血の記憶

石海

血の記憶

 子供の頃から何度も同じ夢を見る。暗くて深い水の中をたった一人で泳ぐ夢。はるか遠く、水底に見える微かな光に向かって深く、深く、何か大切な事のために深く、深く、深く潜っていく。気が遠くなるほど深く潜り、ついに辿り着いたのはある神殿、私達の聖域。その大きな扉に手をかけ、力を込めて扉を引く。ゆっくりと開いていく扉の隙間から光が差し、視界を埋め尽くす。

そして今日も夜が明ける。

 午前五時。目が覚めたらまず冷たい水で顔を洗い、未だ夢から醒めきっていない意識を現実に引き戻す。水滴をぬぐって顔を上げれば鏡の中の自分と目が合った。他の人と比べると少し大きい瞳と白い肌、右の頬から顎にかけてうっすらと残る傷の跡。いつもと同じ私、滝見(たきみ)漣佳(れんか)の顔だ。

 リビングの机に用意された冷めきったトーストとコーヒーを食べて家を出る。朝練に遅れないように小走りで学校に向かう。学校に着いたらまっすぐに体育館横の更衣室へ。鍵を開けて中へ入り、水着に着替えて誰もいないプールに出る。準備運動を済ませたら声を掛けられるまで、或いはチャイムが鳴るまで。ただひたすらに泳ぐ。水に溶け込むように泳ぐ。泳いでいるうちに感覚が朧げになり、水の抵抗を感じなくなる。これが私にとってベストの状態だ、朝一でここまで入り込めることはほとんどない。今日は随分調子がよさそうだ。

「おーい、れんかぁ」

声を掛けられたので仕方なく泳ぐのをやめて立ち上がる。

「いいところだったのに…おはよう、結月」

「おはよ、今日も調子よさそうだね。タイム測っとく?」

水着姿の背の高い女子――結月がストップウォッチを指さす。

「別にいいよ、それよりさっさと練習始めなよ」

「この時間はまだ水冷たいのに、よく泳げるね」

「今日はそんなに冷たくないよ?」

「三回も同じ嘘吐かれたら流石にわかるよ…」

結月は渋々といった様子で水に足をつける。しばらく躊躇っていたがキャップとゴーグルを着けて泳ぎ始めた。そうして二人で部員が揃うまで泳ぎ続けた。


   ***

チャイムが放課後を告げると学校全体が騒がしくなる。結月と合流して部活を始める。朝練と違って人が多いので長くは泳げないが、人から見られるため程よい緊張感がある。不意に頭に痛みが走った。ほんの一瞬の刺すような痛み。徐々にその痛みは激しくなり、思わず頭を押さえる。

「漣佳…大丈夫?」

心配して声を掛けてくれる結月の声が頭を揺らす。結局他の部員や顧問に押し切られて私は部活を抜け、家に帰ることになった。家に帰ってからのことはほとんど覚えていない。ただ酷い頭痛と異常な喉の渇きで頭がいっぱいになってしまっていた。

 夜。ふと目が覚めると妙に体が重かった。不思議に思いつつも明日の準備をしようとしたとき、唐突に体が動かなくなった。私ではない誰かが私の身体を動かそうとしている。抗いきれず体が徐々に動き出す。荷物を置いて部屋を出る。「体が言うことを聞かない」階段をゆっくりと降りていく。「体を止められない」「喉が渇いた」手や頭が痛い。風呂場の前に立つ。「頭が痛い」扉に手を「喉が渇いた」掛ける。洗面台の「頭が」大きな「痛い」鏡が目に「渇いた」入る。その鏡に映っていたのは怪物だった。ギラギラとした小さな眼は頭の横に突き出し、髪の毛はほとんどなく、むき出しになった頭皮はのっぺりとした灰色をして、開いたままの口には三角形の歯が所狭しと並んでいる。

「い…いや」

手には水かきと鉤爪。ぎちぎちと悲鳴を上げるシャツの下には白っぽいザラついた皮膚。まだ半分人間のような脚。

鏡の中にいるのは鮫と人を合わせたような化け物だった。

「いやあああああ‼」

何も考えずに走った。足の向く方へひたすらに走った。そうして何も考えられないまま走って辿り着いたのは海だった。いやに明るい満月に照らされた海は綺麗だが底知れない恐怖を纏っていた。

 自然と身体が動き出した、思い出したのだ。ゆっくりと海に入っていく。行くべき場所があるのだ。沖に向かって歩いていく。すっかり全身が海水に浸かっても苦しくない。ゆっくりと泳ぎ始める。遥か遠く海の底に向かって深く、深く、自らの使命のために深く、深く、深く潜っていく。気が付けば目の前に扉があった。力を込めて扉を引く。ゆっくりと開いていく扉の隙間から澱みが溢れてくる。濁った黒い波が視界を埋め尽くす。

もう二度と夜明けは訪れないのだろう。

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血の記憶 石海 @NARU0040

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