第六話・陰る宿命(A)
フォールが跳ぶ。目にも留まらない速さだった。
盾を構えた体当たりが決まる。盾の前にはナイフが添えられていた。
阿納の体に傷がついた。小さな傷だった。しかし、それがいかに大きいことだろう。
怪物を相手に戦えているのだ。
チホはその光景を見て涙を流していた。
フォールは
何度も目を狙う。何度も距離をとる。何度も傷を狙う。
決め手に欠けていた。だが、しかし、必ずしも決め手というものは必要ではないのだ。
それを証明するかのように、阿納の動きが鈍くなっていった。
「意識はあるんだろう? 外道」
フォールの指摘は当たっていた。
「おのれ……『フォール』風情がぁ」
阿納の意識は非常に凶暴になっていたものの、自我はあったのだ。
「『カンパニー』が見ているんだ、『カンパニー』が……権力になるんだ……真の権力に……」
だが、しかし、言葉は通じなかった。阿納の頭にあるのは、もはや自分のことだけである。
それがわかっただけで十分だった。
フォールは阿納の顔に手をかけた。緩慢になった阿納では、レベル2の力でつかみかかるフォールの腕を払うこともできない。
フォールは阿納の口を無理やりに開く。汚物がこびりつくその中に、フォールはナイフを突き入れた。
深く、深く、首の裏に達するまで、ゆっくりと、刃を食い込ませた。
命を奪うのに、決め手は必ずしも必要ではないのだ。
ブースターを停止させたフォールがチホの前にひざまずく。
ナイフを傍らに置いたその姿は、まるでチホに傅いているかのようである。
「遅くなって、すまない」
「あなたは誰なの?」
チホは肯定も否定もせず、ただ静かに聞いた。
「教えて」
「オレは、誰でもないんだ。知るべきじゃない」
フォールの声は加工されたままだったが、視線はチホに合わせたままだった。
「それでもいいの」
チホの声は震えていた。
「おねがい」
チホの目に浮かんだ涙をフォールは優しく
そして、自らの仮面に手をやると、ゆっくりとその仮面を外した。
仮面から、血と薬剤の混ざり合ったものが、折れた歯を運んで流れ落ちた。
その顔を見て、チホはにっこりと笑った。
「あたし、バカだった」
再び流れ落ちる涙を見て、仮面をはずした顔が少し歪んだ。
時間は、
チホは、おそらく、驚愕以上に落胆したのだ。フォールの正体に対して、チホはまだ一抹の希望を抱いていたのだろう。
それが、崩れた。
「本当に、バカだった」
「そんなことは……」
「もう一つおねがいがあるんです」
チホの声はひどく辛そうだった。フォールの表情も暗い。彼女の願いがわかっているからだ。
「あたしを、助けてください」
チホの最後の願いだ。
チホの願いは、口からこぼれた言葉通りの意味ではない。そうであるわけがない。いっそ、その言葉の通りであればどれほどよかったことだろう。
なにも知らないフリをして、言葉を額面どおりに受け止めてもよかった。
聞こえないフリをして、わからないフリをして、ただ連れ出してもよかった。
しかし、フォールにはそれができなかった。
正しいも間違いもない。それをしてやらねばならないことをフォールは知っていた。
チホはまだ生きることができただろう。その先があれば、幸せを感じる時間もあっただろう。だから、フォールがこれから行うことを救済と呼ぶことは決して許されない。
フォールは腰から銃をぬく。リボルバー式の大きな拳銃だった。五発の銃弾のうち、四発がすでに使われた後だ。予備の弾はないらしかった。
それを見て、チホは心底
「なにか、望みはないのか?」
ダメージのせいもあるだろうが、フォールの肉声は弱々しく、仮面を着けているときとは別人のようである。
「ヨモギに、ごめんって……みんなに、ごめんって……」
「わかった。引き受けた。でも、君は悪くない。なにも悪くないんだ」
その言葉を聞いたあと、チホは目を
立ったフォールが銃を構える。狙いはチホだ。
「おやすみ、片桐さん」
「おやすみなさい……ありがとう……」
撃鉄の落ちる音と、火薬の破裂する音。そして、肉のはじける音。その後に
静寂という音。空気が響く音。
風によって起こる音に混じって、どこかからぐずるような声が微かに聞こえていた。
その音さえ消えて、辺りを真の静寂が支配したころ、バケモノの死体の傍らに一冊の本があった。
本の名前は『次代への舵』。
著者である阿納満辰の名前は黒く塗りつぶされており、その横には、『片桐ヒトミ』という名前が書き足されていた。
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