Reminiscence /黄葉のころ
紫 李鳥
第1話
その老人は、海を見渡せるベンチに居た。足元には、薄汚れた白いラブラドール・レトリバー。
そこは、言葉を忘れた老人たちの吹き溜まりだった。読書をする者、新聞を広げる者、ただ海を眺める者。互いに間隔を置きながら、誰の干渉もせず、一日を過ごす。そこには、互いを労るかのようなゆったりとした時間が流れていた。
だが、老いた女のほうは対照的だ。一人の小柄な老婆がすたすたとやって来ると、犬を連れた老人の横に座った。毎度のことで慣れているのか、犬のほうも短い上目をやっただけだった。
「あー、どっこらしょっと。あ~、今日も気持ちいいやね。私ゃ、この季節が一番好きだね。イチョウの葉が色づいて、きれいなもんだ」
そう言いながら、老婆は黄色い葉を見上げた。
「……ああ」
「さて、手作りのサンドイッチでも食べよかね」
老婆はバスケットを開けながら、
「お前の分もあるよ」
と、顔を上げた犬を横目で見た。
「どっちがいい? ジャック。卵とハム」
「君に任せるよ」
ジャックと呼ばれた老人は面倒臭そうに、僅かに顔を動かした。
「ボブ。ほら、ハムサンドだよ。召し上がれ」
ボブと呼ばれた犬は、伏せをして、じっとしていたが、食い物の誘惑には勝てないらしく、老体に
ジャックは老婆から手渡された卵サンドを口に含むと、ゆっくりと噛んだ。
……この海沿いの小さな町にやって来て何年になるだろうか。……そうか、ボブを飼ってからだから、もう十五年近くになるか。この地に来たのは特に理由があったわけではない。老いと共に都会暮らしに疲れ、
ジャックは年金を受けながら、愛犬のボブと安いアパートに住んでいた。ミシッと音を立てる窓辺の椅子に腰を下ろすと、窓から覗くイチョウの葉と空を眺めながら、いつものように“追想”に時間を費やすのだった。――
「ジャック。必ず帰ってきてね」
ポニーテールのシェリーは、青い水玉のワンピースがよく似合っていた。
「ああ。必ず帰ってくるさ」
軍服の俺は、帽子を斜めに被り粋がっていた。
「帰ったら結婚してくれる?」
サファイア色の瞳で見つめた。
「……ああ」
「ね、約束よ」
熱い眼差しを向けた。
――だが、帰還した俺を迎える者は誰一人いなかった。俺が幼い頃に離婚し、女手一つで育ててくれた母はすでに他界しており、唯一期待したシェリーは、俺の知らない奴と結婚していた。自暴自棄のようにアルコールに浸った。
「何が凱旋だっ! 戦争の犠牲者が何人いると思うんだ。ションもボビーもディックも死んだ。俺の目の前でだ。生きて帰ったって迎えてくれる者もいない。……これじゃ死んだほうがマシだったぜ」
そんな俺の言葉に耳を貸す者はいない。酔っ払いの
足をふらつかせながら、家路を
「ハーイ」
突然、物陰から出てきた女に声をかけられた。
「ね、遊ばない?」
「……シェリーか?」
「じゃないけど、そのシェリーちゃんとやらになってあげるわ」
「よし。シェリー、遊ぼ」
女の肩を抱くと、安宿に入った。
翌朝、目を覚ますと、女の姿はなく、有り金は全部盗まれていた。衝撃などなかった。自業自得だ。シェリーの代りを求めた報いだ。
故郷を捨てると、さすらいの旅に出た。文字通り、無一文だ。ヒッチハイクで転々としながら、日雇いの仕事で稼ぐと、ニューヨークまでの切符を買った。――
マンハッタンでは仕事に不自由しなかった。ウェイターにコック、トラックの運転手にタクシードライバー。……アンと出会ったのは、丁度、イチョウが色づく今頃の時期だ。シェリーとは正反対の、知的で大人しいタイプだった。
「どちらまで?」
バックミラーを見た。
「近くてごめんなさい。五番街まで」
アンの装いは秋色に染まり、焦げ茶のジャケットからは、深緑の柄のスカーフが覗いていた。
……なかなかセンスがいい。
アンの掛けた眼鏡のレンズに、車窓の街並みが流れていた。
その紙袋に気づいたのは、しゃれた喫茶店の前でアンを下ろした後だった。袋の中を覗くと、一冊の文庫本と、有名ブランドの包装紙に包まれた小さな箱が入っていた。
急いで、アンが入った喫茶店に戻ると、窓際にアンの横顔があった。俺はホッとすると、喫茶店の前にタクシーを停めた。
「まぁ、わざわざありがとうございます」
俺が差し出した紙袋を見て、顔を綻ばせた。
「大切なものだったんです。あ、よかったらコーヒーをいかがですか? お礼をさせてください」
感謝の気持ちがこもった誘いだった。
それがきっかけで交際が始まった。高校の教師だと言うアンは、父親と二人暮らしだった。デートはアンの都合に合わせ、週に一、二度会っていた。豊富な
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