part.8

「八神さん?!アーッシュ! 二人とも何処いったんだんだよ」


秋山が目を覚ました午前十時。店にも二階にも八神どころかアッシュの姿もなく、家の中は静まり返っていた。

八神が与えたらしい食べ散らかされたアッシュのご飯皿がポツンと床に置き去りになっているだけだった。

一人で暮らしていた三年前は一人が当たり前だった。寂しいなんて感じたことはなかったのに今は違う。

男一人と猫一匹のいないこの家がやけに寂しく広く思えた。


「何処か行くならメモに一言書いてくれても良さそうなのに…。今日は僕一人で銭湯行くのか…。

それよりもアッシュだ。外に出ちゃったのかな」


秋山が一人ため息をついていた頃、八神はと言うと喫茶店の『ルノアール』に女と差し向かいで座っていた。

相手は勿論元妻の桃香だった。


「ごめんね、携帯切ってたの。ちょっと男と沖縄行ってて…。はい、麟ちゃんにお土産〜、アタシのお裾分けだけどね、食べてぇ」


ここ数日の八神と秋山の葛藤など知らぬ桃香は呑気な様子で八神の前にちんすこうの小袋を差し出した。


「で。どしたの?麟ちゃん。アタシに連絡なんて珍しく無い?

お金ならダメよ、旅行行ったばっかでアタシもお金無いんだから」


八神はミルクも砂糖入れてないのにカップに注がれたコーヒーを忙しなくスプーンでガシャガシャとかき混ぜていた。


「金じゃねえよ。あのさ、お前子供…いるの」

「子供? いるよ、名前は麟太郎から頂いて琥太郎って言うんだけどいい名前でしょ? これがまた馬鹿で可愛いのよ」


緊張感漂う八神とは正反対に、桃香は実にサラリと息子のことを話した。


「…その…。歳はいくつだ」


遠回しに聞く八神はなかなか確信に迫れない。


「十七よ。麟ちゃんと別れた年に産まれたの」


八神の心臓が脈打った。

歳は十七歳。別れたのが十七年前。確定的だった。


「何で黙ってたんだ。オレにだって責任くらいはあるだろう。あんなに大きくなってから知るなんてお前…」

「琥太郎に会ったの?」

「会ったよ。…その、オレ…。今からでもオレがしてやれる事とか…なんか無えのか」


自分の子供では無いかと思い始めた頃から、八神は覚悟を決めていた。

親ならば今からでも何かできる事があるのでは無いのかと。


「責任なんて言葉は使いたくは無いが、知らんぷりできるほどオレは図太い人間じゃねえ。金はないが、金はないが…何か」

「ヤダ、あの子麟ちゃんの子供じゃ無いわよ?」

「…へ?」

「麟太郎の子供じゃ無いの」


思い詰め、この所ずっと秋山も自分もその事ばかり考えていたと言うのに、桃香は呆気なくその日々にピリオドを打った。


「は…?

オレの子じゃないってどう言う事だ!だってあいつか腹にいた時にはまだオレ達は…」

「アタシが浮気したの。

今更だけど、ごめんね麟太郎」


その瞬間、八神は真っ白になっていた。耳は聞こえなくなり、目の前に座る桃香が200mも先に座っているように感じた。




理髪店が開店する午後四時。繁華街を覆うアーケードのせいで、理髪店の店内はすでに暗かった。

開店準備で二階から降りて来た秋山が店の明かりをつけると、誰もいないと思っていたソファにポツンと座る人影がある。

それはすぐに八神と分かる大きな人影だった。


「わぁっ!!ビックリしたな!八神さん!」


今日一日中なんの連絡もしなかった八神に秋山は少しばかり腹を立てていた。


「八神さん!何してんですかこんな所で!明かりくらいつければいいでしょう!

…今日は何処に行ってたんですか、何かメモとか残してってくださいよ。心配するでしょう!

それよりアッシュがいないんですよ、朝八神さんご飯あげたんですよね?

せっかく首輪も可愛いのを買って来たばかりだったのに何処に行ったのかな…。お腹が空けば帰って来るかな…。もし帰ってこなかったら聞き込みとか、ポスターとか貼って探さないと…」


今日ずっと一人で悶々としていたせいで、秋山は一気にそこまで捲し立てた。

だが背後の八神がやけに静かだ。「ああ」も「うん」も無い。秋山は訝しげに振り返った。


「…どうしたんですか、八神さん?」


猫背で座る八神が気落ちしているように見えた。


「どうもしねえよ、ただ。……あいつはオレの息子じゃなかった。桃香の浮気相手の子供だったんだと!

ハハハなんだかな…。気が抜けたよ」


クルクルと軽快に動き始めた回転灯だったが、秋山はコンセントをそっと抜いた。

店の明かりも消すと黙って八神の隣へと寄りそって座った。


「……今日は桃香さんに会っていたんだ」


「…ああ…。蘭丸の事、はっきりしねえといけねえと思ってな。

今更浮気なんて言われてもなあ、知ったからってどうだって話さ」


「……ショック…?」


秋山が気遣わしげに八神を覗き込む。


「馬鹿いえ、もう昔の話だろ、今更ショックもクソも無い」


「……なら、自分の子供じゃ無かったことがショックだったんですか?」


「ハハっ、まさか!別に欲しかねえよ、あんなガキ、居たらたまったもんじゃねえ。だろう?先生」


八神が強がっている。

秋山にはそう感じる。


「…そうですよね。

ほんと僕、ちょっとホッとしました」


「ああ、ほんとホッとしたよ」


ホッとした。


それは嘘じゃ無い。

嘘じゃ無いのに、二人共ブルーな気持ちになっていた。


そしてこの夜、久しぶりに理髪店は休業した。









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