Case.30 クッキーがしょっぱい場合
「……あゆみちゃん?」
ライブは全て終わった。次は吹奏楽部の演奏会のため、その準備が忙しなく行われていた。
文化祭の花形演目なので、お客さんが続々と体育館に入ってきて、我先にと席を前から埋めていく。
その群衆に紛れて来た初月が、座っている火炎寺に背後から声をかけた。
「フラれた」
「……うん」
「ちゃんとフラれた。まぁ傷付きはしたけど、嬉しかったなー。だって全く見向きもされなかったのに、面と向かってフラれたんだぜ。それに一緒にいて楽しかったって言ってたし! なんか勢いでしちゃったけど、告白して正解だったかも。アタシはスッキリしたし」
火炎寺は振り向かず、明るい調子のまま話す。
「──けど、アタシ諦めてないよ。告白成功するまでがアタシの失恋更生だから。今、決めた。失恋更生委員会としてアタシの失恋はアタシが励まさないとさ。友達に、頼ってばかりはいられないよ」
初月は何も言わずに横に座ると、何かを差し出した。
「これ、お店のクッキーです。市販のクッキーですけど。お持ち帰りできるんですよ。一緒に食べませんか?」
五枚入りの個包装されたクッキーを透明の袋でラッピングした100円分の金券で買える商品。
「ちょうど良かった。お腹空いたとこなんだよ。金券たくさんあったけど、雪浦にあげちゃってさ。ほら、弟妹が来るから。あいつかなり渋ってたけど、結構強引にあげたらうっかり全部渡しちまってさー」
火炎寺は一番オーソドックスなプレーンのクッキーを手に取り、個包装を開けた。
「……ん、まぁまぁ。そっか、これが普通のクッキーか。へー普通って、結構、しょっぱいんだな……」
震える手に手を重ね、初月は火炎寺の肩にもたれかかった。
幕が上がる。
吹奏楽部の素晴らしい演奏に観客は釘付けとなり、後ろで涙を流していることに気付く人は誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
今日は快晴。
さすがに昨日みたいに雨は降りそうにないな。絶好の文化祭日和だ。
二日目は外部からも客が訪れるので、この天気も相まって絶えず入場客は増え続けた。
午前9時に開始されてから一時間は校門での受付担当だった。果てのない客足に作り笑顔と振り絞る声で、対応し続けていた。
10時になると、俺は実行委員でも模擬店のシフトもなくフリーになった。
この時間帯に誰かと一緒に文化祭を回ることは約束していない。
いつも邪魔してくるような奴もいない。
お化け屋敷にも行ってみたが、人気アトラクションのせいでみんなと談話する余裕はなかった。かといって、手伝いするにも人手は十分に足りている。
だから何となく誰もいない校舎の四階に来てみた。
その際、廊下の端向かいに、男と一緒に火炎寺が階段を降りて行くところを見た。なんだ、どうやら恋愛の方は上手く行ってるじゃないか。
その後、一人教室の席に座ったタイミングでスマホに通知が来た。
その文面を見て、俺はすぐさま駆け出した。
『たすけて』
**
「おい大丈夫かよ⁉︎」
屋上に急ぎ来た俺は、救助要請を出した氷水の元に駆け寄る。
「な、七海……よかった、来てくれてありがとう……」
震える身体。体操座りで扉横の壁にもたれかかる氷水の姿は酷く弱っていた。
「どうしたんだよお前……」
「……私ね、今日まで重圧に耐え、多忙な日々に追われながらも文化祭を頑張ってきたの。なのに、何よこの仕打ち……!」
「何があったんだよ、おい……‼︎」
「……育児休暇で声優業休むって」
「…………誰が」
「政宗が」
氷水が見せた柴崎政宗のツッタカターには、【重要なお知らせ】と題して、文字が並ぶ画像が投稿されていた。
「育児休暇……まぁ、今の世の中、当たり前なんじゃねぇの。特に芸能界とかは率先して取らないといけないわけだし」
「ははっ、どうだか。どうせ、私たちから搾取したお金で遊びたいだけでしょ。育休してますアピールで好感度稼ぎしたいのよ。あの家には子供が二人になったわけだし、そう、政宗っていう子供がねぇ⁉︎ どうせ私の政宗を奪った女に全部やらせてるに違いないわっ! ははっ‼︎ 可哀想ね、そこだけ同情してあげるわよ!」
ショックからの精神崩壊で思想歪みすぎだろ。
顔がどえらいことになってんぞ。泡吹き出してきてるけど⁉︎
「ぐふっ、もう、ダメ……政宗がいない世の中なんて、私、もう無理。もう働きたくない……」
推しを勝手に殺すなよ。
ただ、このままだと会長不在の文化祭となってしまう。屋上まで聞こえる賑やかな声も氷水が頑張ったから存在する。彼女には元気になってもらいたい。
そうでないと、俺がここまでして頑張ってきた努力までも……‼︎
「で、俺を呼んだのには励まして欲しいからなんだろ。どうすればいいんだ?」
「ガバッ、ガッ、グァッ」
「おい末期じゃねぇか‼︎」
コミュニケーションが取れなくなったために、アドリブが求められる。好きな声で、こいつの求める言葉を……!
