想い出の約束

春成 源貴

第1話

 ようやく暑さも落ち着いた秋の午後、中間テストの最後の教科を無事に終えた私は、気分良く自転車を漕いでいた。

 住宅地を颯爽と流れる風が気持ちよく、開放感もあって最高の気分だった。朝までの憂鬱な気分が嘘のようで、ヤマが当たった事に感謝した私は、その勢いのまま、自転車を飛ばす。

 と、家の側の最後の曲がり角を左折したところで、小さな我が家の前に、男の人が立ち止まっているのが目に留まった。

 スーツ姿に黒い鞄を提げた男の人は、反対の手に持った小さな紙と辺りを見比べながら何かを探している様子だった。

「あのう、ちょっと道をお尋ねしたいんですけど」

 お父さんより少しだけ年上だろうけれど、随分と丁寧な人だった。

 私は自転車を降りて、小さな門扉の側のいつもの場所に自転車を停めた。

「おじさん、ナンパとかじゃないですよね?」

「いやいや、怪しい者じゃ……」

 おじさんは、慌てたように手を振った。「冗談ですよ。何処ですか?」

 私が聞くと、おじさんは少しだけ安心したように息をついてから、さっきの紙を見せてくれた。

 目的の住所と丁目が違うだけのご近所だったので、私はすぐにおじさんに伝える。

 何個目の角を曲がって、真っ直ぐ行って……と、伝えてみると意外と難しいことに気が付く。けれども、おじさんはふんふんと何回か頷いてから、お礼の言葉と共に頭を下げて、そのまま歩いて行ってしまった。

 私は小さな達成感と、先程からの幸せな気分を胸に抱いて玄関へ入る。

「お帰りなさい。元気だった?」

 見慣れない靴を足もとに見つけるのと同時に、奥の仏間から声が聞こえた。

「おばあちゃん?来てたんだ?」

 私は自分の靴を下駄箱に放り込むと、制服のまま廊下へ駆け上がって仏間の襖を開いた。

 普段は仏壇と遺影があるだけの和室に、着物を着付けたおばあちゃんが、ちょこんと座っていた。

「お邪魔してるよ」

「いやだ、自分の家じゃない」

 私は学校指定の黒鞄を部屋の隅に降ろすと、おばあちゃんの前に座った。

 おばあちゃんは三年ばかり前から、同じ町内にあるケアハウスとかいうところに住んでいる。体も心もまだまだ健康なのだけれど、みんなに迷惑をかける前にと、家族の反対を押し切って、看護師さんや介護士さんが近くに常駐しているマンションのような施設に入居した。そして、時々、こうやって帰って来てくれるのだ。

