第五話・スペシャリスト(C)
フォールが部屋の奥に置かれた白い像に近づいていく。
そのオブジェは美しく、白い石膏が光を湛えている女神像だった。
女神像ではあるが、像である部分は手足しかない。全身はあるのだが、しかし、像である部分は手足だけなのだ。
女神像は手足だけが石膏で、体の部分は人間だった。
フォールは像の中心部にいる人間に話しかけたが返事はない。力のないまま、まるで反応がないのだ。
像に塗りかためられていたのは、まだ幼さを残す少女だった。
短く、茶色がかった髪は美しく飾り立てられており、頭からヴェールをかけられている。
体には白いドレスのようなものを着ており、その薄い生地の下からは乳房がういていた。
「片桐さん……」
フォールは石膏の腕に手をかけ、そして、気づいた。
彼女がなにをされたのか。彼女がどんな状態なのか。
ひきそうになった血の気も、はやまろうとした鼓動もすぐに収まり、フォールは冷静にオブジェに触れる。
体に起きない苦しみを思い起こすかのように、フォールの体は、筋肉が悲鳴をあげそうなほどに力んでいた。
石膏でできた腕を握りつぶし、反対の腕をもぐ。
石膏の下に、チホの腕はなかった。
足も同じだった。
女神像から開放されたチホには、手足がなかったのである。
フォールはチホを床に寝かせると、力なく膝をついた。
「この城、大きいだろう? この大きさは肥大化した区長のエゴそのものだ」
その声を聞いて、フォールの仮面の下から、ミシリという音がした。
耳に聞こえるほどにフォールの全身が鳴っている。
「……どうしてこんなことを?」
吐息に混じったフォールの声を、澤本は聞き落とさなかった。
「接待のためだ。王都には変人が多くてなぁ、今そういうのがウケがいいんだよ。綺麗だったろ?」
悪びれる様子はまったくなく、黒い仮面を小脇に抱えたまま、澤本がフォールを見ていた。
澤本と、振り返るフォールの目が合った次の瞬間、フォールの肘が澤本の顔に飛んでいた。
「あれ? 怒ってんの? なんで?」
澤本はそれを受け止めていた。澤本の腕に宿る力は、やはりフォールと同等か、それ以上だ。
「怒ったフリなんてよせよ。なにも感じてないだろ」
フォールが打った腕とは反対の手を澤本の顔に伸ばす。盾を着けた左腕だ。視界を遮る目的と、囮にする目的だ。
澤本の手が、フォールの伸ばされた腕に伸びる。その隙に、フォールは『摘み』に手をかけた。
澤本はフォールの腕を掴むと、その腕に力をこめて、自分の体を後ろに突き飛ばした。踏ん張らないことで自分の体の位置をコントロールしているのだ。
「フォール、俺を殺したいか? まだ殺したりないか? 俺の仲間を何人殺した?」
摘みを回そうとした手が止まる。
「あいつらにも家族がいるやつがいたぞ」
澤本の言葉に動揺したのではない。扉の向こうに気配を感じたからだ。
「ハッ、聞いちゃいないか……いいさ、紹介してやる。こちらが区長の阿納満辰だ。俺達、影の七星のボスだよ」
扉から入ってきたその男は、まるで生気を感じさせなかった。
肌は生白く、髪はなく、目は白濁しきっていた。
おぞましいのは、阿納からは知性をまるきり感じなかったことだ。
何も着ておらず、弛んだ体を揺らして、ガタガタと震えながら歩いているだけだ。
それだけでもおかしいのだが、もっと特徴的な部分があった。
体を這うように張り巡らされた菌糸のような組織。それが脈動しているのだ。何を通しているのかはわからないが、ただの血液ということはないだろう。
そしてその体躯である。おそろしく大きいのだ。2メートルをゆうに超える身長、その高さに見合った体型。ただの巨漢ですむものではない。
「う、あー……」
黄色に染まりきった歯をむき出しにして、阿納が鳴いた。
「よーしよし、いい子にしてたか」
澤本が体を撫でてやると、阿納は再び鳴いた。
「これは」
フォールには心当たりがあった。
チホとヨモギを襲った男達。そのリーダー格。外見が違えど、その様子に共通点があった。
「これが欲しいんだな? いいだろう。くれてやるから、そしたらあそこにいるドブネズミをミンチにしろ」
フォールの予想を裏付けるかのように、澤本が注射器を取り出した。
注射器を阿納の腕に突き立て、中に満たされた紫色の液体を注入する。肘窩の正中あたりに刺入された針を中心にして、体の菌糸が強く反応した。
「これはな、ヨウケツさせたドウケツのゼンケツだ。俺のな」
フォールが澤本の言葉の意味を考える間もなく、澤本が踵を返した。
「待て!」
駆け出すフォールの前に阿納が立ち塞がる。
正確には、阿納満辰だったなにか、だ。
「なあ、フォール。片桐が目を覚ましたらよろしく言っといてくれよな」
「よくもぬけぬけと! おまえを信じていたんだぞ!」
「そうだとも。あー、おまえにも見せてやりたかったぜ、あの馬鹿面! なんつーか、白馬の王子様でも見るような目だったぜ! もう笑える笑える!」
心底嬉しそうな声をあげる澤本。その背中にフォールは吠えた。
そして、フォールの声を掻き消すように、阿納の金切り声が城を包んだのだった。
***
広いとは言えない部屋で、フォールはこの世のものとは思えない怪物に襲われていた。
筋力は人間のそれとまるで違う。感覚も異様に鋭く、フォールの動きにことごとく追いつく。頑丈な体には刃物も通らない。
どこをどうしてこうなったのか。これは本当に人間なのか。
だが、フォールはうすうす気づいていた。このように人間の性質を変えて強くするものがあることを知っていた。
感応剤。
フォール自身が使用しているある薬剤と同じものだ。
問題は、それをどこで手に入れたのか。
