第9話 番のドラゴン
ルハナの頭上に姿を現したもう一頭のドラゴン。それは雌のドラゴンが警戒音を発していた時にルハナの頭を過った、最も恐れていた事態でもあった。
仲間の、番の雄のドラゴンの存在である。
雌のドラゴンの二回りは大きいそのドラゴンは、ばさりばさりと大きな翼を羽ばたかせ、空中で留まっている。瞬きをしない目は、己の雌を襲った存在であるルハナを捕らえて逃がさない。
赤茶色の雌に対しこちらの体色は黒と言っても過言ではない程の濃い赤であり、その顔から首、胴、尾にかけて、朱色の帯状の婚姻色が体の側面に見られた。前脚としっぽには雄の特徴である
非常にまずい状況となった。ルハナは考えを巡らせる。紅の魔導を使うドラゴン二頭を同時に戦うのは、ルハナとて厳しい。特に雄の鱗は雌のそれの比ではない程硬く、一層刃が通りにくい。
その上山火事の危険性を考慮し、炎を極力吹かせずに戦うというのは、空の敵相手に今のルハナでは無理な話である。事前に知っていれば、或いは上級依頼を受ける気であれば、ルハナとてきちんと遠距離から紅以外の魔導の攻撃手段を準備していただろう。魔石ではなく魔宝石であれば、魔力の色を変じた技が可能だ。生活用品の着火器と違い、基本使い捨ての上なかなかの値段なのが難点ではあるが、それくらいの必要経費が払えぬルハナではない。
しかし今回は緊急依頼。借りている中級狩人向けの用具には煙玉や火薬玉が入っていたが、紅の魔導を使うモンスターに特に効果的な物は無かった。
二頭とも降りてきて地上戦に持ち込めればルハナとしては少しは戦い易いのだが、その場合ここはあまりに狭すぎる。せめて北に広がる草原まで
だがどうしても火の攻撃を封じたまま森を抜ける方法が浮かばない。同時に草原に向かえばそれだけ狩人組合の援軍との合流が遅れるという新たな懸念があった。
ルハナは逡巡する。ここに留まり、火気に気を付けながら増援が来るまで粘るか。それとも森を抜け草原を目指し、開けた土地で状況が変わる事に期待するか。ルハナにはどちらも博打に思えた。
彼が決めかねていると、ドラゴンが二頭ともルハナに向かって口を大きく開いた。火を吹く気だ。
少し早くその素振りを見せた雌の許へルハナは走る。握っている大剣は再び光を帯びている。ある程度間合いを詰めたところで、走っている勢いを利用し、剣を思いっ切り地面に突き刺す。すると地面の上から覗く斜めの刀身が一瞬強く発光し、剣先が埋まっている辺りの地面が弾け飛び、土の塊や石くれが赤茶色の雌ドラゴンを次々に襲う。口にそれらが入るのを嫌がったドラゴンは口を閉じ、顔を背けながら後退。
煩わしように首を振る雌のドラゴンの様子から、火の攻撃は抑え込めたのだろう。しかしルハナがこの反撃に要した時間はつまり、それだけ黒い雄のドラゴンが今にも放つ紅の魔導を回避する余裕が削られるという事。
今回ばかしは避け切れないだろうとルハナは覚悟した。
斜め横に跳びながら肌の出ている顔を、肘で覆い隠す。ドラゴンの皮の装備程ではないが、バジリスクの装備に高等の防御用の白と翠の魔導を施した代物である。業火の中でも数分はもつ。ルハナは熱に備え、目を固く閉じて息を止めた。しかし予想していた熱さは無く、代わりに頭上からぎゃっというドラゴンの鳴き声が聞こえた。
紅の魔導でドラゴンが火を吹く際、喉奥で練り上げた高密度の魔力が内臓に逆流しないよう、勢い良く、そして大量に、肺から空気が吐き出される。その時声帯は大きく開かれており、ドラゴンは声など上げられない。逆に鳴いたという事は、何らかの原因で火を吹き損ねたという事を示す。
ルハナは鳴き声がした方を見る。雄のドラゴンの黒い巨体は空中で傾いでいた。腹辺りからは体勢を崩したもとと思われる何かがドラゴンから離れ、地上に向かって飛んで行った。
大人の拳程の大きさの玉である。
その球体は自然落下よりも明らかに速い速度で、それでいて落下にしては酷く不自然な軌道を辿り、最終的には広場の北側に立っている人物の元へ吸い寄せられていった。