「お母さんは買い物に出かけてるよ。あっちゃんは今日は早かったんだね」

 明日香という私の名前を、おばあちゃんはいつもそうやって呼ぶ。

「テストだったんだよ。おばあちゃんこそ、今日はどうしたの?」

「ふふふ、それがね……」

 おばあちゃんは、はにかんでから言葉を続けた。

「仏壇にお参りにね」

 私は少し考えてから聞いた。

「誰かの命日だっけ?」

「ううん、でもね、今日は記念日なの」

「記念日?」

 なんだかおばあちゃんの顔が少し赤い気がするなと思っていると、恥ずかしそうに俯いてから言った。

「……金婚式なのよ」

「金婚って……ダイヤモンドがどうとか、結婚して何年ですよっていう?」

「そう、五十年よ。あっちゃんはよく知ってるわね」

 いや、今のはどうだろう?孫バカな気もする……と思ったが、おばあちゃんは気にする風もなく、仏壇の上に並ぶ遺影に目を向けながら続けた。

「おじいちゃんに会いたくなってね。来ちゃったの」

 気が付いてみれば、蝋燭に点いた火がゆらゆらと揺れ、二つに折られたお線香がすでに灰となって転がっていた。

 結構な時間をここで過ごしていたようだ。

 おじいちゃんは、私が生まれるよりも随分前、お父さんがまだ子供の頃に亡くなったと聞いている。

「そうよ。四十年前にね。出張先で商談の後に車にはねられてしまって……」

 おばあちゃんは遺影を見つめたまま言った。それから、視線を落とすと、ゆっくりと手を合わせて、仏壇を拝んだ。私も慌てて横で正座に改めてから、合掌をする。

 おじいちゃん、会ったことないけどお元気ですか?亡くなった人にそんなすっとぼけたことを訊ねながら拝んでいると、ふと、おばあちゃんの手が視界に入った。

 シワと血管だらけになってしまったおばあちゃんの手。女手一つで三人の子供を育て上げたその手は、とても小さかったが、なんだかとても優しい感じがした。

 私の頭を何度も優しく撫でてくれたからかも知れない。

 おばあちゃんは顔を上げる。私はなんだか恥ずかしくなって、取り繕うように言葉を紡ぐ。

「素敵な指輪だね。結婚指輪でしょ、それ?」

「ああ、これ?」

 おばあちゃんは、芸能人が記者会見でするみたいに左手の甲をこちらに見せると、薬指に嵌まっている指輪をこちらに向けてくれた。

「ダイヤモンド?」

「残念。イミテーションよ」

 薬指の銀色の細いリングには、白く控えめに輝く小さな石のような物が嵌まっているように見える。

「私たちが結婚した頃っていうのは高度経済成長期って言ってね、日本が豊かになっていく途中だったの」

「うん、学校で習った……気がする」

「でも、みんなが豊かってわけじゃなくて……おじいちゃんは家具職人のお弟子さんだったんだけれど、結婚して、あなたのお父さんたちが生まれた頃に独立したの」

 障子越しの、秋の柔らかく暖かな陽だまりが、部屋の真ん中の畳の上を照らしていた。

 私はおばあちゃんと陽だまりを挟んで向かい合った。

 おばあちゃんは畳から跳ね返る光に、少し眩しそうに目を細めてから口を開いた。

「まだ若かったし、貧しくてね。生活できないわけじゃないんだけれど、贅沢は出来なかったわね」

 そう言って、改めて指輪の嵌まった指を私に向けた。

「辛かった?」

 私は思わず聞いてみたけれど、おばあちゃんは首を横に大きく振ると続けた。

「楽しかったわよ。貧乏でも」

「……おじいちゃんのこと、好きだった?」

「そうね……」

 おばあちゃんは、どこか遠くを見るようにして、少しの間だけ黙り込んだ。私はなんだか、いけないことを聞いているような、妙な気分になってしまった。

 少しだけ間があってから、おばあちゃんは言った。

「そりゃあ、好きだったわよ。でもおじいちゃんはどうだったのかしら。疑ってはないけれど、なにも言ってくれない人だったから」

 おばあちゃんはいたずらっぽく笑う。「元々、私が住み込みで働いていたお屋敷があって、そこへ家具の修理に来たのがおじいちゃんだったの。まだ、修行中の時ね。箪笥やら備え付けの大きな棚やらの修理だったから、何日か通って仕事をして。私はお手伝いさんをしてたから、出入りの職人さんにお食事を用意したり、簡単なお世話をしてて、そこで知り合ったんだけれど」

 おばあちゃんは、薬指に嵌めた指輪を弄りながら教えてくれた。

「おじいちゃんはとっても照れ屋さんだったから、まったくそんな素振りはなかったんだけれども、私が何か困っていると、いつの間にか近くにいて助けてくれたりして。ある時、一緒に働いていた職人仲間の方が教えてくれたの。おじいちゃんが貴女のことをとても気にしてるらしいよって」

「ふうん、それでそれで?」

「きっと見るに見兼ねたのね。で、その方はおじいちゃんに随分と発破をかけたみたい。お仕事の最後の日だったかしら。お祭りに誘われて、初めて一緒に出かけたの」

「わっ、デートじゃん」

「ふふふ、その初めてのお出かけの時に買ってくれたのがこの指輪なのよ」

 おばあちゃんは少しだけうっとりとした様子で、自分の細く長い指を眺めた。

 きっと、おばあちゃんの目には、若いときの、美しかった白いほっそりとした指が映っているんだろう。ひょっとしたらその向こうに、おじいちゃんの顔が見えているのかも知れない。

