忠誠の狩人

中 真

プロローグ

第1話 あの方の指示

 夜の山は月以外の明かりが無く、その暗闇は夜目の利く者でない限り道を踏み外してしまいそうな程濃い。雪も粗方解けた時節だが、日が暮れてしまえば厳しく冷え込む。


 そんな寒々しい山奥に架けられた吊り橋の近くで男が一人、佇んでいる。深い渓谷を跨ぐ吊り橋は山道には欠かせないものだが、町自体からはかなり離れている。満月とは言え山中で夜中に一人。暗闇の中、男は何かを待っているようだ。時折周りをきょろきょろと見渡しては、纏っている厚手の上着の上から腕を擦り暖をとっている。


 寒さから気を紛らわす為か、男は煙草を取り出した。しかし咥えた煙草に上手く火が点かない。カチカチッと小振りの着火器を鳴らすが、震える手元には火が見られない。男が苛立たし気に着火器を掌に叩き付けていると、音もなく横から火が差し出された。


「どうぞ」


 いつの間に側に来たのか、金色の長い髪を後ろで一つに括った若い女が立っている。暗色の装いは男より薄着のようだが、差し出された火はまるで震えていない。橋の下の急流によって起きている強風から片手で火を囲い、男の咥える煙草に近づけた。


 女の突然の登場に驚いたのか、男は一瞬固まるも、あぁと一声掛けてから女の手元に顔を寄せる。夜風に長らく当たっていたせいか、男は手だけではなく全身が震えているようで、煙草の火がなかなか点かない。ようやっと煙草の先に小さな赤い灯かりが点ったところで女は着火器を仕舞い、代わりに取り出した包みを男に渡した。厚みはあるが、上着の内に忍ばせられる大きさであり、蝋紙で丁寧に包まれている。


 男を包みを受け取ると素早く懐に仕舞い込んだ。それを見届けた女は何も言わずに吊り橋を一人で渡りだす。轟々と鳴る遥か下の川の音に掻き消されてしまいそうな程微かに、カチャリと冷たい金属音が女の背後からした。丁度男の方からだ。


 女は橋の上で足を止め、振り向かずに問うた。


「……何のつもり?」


 男は拳銃を女に向けている。手は相変わらず震えており、荒い息遣いの合間にカチャカチャという音が混じる。女は半身だけ振り返る。目には不思議と怒りは見られず、逆に男の言動を窺っているようだ。男は震える声を張り上げた。


「あのお方の……あのお方の指示だ!」


 言い終える前に銃を撃つ。しかし弾は女には当たらず、彼女は身軽に橋の手摺りに飛び乗った。


 外したのか? いや、違う。避けられたのだ。


 煙草を吐き捨て男は素早く女に焦点を合わせる。手はもう震えていない。女が欄干から跳ぶのと同時に二発目が放たれる。


 当たった。しかし左脚。致命傷ではない。


 左脚を負傷した女は声も上げずに橋から落ちていく。長い金色の髪が落下と渓谷の強風の中、靡いている。男は女の軌道を銃口で追う。ただただ落ちていく無防備な女が標的であれば、外さない。


 三発目。それは確かに女の心臓を貫いた。女の手足からは力が抜け、藁人形のようにくったりとした様子で谷底に落ちていく。そのまま橋の遥か下の急流に呑まれて見えなくなった。急流の轟とそのあまりもの距離から、橋の側に立っている男には女が水面に落ちた音さえ聞き取れなかった。


 暫く川の白波を眺めていた男は、懐から通信貨を取り出した。事の重大さを物語るように先程の震えが舞い戻っている。銅貨の中央の穴の縁を彩る紋章を指でなぞり、重たい口調で報告した。


「終わりました」


 ややあってから、そう、と通信貨が高めの女の声で振動する。だがそれきり続く言葉がない。そのまま男は待っていると銅貨が再び震える。


「ちゃんと私の指示通り、心臓を撃ったのよね?」


 男は少し返事をためらった。その間から何か感じたのか、女は鋭く言及する。


「ちゃんと、ちゃんと当てたのよね?」


 観念したのか、男は正直に喋った。


「最終的には、きちんと心臓を捉えました。しかし一発目は完全に外してしまい、二発目は掠ってしまい、三発目でやっと、」

「どこに?」


 男の言葉に被せる様に女は訊いた。二発目がどこに掠ったのかという意であろう。面喰ったのか男は暫し黙り込む。先程の場景を思い出しているのかもしれない。


「脚……確か左脚でした」


 通信貨から短く風の通るような雑音が伝わり、再び女の声で、そう、と震えてから通信が切れた。懐に硬貨を仕舞い込む男は肩から下りた重荷に身を揺すり、橋とは反対の方向へと歩き出す。女の二度目の「そう」が一度目より幾分か柔らかく聞こえたように思え、内心首を傾げながら。

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