『──沙希ちゃん。ごめんね、急に僕がいなくなって』
「みゃ、みゃしゃむにぇ⁉︎」
『僕は君たちファンのことを愛している。けれども、家族も同じように愛しているんだ。妻と一緒に愛する子供を守りたい。だから、少しの間だけ待っていてくれないか?』
「ま、ましゃむねぇ……」
よし、少しずつ滑舌が戻ってきたな。
後はいつものように抱いて耳元で囁けば──
「じゃあ、じゃあ、私も赤ちゃんみたいにあやして?」
『……ん?』
「私もね、政宗の赤ちゃんになりたいの」
こいつマジで何言ってんの? さすがに理解が追いつかないけど。
氷水はあぐらで座っている俺の膝と膝の間、つまり股間に頭の頂点を合わせるようにして寝転がってきた。
俺の右手を取り、そして人差し指と中指でチュパチュパと吸い出した。
「んふ、んふふ……!」
虚無。
嬉しいとか、気持ちわりぃとか、恥ずかしいとか、悲しいとか、そういった感情は一切持ち合わせることもなく、ただただ何も考えず、動かずに、息だけした。
──人生で一番長かった十分後。
正気を取り戻した氷水は隅で
「おぇぇえぇ‼︎」
赤ちゃんプレイ以外にもいつものように胸を押さえつけるように抱きついてきたりしてきたけども、なんか……うん。
お互い何かを失った。
「こ、このこと……絶対誰にも言わないでよ……」
「言えるか‼︎」
俺も辛かったわあの時間‼︎
元気は取り戻してはなさそうだけど、仕事が復帰できるくらいには氷水は動けるようになっていた。
「はぁ、アホらし。帰るぞ」
「分かってるわよ。そういえば七海、最近、日向さんと一緒にいないわね。どうしたの?」
「別にいつも一緒ってわけじゃねぇんだ。なんだっていいだろ」
「そう。まぁ、七海が悪いのね」
「おぉい、何でだ!」
「なんとなく。七海が知ったかぶりだって、私は知ったかぶりしてるから」
「何でそう思うんだよ」
「だって私たちは幼馴染でしょ──ウッ⁉︎」
「おい、吐くなよ」
氷水がこれ以上言おうものなら間違いなく何かが出てくる。
彼女は何とかして現実に戻ろうと、屋上の扉に手をかける。
「とにかくさっさと戻るわよ……何ボサッとしてんの」
それは俺のセリフだろ。……こいつ、数分前まであんなことあったのに何で堂々とできるんだ。
色々と納得できないが、俺は氷水に続いて屋上を出ようと──
「あら、沙希ちゃん。それに、周一くんも。どうしたの? 屋上に二人きりでなんて」
………………沙希母⁉︎
出てすぐにエンカウント。しかも最悪なタイミングと場所で見つかった。
「お、お母さん……⁉︎」
「あら沙希ちゃん。とても汗だくだわ。どうしたの? 何があったか詳しく聞かせて? ほら、周一くんも」
糸目の沙希母が開眼して俺を見ている。
誰もいないはずの屋上に息切らした男女が二人。誰がどう見ても逢引きしてたようにしか見えない。
文化祭だし、そういったこともどこかであるのかもしれないが、今のメンツがもうダメだ。
娘を溺愛している沙希母から俺は何を任されていたんだっけ。あぁ、そうだ。悪い男が付かないように見張っていろと。
もし俺が手を出したら、命消えるとかでしたっけ。
氷水が必死に何もなかったように弁明するが、変わらず見開いた目で俺を見ている。
……え、やだ。死にたくない。
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