△▼△▼己を知れ △▼△▼

異端者

『己を知れ』本文

 外では雨が降っていた。しとしとと降る雨が居間のガラス窓を濡らしていた。

 居間では彼が一人ソファに座っている。

 自分は、やはり出来損ないではないか――彼の胸中には、そんな不安がいつもあった。

 兄二人は、天才と言わないまでも秀才だった。スポーツでも学業でも優秀な成績を収め、学校や教師たちからも優遇されていた。社会に出てからも、そこらの人間では容易に就職できないような大企業に入って、その中でも同世代の出世頭と言われていることは良く知っていた。

 それに比べ彼は……努力してやっと人並み、それ以下と言われることも少なくなかった。幼い頃から「お兄さん二人はあんなに優秀なのに」と比較されることも少なくなかった。

 思えば、父から一番叱責を受けたのも彼だった。父は自分のことを気にかけてそうしてくれているのだ――そう彼は思い込もうとしたが、駄目だった。植え付けられた劣等感が自分は愛されていない、不要な存在ではないかという疑念を抱かせた。

「だから、この家は私が――」

「いや、俺が――」

 父の書斎からは、兄二人の声が聞こえてきた。


 そうだ。そんな父はもう居ない。


 父が末期癌の診断を受けたのは、ほんの半年ほど前だった。

 父は町の小さな喫茶店という自営業で、それまで健康体で病気などしたことが無かったから、健康診断などここ数年受けたことがなかったのだ。

 それからは大変だった。父は「終活」に専念し、残された者に対して事細かな遺書を残そうとした。それでも、遺産相続というのは揉めるものらしく、父の書斎では兄二人の言い争う声が聞こえてくる。


 母が居れば、まだもう少し違ったのだろうか?


 その母は、父よりずっと前に他界していた。

 母ならきっと、父の死を悼むより遺産について言い争う二人を諫めたことだろう。

 彼はキッチンに行くと、冷蔵庫からペットボトルのジュースを取り出して飲んだ。

 本来このジュースを飲むのは父だったはずだ。父はコーヒーだけでなく他の飲料の銘柄にもこだわりがあり、決まった銘柄の物しか買ってこなかった。

 そういう意味では、兄二人よりも彼の方が父をよく知っていた。

 だが、それが何になる――彼にはそうとしか思えなかった。

 居間のテーブルには、ハードカバーの分厚い本が置かれている。タイトルは『己を知れ』――父が愛読していた哲学書だ。

 この本が唯一、父が遺書の中で彼に遺した物だった。

 生前、父はこの手の哲学書や心理学の本を読み漁っていた。

 もっとも、兄二人は、分かりもせずにインテリぶって読んでいると馬鹿にして笑っていたが。

 正直な話、兄は二人とも恵まれた能力のためか、少し傲慢だった。そんな様子を指摘できるほど優れた人間が周りに居なかったせいもあるだろう。

 そんなこともあって、上の兄の方は特に他人を馬鹿にした態度を隠さずに、下の兄の方も内心、他人を馬鹿にしていた。

 利用できるものは利用する、その価値すら無いものは見向きもしない。

 優秀だが乾ききった思想……その中には余命わずかである父のことなど眼中に無かった。そもそも、遺産が欲しければ生前に良くしておくべきだろうが、兄二人にはそんな気遣いは無いらしかった。

 唯一、彼だけが足繁く父のもとに通った。

「だから、店は俺が――」

「いやそれはおかしい、ここに――」

 兄二人の言い争いはまだ続いている。遺書に書いてある通りにすればすぐに片付くだろうに……遺書の通りにしたのは、彼にその本を与えただけだ。

 上の兄が遺書を読み上げ、彼に軽々しい感じでその本を差し出した時、嘲笑を隠そうともしなかった。

「お前にぴったりの本だ」

 下の兄も、笑いをこらえていることは明らかだった。

「良かったな。いい形見になるぞ」

 そう言って、お前は兄弟の中で唯一出来損ないなのだ。だから愛されていなかったのだ。そう思っていることを隠そうともしない。肉親の情のようなものは一切感じられなかった。

 彼はペットボトルを居間のテーブルに置くと、ソファにごろりと横になった。

 そういえば、父も弱ってきて横になりがちな時に、ソファにこうしてよく転がっていた。彼は父の所を訪ねて、それを見る度に目を覚まさせないように細心の注意を払いながら毛布を掛けてやった。

