part.2

「こちらをどうぞ、マダム。カルーアホットミルクです。…そちらの紳士も甘いものがお嫌いでなければ如何です?」


あの翌日から、八神はお客へのサービスでお茶やカクテルなどを振る舞う様になっていた。

今時はそんな店も有るにはあったが、何せ元ホストの言動や立ち居振る舞いなものだから、店内はさながら何かのサロンの様な雰囲気になっていた。

ことに年配の女性客の声のトーンが一段高くなり、静かな職場の雰囲気とはちょっと違う感じにっていた。

これをどうしたら良いものかと秋山は考えあぐねていた。

お客は別に迷惑そうでもないし、寧ろ喜んでいるくらいだからこれでも良いかと思ったり。

八神としては秋山を自分の出来る最大限で手伝っているつもりなのだろうから、無下にも出来ない。


「八神ちゃん、今度他になんか作ってくれない?」


着物の女性が甘えた声で八神に強請ると、気安く八神は「良いですよ」と営業スマイルで答え返す。

そんなやりとりに秋山は気が散って仕方ない。いや、気になって仕方ない。ホストの顔した八神など知りたくもない。


そんな日が続いたある雨の日に、湿り気を帯びた空気とともに見慣れぬ男性客が入って来た。

一瞬だけ、その男の纏う落ち着きのある空気感が辺りを支配したように思えた。


「…あ、いらっしゃいませ」


見惚れたわけではないが、一拍遅れて秋山が丁寧に挨拶をした。


「予約はしていないが、良いかね?」


落ち着き払った耳障りの良い声。歳の頃は五十を少し過ぎた頃だろうか、ロマンスグレーのきちんとした身なりの男だ。

だがサラリーマンと言う雰囲気でも無い。どちらかと言うと八神と同類の匂いがしたが、物腰は丁寧で清潔感にあふれていた。


「ええと、はい。この後予約もありませんので大丈夫です。シャンプーは如何なさいますか?髭剃りも承りますが…」

「シャンプーは要りません。散髪だけで結構です。なかなか評判のお店だと伺っていたのでね…」

「それはそれは、雨降りだと言うのにお運び頂いて有難うございます。どうぞこちらに」


先客はさっき出て行き、今は八神に甘えたマダム一人だけだった。

秋山はどうぞと散髪台へとその客を促した。

店の隅では相変わらずマダムが八神を独占中だ。


「だからね、私はトマトが好きなのよぉ〜、今度何か美味しいカクテル作ってくれないかしら〜?」


強請るのがお上手で!でもここはホストクラブじゃないんですけど!


今までお客に対して、こんな風に思ったことなど無いのだが何だか面白くないのだった。

秋山は横目でチラッと見ただけですぐに無視を決め込んだ。


集中、集中!


ブルーの前掛けを客の首へと結びながら、秋山はさり気なく男の髪型をチェックした。

歳のわりには野暮ったくないヘアスタイルだ。今流行りのツーブロックスタイルで襟足ともみあげが刈り上げられてスッキリとした印象だ。

いつも綺麗に手入れしている事が伺えて、恐らくは揃えて欲しいと言うのだろうと思いながらも「如何致しましょうか」と秋山は男に尋ねていた。


「ツーブロックで。

襟足3㎜、揉み上げ6㎜、自然な感じのグラデーションで頼みます。

眉下も整えて、やはり髭もあたってもらえますか?」


澱みのない完璧なオーダーに秋山は少々面体食らってた。


「それから、そこの御嬢さん。差し出がましいようだが、トマトがお好きならレッドアイを注文なさい。ビールがお好きならきっとお口に合いますよ?もし、ビールが苦手なら、レッドサンと言うのもあります。日本酒とトマトジュースのカクテルなのですがなかなか美味しいですよ」

「あらまあ、ご親切にありがとう。…ですってよ、八神ちゃん」


八神の腕をニコニコ顔のマダムが叩く。その八神が今度は驚いた顔をしていた。


「お詳しいですね!俺とご同業とは思えねえが…」

「貴方は差し詰めホストをしていらしたんですかな?残念ながら、私はしがないバーテンダーです。この繁華街通りのどん詰まりでささやかな店を営んでおります」

「あ、『コルボノワール』ですね!あの店のご主人でらっしゃいますか?」


思いあたったのは秋山だった。

「コルボ ノワール」はフランス語で黒いカラスと言う意味だ。小さくて目立たないが、趣味の良さそうな門構えの店が思い浮かんだ。


「ご存知でしたか。光栄です。古いだけが取り柄のしがない店ですがお陰様で皆様に愛されてはや三十年です」

「三十年ですか!それは凄いですね!」

「じゃあこの繁華街の大先輩というわけだ!なあ、秋山!」

「本当ですよ!長く経営していける秘訣を御教授して頂きたいです!」

「いえいえ、御教授などとお恥ずかしい限りです」


彼の名前は浅田と言った。

控えめで見識があり、三十年のバーテンダーのキャリアは伊達ではなく、無駄な動きの無い洗練された身のこなしは流石だった。

浅田はこの理髪店を気に入ったらしく、週に一度はこの理髪店へと通って来るようになっていたが、八神もまたこの浅田と言う男を気に入ったようだった。




「うん、これは美味しい。ホワイトレディですね?別名、ジン・サイドカー。八神さん、基本はこれで良いのですが、あと一滴レモンが多いともっとおいしくなりますよ?」

「なるほどね!レモン汁あと一滴…と」


近頃浅田が来ると、八神がいそいそと自分の作ったカクテルを持って来てはそれを浅田に勧め、まるでホストの接客のように隣にピッタリとくっついて、あの適当な男がその一語一句をメモっているのだ。

それはそれで後学のためには良い事だと、秋山とて分かってはいるのだが、相手はスマートな大人の男。何となく胸の内がザワザワする秋山だった。


八神が浅田を尊敬の眼差しで覗き込む。

嬉しそうな顔で頷いて、目線まで合わせて微笑んだ。

それに応えるように穏やかな笑みを八神に向けながら話し込む紳士な浅田。


ーー嗚呼!何だか気が散る!

気が散る!


気が散る!!


ガシャン!


ドス!


バタン!


自分の手元が乱暴になっているのを秋山本人も気が付いていた。


「あのっ!八神さん!ちょっと買い物に行ってきて貰っても良いですかっ?」


自分の感情の昂りに溜まりかねた秋山が、別段急ぎというわけでもないのに八神に買い物を言い渡していた。



『ヤキモチと八つ当たり』


それ以外、自分の感情の説明がつかない秋山だった。


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