一瞬ルハナは組合からの増援かと考えた。しかしそのあまりにも早い到着に、草原で依頼をこなしていた狩人が飛んでいるドラゴンを目撃し、ここまで追って来たのかと思い直した。現実はそのどちらでもなかった。
目深に被られた大きな帽子。深い緑の色味のゴーグルに加え口元まで上げられた布。
スバキである。広場と森の境目に沿って移動したのか、西側ではなく北側から姿を現していた。
球状の魔石はスバキが握っている長い棒の一端目掛けて勢い良く飛んでいき、その先端に触れたかと思うとびたりとくっついた。玉の惰性につられてか、スバキはそのままくるくると何度か棒を片手で回して見せ、最後は胸の高さで地面と平行になるように握った。
ドラゴンと人間、広場に居た全員の視線が彼女に集まっていた。六級狩人三人では全く歯が立たず、四級狩人でも注意を惹くのがやっと、加えて二級狩人の常人離れした戦いぶりを目の当たりにして尚、その九級狩人はドラゴンの前に姿を現したのだ。それもドラゴンが二頭に増え、状況が悪化した直後に。そんな中、まさかこの場に居合わせていた狩人で最も階級が低いスバキが参戦するとは、その場の誰もが思わなかっただろう。そして参加するのみならず、火を吹こうとしていた黒のドラゴンを止めるに充分な威力を持った一撃を彼女が見舞うと、一体誰が予想できただろう。
人間は戸惑いから、ドラゴンは警戒から、皆それぞれに動きが止まり、戦いの場は一瞬にして奇妙な静けさの薄膜に包まれた。雌のドラゴンの周りの炎だけがパチパチと小さな音を立て、我関せずと燃え続ける。
スバキは棒を水平に持つような構えを解き、ごくごく自然体に直った。棒の一端を地に着け、片足に体重を乗せているその様は街中で人と待ち合わせでもしているのかと錯覚させる程力が抜けている。まるで気負っているように見えないスバキの空気から、本当に彼女が現状を正しく理解しているのか疑いたくなる程だ。
ルハナはと言うと、状況が読み切れずに居た。受験者の中でスバキは確かに安定した知識と技量を披露しており、器用さはずば抜けていた。だが彼女が正確にどの程度モンスター相手に戦えるかは、全くの未知数である。何せ試験中彼女は全く戦わずに試練を通過してきており、過去の狩人履歴で目ぼしい功績と言えば、推薦理由ともなったエリマンティアンボアの討伐、唯一つである。しかしそれも実際の討伐を目撃していないルハナでは、彼女がどれ程結果に貢献したのか、分からない。
力量を測り切れていない受験者を前に、彼女を守られなばという試験官としての使命感と、彼女ならば戦況を崩せるのではないかという期待が交差する。後者は長年帝国の騎士団で強者に揉まれて培われた勘に後押しされる形で。
あの身のこなし。あの足音が全くしない走り。あのドラゴンに仕掛けた遠距離からの強烈な一撃。そしてあの伸び伸びとした構え。まるで狩りを楽しむ猫のようではないか。ルハナの勘は、スバキが只者ではないと告げていた。だが確証も無い。
易々と彼女に協力を要請しても良いものだろうかとルハナは頭を悩ます。ドラゴン二頭の討伐は通常であれば上級狩人、それも準一級以上の実力が望ましい程の依頼である。実際の能力は違えども、正式には下級狩人ですらないスバキにそんな危険な戦いに巻き込むのを、真面目なルハナは大いに躊躇した。
だがルハナの悩みは次の瞬間、無用の不安と化した。
余計な力が一切入っていない様子のスバキが軽く帽子のつばを摘み、二頭のドラゴンを交互に見やり、通る声で呼び掛けたのだ。
「来いよ、トカゲちゃん」
口角の上がっている口元が布の上から覗く。
「遊んであげるからさ」
二頭のドラゴンは咆哮で答える。彼らの声と殺気は静寂の薄膜を破り捨て、空気は再び張り詰めたものとなった。
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