〝ヨウケツさせたドウケツのゼンケツ〟
澤本の言葉を思い出す。
わずかに、なにかが違う感応剤を、澤本は持っている。
信じがたい存在を前にしてなお、フォールは冷静だった。
これから話を聞きだすことは不可能だ。そして、まずはこれを仕留めなければ。
なによりチホの容態が心配だった。
だが、フォールの頭の中には、あまり希望的な絵は浮かばない。
チホが目を覚ましたとき、その現実になだれこむ絶望の量を思えば当然だった。
しかし、諦めるわけにはいかない。ここで負けるわけにもいかない。
腹部に車でも衝突したかのような衝撃を受け、宙を舞いながらフォールはそう考えていた。
阿納の腰の入った拳は、人間一人を壁に叩きつけ、その壁に小さなひびを入れるほどのものだった。
阿納は見た目よりよっぽど完成されていた。なにをもって完成と呼べばいいのかはわからないが、フォールからはそう見えた。
すなわち、戦闘者としての完成形。特に、レンジゼロにおいてのそれだ。
これについて、フォールはいたく感心させられていた。フォールもまた、同じ土俵にいる者だったからだ。
〝
フォールはそのように教えられていた。
このバケモノはそれを行っているように見えた。
痛みをともなわない妙な違和感だけを腹部に残し、フォールは駆ける。
まったく離れずに阿納はフォールを追う。
当身で駄目なら逆技を狙う。その当然がいかに難しいことか。そして、それを軽くこなしてくる者に対するはさらに困難である。
フォールは困難な当然を実際に行った。
阿納の腕をとり、肘に盾を鋭く当てると、相手の威力と共に、思い切り引き伸ばした。
折れなかった。
速さ以上の
阿納はやはり完成形かもしれない。
そもそも、阿納からすれば小さな対象であるフォールの腹部を、こうも的確に狙える時点で、その技量はただごとではない。
フォールの
便失禁である。
嘔吐もすれば失禁もする。強者も弱者も関係ない。たとえば、男であれば、ときには射精することさえあるのだ。戦いとはそういうものだ。
重要なのはそういう体裁ではない。このままでは勝ちようがないということだ。
このような状況になっても、フォールは銃を抜こうとはしなかった。
それは危険な判断である。なんの
それを証拠に、痛みを誤魔化しているはずのフォールの肉体は、その統制を失いつつあった。
おもむろに阿納が腕を振り上げ、あまりに強い一撃をフォールに落とした。フォールは
〝盾はただの遮蔽物ではない〟
つい先ほど誰かに指摘したことがそのまま返ってきたかのようだった。
首が縮み、曲がって、フォールは地に伏した。
死だ。
死が近づいた。
「はっ……」
逃れることのできないそれを前にして、フォールは少しだけ笑った。
乾いた笑いだった。
自嘲のような笑いだった。
どこか安心しているようでもあった。
ゴーグル越し、ぼやける視界の先にチホがいた。
フォールは声を出そうとしたが、実際に出たのは、もごもごとしたうめき声だけだった。
それが聞こえたのかはわからないが、視界の先でチホが目を覚ましたのがわかった。
チホと目が合う。
フォールはいたたまれない気持ちになっていた。
なにもできなかった。
なにもできないまま、ここで踏み潰されるか、叩き潰されるかして死ぬのだ。
澤本の命令に従って、阿納は文字通りフォールをミンチにするだろう。
チホの目の前で。
それが心残りだった。
優しげなチホの瞳。一目見て状況を理解しているようだった。
優しげなチホの唇。何かを呟いていた。
どうしようもない。
優しさという弱さを覆せなかったのだ。優しさが、痛い。
フォールは、少しずつ感じはじめた痛みを和らげるために目を瞑ろうとしたが、チホが伝えようとしている言葉に気がついて、その瞼をカッと開いた。
た、す、け、て……
チホはそう言っていた。
体に力が戻った。強烈な力だった。
た、す、け、て!
迫り来る足を避け、フォールは立った。
背中に、チホの視線が刺さる。
たすけて!
助けて!
その思いがフォールを突き動かす。
迷いなく『摘み』を回した。ブーストレベル2である。
感応剤が体に流れ込む。
肉体をイメージ通りに動かすための媒体、それが感応剤。腰部バイオブースターによって肝臓へと注入される薬剤である。それが、体に埋め込まれたアクセスラインを通して全身に行き渡る。
その度合いがブーストレベル。
1はコントロール可能な領域での強化とその補助。2は閾値を一定の範囲にまで広げ、制御を一部手放すことで、さらなる強化を施す。
チホとヨモギを助けたときに見せたのがレベル2だった。当然、相応の負担をもたらすため、多用はできない。
だが、フォールがレベル2の使用を何度か
ダウンレギュレーション。一定以上持続した刺激によって受容体が隠れてしまうことだが、フォールにそれが起こっていた。
厳密に言えば、感応剤が作用するアクセスラインの劣化が激しかったのだ。
感応剤は毒性が強い。効果が薄いのなら使うべきではない。
しかし、レベル2は機能した。偶然なのか。精神力がなしたことなのか。
仮面の額、青い輝きが強くなって、フォールは感応剤の効果を十分に引き出していた。
これなら、五分とは言えなくとも、限りなくそれに近づけるはずだ。
勢いを込めてフォールが腰を落とした。頭はいっそうクリアになっていた。
人々を嘘の仮面で騙しながら、裏で『影の七星』を使ってこの町を食い物にしていた者。チホの姉も、チホ本人も食い物にした者。その結果、バケモノされてしまった者。
同情の余地など微塵もなかった。
「……おまえの番だぞ!」
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