part.7
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました。またのお越しを…」
お客を迎えては送り出し、迎えては送り出す。この形骸的な作業に、お客に僅かな罪悪感を感じつつも秋山の頭の中は空虚だった。
以前のように激しい嫉妬が沸くでも無く、寂しい気持ちが頭を擡げるでも無く、ただぼんやりと手慣れた作業を繰り返すだけ。
今の気持ちを何と言って言い表したらいいだろう。
トロ火の様な太陽が、商店街を赤く染め、長い陰を作る時刻。
客の引けた店のドアを秋山がそっと開けた。
生温い風が心地良く吹いてくると
何処からか花の香りが漂って来る。その香りを追いかけてみると、隣の店舗が今日から開店するらしく、開店祝いの花が店先にささやかながら並んでいた。
いかにもチープな看板建築だが、塗りっぱなしの漆喰の壁に木製のドア。「Luna Rossa」の文字が下からの間接照明に浮かび上がっていた。
「…イタリア語?スペイン語?なんて読むんだろう…」
暫くその文字に見入っていると、背後から声をかけられた。
「ルナ・ロッサと読むのですよ。赤い月と言う意味ですな」
振り返るとスーツをビシッと着こなした浅田がスラリと立っていた。
今日は八神とは一緒では無いようだった。
「あ、浅田さん。こんばんは…」
「お店、入られないのですか?」
「いやあ、僕はまだ仕事が…ここ今日開店だったんですね」
「おや、招待状届いてませんでしたか?」
「招待状?」
そう言えば店のポストから何通か郵便物を引き抜いたまま店のテーブルの上に置きっぱなしだったことに気がついた。
秋山は慌てて店の中に引き返し、その封筒の束の中から「Luna Rossa」の招待状を見つけた。
「あ。ありました。招待状…」
秋山は浅田にその招待状を掲げて見せた。
「じゃあ、行きましょう」
浅田はそう言うと、秋山の腕を取って、「Luna Rossa」へとグイグイと引っ張って行く。
「えっ?あのっ、待って下さい!僕は…ー」
あれよと言う間に浅田は戸惑う秋山を店内へと引き入れてしまった。
静かなボサノヴァの流れる店内はサンタフェ風とでも言うのか、古い木造建築を上手くリノベーションした何処か懐かしさのある空間になっていた。
何の準備もない秋山は訳もわからず、店主の顔も見ないまま慌てて頭を下げていた。
「あ、あのっ、ほ、本日は、お、おめでとうございます、隣の理髪店の者ですが…ー」
「いらっしゃいませ、ようこそルナ・ロッサへ」
良く聞き覚えのある声だった。
暖かみのある落ち着いた声。
恐る恐る顔を上げると、目の前にはグレーのシャツにかっちりと黒いベストを身につけた八神が他所行きの笑顔で立っていた。
秋山はキツネに摘まれたような素っ頓狂な顔で八神をあんぐりと見上げていた。
「やがみ、さん?何でここにいるんだ。ここで何してんの…」
「彼はこのバーテンダーですよ。短い期間に良く様々な事を 勉強されましたね、おめでとう八神さん」
まだ頭の整理のつかないでいる秋山がポカンとしている横で浅田が八神と握手していた。
「いやあ、貴方のお陰ですよアーサー」
「アーサーは流石にやめて下さい。恥ずかしいですよ」
「いいじゃないですか、本名でしょ?浅田アーサーさん」
「…えっ!?」
アーサーとはあだ名ではなく、本名だった。浅田アーサー。
そこに驚いている秋山を他所に、八神はカウンター席へと浅田を促した。
「どうぞ、こちらへ。何をお作りしましょうか?」
「では、バラライカを…」
「かしこまいりました」
グラスに氷を積み上げて冷やし、その間にシェイカーに次々に酒を注いでいく。
シェイカーに氷を入れるとリズミカルな動きでシェイカーを振る姿も様になっている八神を、まるで夢でも見るような心地で秋山は見つめていた。
「シェイカーを振る回数もじゅうぶんですね。表面にちゃんと霜がついていると言うことは、中身は0度になっている証拠です」
「ありがとうございます」
そう言うと浅田は美味しそうな顔でそのカクテルを味わった。
突っ立っていた秋山にカクテルの乗ったトレーを持って八神が近づいてきた。
「先生、どうぞお座り下さい。…これはお店からのサービスです」
すぐ側の二人掛けのテーブル席に座った秋山の前に、細長いタンブラーが静かに置かれた。
「マリブパイン。ココナッツリキュールとパイナップルジュースで作ったカクテルです。先生の好きそうな甘口ですよ」
そう言って秋山に微笑みかける八神は、お客として秋山をもてなしていた。
秋山は驚きすぎて呆然としたまま何も言えないでいる。
ホストの顔とも恋人の顔とも違う今夜の八神の顔に、秋山は図らずも胸をときめかせている自分がいた。
ここはバーなのかカフェなのか。浅田の重厚なバーのイメージとは違う、もっと親しみやすく軽やかな雰囲気だ。八神がシェイカーを振るうには似合いの店だ。
口にした甘く冷えたカクテルは秋山好みの味わいだった。
一緒に暮らしていたのに、こんな大胆な計画を推し進めていた事に少しも気がつかなかった。
いや、そうでは無い。
サプライズが好きな八神が秋山に気づかれないようにしていたのだ。何かしている事は丸わかりだったが、そこが八神のチャーミングで憎めない所なのだ。
しばらくすると客は次々に訪れた。皆、理髪店の見知った顔ばかりだ。
「八神ちゃ〜ん、びっくりしたわよ!招待状来たの三日前なんだもの〜、あらあら素敵なお店ね〜」
「ありがとうございます、一人でも気軽に来られる店にしたくて、浅田さんのお店と被るのも気が引けましたしね、こんな感じになりましたよ」
マダムが秋山に気が付いて手を振ってきた。
「あら先生も安心だわね、良かったわね〜これで無職脱却ね〜」
秋山は取り敢えず微笑んで手を振り返すしか無い。
マダムが現れると途端に店の中が賑やかになる。マダムがここぞとばかりにハグと称して八神に抱き着いた。
「あら?このベスト少し八神ちゃんには小さいんじゃ無い?」
「おかしいですね、この前私とスーツを仕立てに行った時にちゃんとサイズは測った筈ですがねえ」
「はあ、せっかく浅田さんからお祝いにいただいたと言うのに、俺なんか最近太ったみたいで…」
ベストのボタンがきつそうな八神は己の腹を撫でて不思議そうな顔をする。
そう、秋山だけがその原因を知っている。あの連日の豪華なブランチだ。
理髪店にいる時のような気安い雰囲気で集まれるこのバーはきっと皆んなに愛される店になる。
秋山が微笑ましい気持ちでこの和やかな情景を俯瞰で眺めていた時だった。
夜気を纏わせた一人の女が店のドアを開いた。
「いらっしゃいま、」
顔を上げた八神の言葉が不自然に止まり、マダムが目を見張った。
あの髪の長い女だった。
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