 そうだとすれば、とても素敵な瞬間だと思う。

 おばあちゃんはにこりと笑うと手を下ろした。

「それでお付き合いが始まって、しばらくしてから結婚したの」

「へえ……あれ?じゃあ結婚指輪は買わなかったの?」

 おばあちゃんは軽く肩を竦めてから言った。

「さっきも言ったとおり、修行が明けてすぐくらいのタイミングだったから、余裕がなかったのね。結婚してすぐにお前の伯父さんが生まれたりもしたから。でも、忙しくて余裕はなくても、一生懸命、がむしゃらに生きて、本当に楽しかったわ……当時は違うところに住んでたのよ。近所だけど小さな借家にね」

 私は話を聞きながら、ふと気になって聞いてみた。

「おじいちゃんのプロポーズって?」

「ふふっ、唯々『結婚しましょう』って」

 なるほど、随分と直球だったんだ。

 私の中で、会ったこともない、写真でしか知らないおじいちゃんが少しずつと形を作られていく。

 無骨な感じだったのだろうか。お父さんや伯父さんに似た姿が、ぶっきらぼうにプロポーズする姿を想像してみると、さっきのおばあちゃんじゃないけれど、クスリと笑ってしまいそうになる。

「思い出したわ。そのときに、必ず仕事で一人前になったら、きちんとした結婚指へ輪を渡すから、少しの間だけ我慢してくれって言われたの」

 なるほど、おじいちゃんも気にはしていたのか。でも、約束を守ることが出来なかったんだ。

 そんなことを考えていると、おばあちゃんは再び遺影の方に目を向けた。

 心なしか優しい眼差しでおじいちゃんを見つめている。

「おじいちゃんっていつ亡くなったんだっけ?」

 私が訊ねると、おばあちゃんはゆっくり私に顔を向けた。

「叔母さんが生まれてすぐね。前の年に職人として独立して、お仕事をいただくために全国を飛び回ってた頃」

「……さっき出張先でって」

「そう。なんでも大きなお仕事のお話をまとめるために、一ヶ月くらいの予定で出かけてて。三日目くらいに『驚かせてやるから、楽しみにしてなさい』ってお電話があったわ。でも、それがお話しした最後だった」

