ずる。


 いかんな、心の臓が音を大きくしておるわ。


 「ご家老様、こちらで……」


 寅清が床の間から箱を持ってくる……。


 「では、空けるぞ……業篤殿、済まぬがその布に包まれたものをこちらに……忝い……!!!!」


 ……。


 ぴったりじゃ……。


 狼の牙は瓜二つの形状をしており、欠片はぴたりと角にはまる……


 「ご家老様、お爺様!こ、これはどういう……」


 寅清も深いところまでは業篤に説明してもらっておらぬのであろう、何が何やらと混乱しておるな。


 「ご家老様……いかように決着を付けましょうか」


 業篤殿が悲壮な表情で決意を見せておるな……ことがこととなれば赤子を殺すつもりか……。


 「業篤殿、そのような決意はいらぬ。伊藤家の惣領はご嫡男の景藤様。これはいかようにも揺るぎようのない事実じゃ。そして、ご嫡男に男子が産まれた。伊藤家の行く末は安泰なのじゃ。この爺の戯言一つで揺らぐようなことはありえん。心配ご無用じゃ。業篤殿は心置きなく曾孫を愛されればよい!」

 「ご家老様……この業篤、ご家老様に一生付いて行きまする!」


 ありがたいが、お互い爺じゃからな……業篤殿。


 しかし、いかようにしたものかの……。

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