 明かりを点けていない天井はもう薄暗かった。

 兄たちの議論はいつまで続くのだろう。もう自分は帰ってしまっても良いのではないか――彼はそう思わなくも無かった。

 そもそも、父の遺産程度、一流企業の兄たちにとっては、はした金だ。一年我慢して真面目に働けば、それより多くの収入が得られるだろう。彼にとってはかなりの大金になっただろうが。

 ――もう、いいや。

 彼は目を閉じた。

 脳裏にはやせ細った父の姿が浮かんだ。


 父が癌を患っていることを聞いて、何度目かの訪問の時だった。

「仕事の方も忙しいだろう……無理に来なくていいぞ」

 無愛想な父はそう言った。

 病気が判明してからというもの、それは更に強まったような感じだった。

 彼は思った――きっとあれは、父なりの虚勢だったのだろう、と。

「今はそんなに忙しくない時期だし……どうせ自分が働いたって大した金には――」

「それでも、働けるなら働くべきだ」

 父はそう言い切った。それから、兄たちの近況について尋ねた。

「兄さんたちは来ないの?」

「ああ、あいつたちはお前と違って忙しいから、仕方ないんだ」

 仕方ない――そう自分に言い聞かせているようだった。

 おそらくは、兄たちにも会いたかったのだろう。――少なくとも、彼はそう思っていた。

 だが、同時に彼は知っていた。兄たちは仕事が忙しいから会いに来ないのではなく、余命わずかの父に会いに来るのが面倒だから会いに来ないのだと。

 彼は、兄たちの近況についてできる限り詳しく、それでいて父が不快になる部分は避けて話した。

「そうか。そうか」

 父は満足げに頷いた。

 彼はほんの少しだけ罪悪感を感じたが、これで良いとそれを飲み込んだ。

「ところで、お前は何か欲しい物は無いのか? 車とか、家とか――」

「あっても、そんなのを買うお金は無いよ」

 次の瞬間、彼は驚いた。

 父がニヤリと笑ったのだ。悪戯しようとする子どものように。

 これは、彼が今まで見たことのない父の表情だった。

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

 結局、その表情の理由は彼には教えてくれずじまいだった。


 彼が目を覚ますと、居間は真っ暗だった。

 どうやら、目を閉じている間に眠ってしまっていたらしかった。

 彼は手探りで電灯のスイッチを探して明かりを点けた。

 外ではまだ、雨が降っているようだった。

 兄たちの話し声も、前よりかは幾分落ち着いたものになっていた。

 おそらく、あと少しで議論も終わり、遺産の話はまとまるのだろう――彼はそう見当を付けた。そして、こうも見当を付けた。

 それでも、彼に遺されたのはこの本一冊だけで変わらないだろう。兄たちは店と住居を自分たちで取り分けた後、愛着など無しに早々に売ってしまうに違いない。

 彼は、それを止められない自分が情けなかった。かといって、自分が店を継ぐことが不可能なことが分からない程には子どもでもなかった。

 『己を知れ』……か。無力な自分を知って、なんになるのだろう?

 何度も知らされた。……自分の無能さを。

 何度も知らされた。……自分の不甲斐なさを。

 結局は、才能と実力がなければ何一つ得ることができない。逆に言えば、それさえあれば多少の傲慢も許される――兄たちのように。

 もう、この場所に自分は留まる必要は無いだろう。

 彼は書斎に行くと「もう帰るから、後は適当にしてほしい」とだけ言って家を出た。兄たちはそれを一切止めようとはしなかった――眼中に無いのだろう。元から。

 右手には傘、左手にはあの本があった。

 道を歩いていると雨が強くなってきた。彼は本が濡れないかと心配になり、目に着いた喫茶店に駆け込んだ。

 繁盛しているらしく、こんな日でもそれなりに客の姿はあった。父の店とは大違いだ。あの店は常連客が少しいるだけで閑散としていた。

 彼は椅子に座るとホットコーヒーを注文した。運ばれてくるコーヒーの臭いを嗅いだ時、なぜだか涙が出た。店員が不審げに彼を見た。

 彼は本をテーブルに置いた。『己を知れ』――父は何のためにこの本を遺したのだろう。

 彼がパラパラとページをめくると紙片が二つ挟まっていた。


 一つは宝くじで、一つはメモだった。メモには――

「あの欲深い兄たちには黙っておけ。

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