 おばあちゃんは、少しだけ肩を落としたようにも見えたけれど、いつもと変わらない様子で言った。

「悲しくない?」

「今はもうね。当時は本当に落ち込んだけれど」

「おじいちゃんも残念だったね。これからって時に」

「そうね。随分嬉しそうに電話でお話ししてたから、商談も上手くいってたんでしょうし」

 おじいちゃんは、最後になにを思っていたのだろう。

 想像しか出来ないし、その想像もきっと的を得てるとは言えないだろうけど気になってしまう。

 それに、おじいちゃんを理解しているおばあちゃんはすごいと思うし、尊敬をする。

 表現の不器用なおじいちゃんも、おばあちゃんがいたことで幸せだったんだろうと思う。

「そうね。あっちゃんもそんな相手を見つけなさいね」

 おばあちゃんはにこやかにそう言った。

 と、ちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。

 家中に響くベルに、私は立ち上がると小走りに玄関を開けた。

「どちらさまですか?」

「こんにちは……」

「あれ?」

 玄関先に立っていたのは、さっき、帰ってきたときに出会ったおじさんだった。

 黒い鞄を提げたまま、しきりに額の汗を拭っている。

「先程はすみません」

「いえ、住所、たどり着けました?」

「ええ。おかげさまで。ところでこちらに……白石刀自子とじこさまはお住まいで?」

 私は一瞬考え込んだが、すぐにおばあちゃんの名前だと思い当たる。

 訝しそうに見えたのだろうか、慌てておじさんが首を振った。

「怪しい者じゃないんです。私は平川と申します。父が店をやっておったんですが……その事でお話ししたいことがありまして……」

「あっちゃん、どちらさま?」

 振り返ると、杖をつきながらおばあちゃんが廊下を歩いてきたところだった。

 すると、おじさんがひょいと首を伸ばし、一瞬だけ顔を明るくして声を挙げた。

「白石さんですか?よかった……私は平川と申しますが、少しお話があって……秀治さまのことで……」

 おばあちゃんの表情が怪訝になった。

 私もどこかで聞いたことがある名前だけど……

「あ、おじいちゃんのこと?」

 おばあちゃんに聞くと、私に頷いてから杖を下駄箱に立てかけて、玄関の上がり口に座った。

「ひとまず伺いましょう」

 私もつられて腰掛ける。

 おじさんも腰を下ろすと、黒い鞄からなにやら紙の包みを取り出した。

「急にお邪魔してすみません。今日はお詫びをしなければならないことがありまして……先程、父親が商売をしていたと申しましたが、先日他界しましてお店を閉めました。場所は……」

 おじさんはおばあちゃんに名刺を渡した。横から覗くと、そこには北の方の県の住所とお店の名前が書かれていた。

「父は生前、秀治さまからご注文を受けておりました。ところが、お支払いはいただいたものの、こちらのミスで、ご連絡先やお名前を書いた書き付けを紛失してしまい、商品のお渡しが出来なかったということがございました。なんでも、旅先での初めてのご来店だったそうです」

「そんなことが……」

「父は生前、何かにつけては私にその話を聞かせました。本人は相当気にしていまして、今際いまわきわにまで私を呼びつけて、そのことを懺悔されました」

「まぁ……そのお気持ちだけでも十分かと」

「ですが、秀治さまに……」

「実は主人はもう何十年も前に亡くなっております。当人ももう、気にはしていないでしょう」

 おばあちゃんはゆっくりと、怒る風もなく、むしろ優しく言った。

「それは……故人になってらしたとは……」

 おじさんは愕然としたようだった。

「……想像してなかったわけではないのですが……」

「ねえ、住所もなにも分からないのに、よくここが分かったね?」

 私はふと気が付いて言った。

「ええ、父が亡くなり、店を閉めるために片付けをしておりましたら、ふとしたきっかけでメモが見つかりました。正確には注文書なんですが、それでお品をお届けに上がった次第でして」

 おじさんはそう言うと、包みにくっつけてあった、色褪せた薄い紙を剥がして差し出した。

 おばあちゃんに促されて、私が受け取る。

 開いてみると、そこに書いてあったのは四十年前の日付だった。

 紙を見つめるおばあちゃんが、息を飲んだのが分かった。

「これ、亡くなった日の前日だわ。電話でお話しした日」

 おばあちゃんはぽつりと言った。

 それから差し出された包みを受け取ると、そっと手元に置いて、少し躊躇った後に広げる。

 中から出てきたのは小さな小箱と紙が一枚。

「おじいちゃんの字よ」

 言われて私も覗き込む。

『いつもありがとう。約束通り、真心を込めて』

 無骨な字で、そう書かれていた。

 おばあちゃんが、震え始めた手でゆっくりとフタを開けると、中に入っていたのは、小さいながら上品な輝きの指輪だった。

「秀治さまが奥様のために購入された指輪です。遅くなってしまい誠に申し訳ありませんでした」

 頭を下げたおじさんの言葉が届いたのかどうか、おばあちゃんは静かに目を閉じた。

 一筋の涙が滑り落ちる。

「ありがとう……秀治さん……」

 おばあちゃんはそう言うと、震えの収まった手で指輪を握りしめた。

 私はなんだかとても胸が熱くなって、おばあちゃんをそっと抱き締める。

 視線をあげると、遺影のおじいちゃんがそっとはにかんだようだった。

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想い出の約束 春成 源貴 @Yotarou2019

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