繁華街の赤い月

part.1

「八神さん。面接、どうしたんですか。今日でしたよね」

「行ったさ、一応」

「で?……落ちた…と」

「そ、ご名答〜!」


秋山の目の前に人差し指を立てた八神は何が楽しいのか満面の笑みを浮かべている。

近頃の八神は面接に落ちたくらいではびくともしない。


午後三時の開店時間。

今日も無職で元気な八神は用もないのに手伝う気満々で黒いギャルソンエプロンを腰に締め込んでいるのだった。

気合は分かるが、この理髪店に八神の仕事など何もない。


秋山の営むこの昭和チックな理髪店は、繁華街にあって、昼過ぎから真夜中にかけて営業するのが売りの店だ。

水商売の人達や学生さんまで幅広く愛され、店は程良く賑わっていた。

手狭な店は、カット台が二つとシャンプー台が一つ。

待合に三人がけのソファが一つでいっぱいいっぱいのこじんまりした店だ。

表は綺麗に出来てはいるが、裏に回れば傾きかけたボロボロの借家だ。その店の二階で、理髪師の秋山と、元ホストの八神が男二人、六畳一間と三畳ほどの台所にむさ苦しく暮らしているのだった。

同棲といえばまだ聞こえは良いが、恋人に毛が生えたほどの仲で、一年も一緒に暮らしているのに身体の関係は70%と言うなんとも微妙な関係が続いているのだった。


「なんで面接落ちたんですか。今日はスーパーの惣菜部だったはずでは…。募集はパートでしたよね?そんな難しいものですか?」


開店準備をしながら秋山は肩越しに八神を振り返った。


「いや、一応採用されたんだぜ?なのに作業場に挨拶に行ったらよ、おばちゃんたちが何だか色めきたっちまって、これじゃあ仕事に身が入らねえって事になってよ」

「それで…不採用に?!そんな事あるんですか?!何か他にやったりしたんじゃないですか?!」

「いや、手を振って…。冗談に投げキッスしたくらいで、」

「それですよ!」

「軽〜い挨拶じゃねえか!ムスッとしてるよりゃマシじゃねえかと思わねえ?」

「ホストならそうでしょうけど…。でもそれで不採用ってのも僕は納得できないな」


そう、ここ一年の間に仕事を取っ替え引っ替えしている八神は、好き好んで秋山のヒモのような生活をしているわけでは無い。

やる気だけはあるのだが、いつも不思議な理由で首になったり不採用になったりと、ホストの世界しか知らない男には少々この世間は生き辛そうだった。


開店から程なくすると、この店は予約客で一杯になっていた。

床に落ちた髪の毛を八神が箒で穿いてくれるのだが、何せ身体が大きく、三つの椅子の間を忙しく立ち働く秋山の邪魔になるのは否めない。

秋山は、八神の手伝いたいと言う気持ちがわかるだけに、あからさまに邪険にはしないだけで、本当のところは一人で仕事をしていた方が効率が良いのだった。

ドライヤーの音がけたたましい午後五時はこれから店に出勤する水商売の人達で混み合う時間だが、こんな時間帯にわざわざやって来る者があった。


「あんた、ちょっと良い話があるんだけどねえ!」


今時、頭にカーラーを巻きつけた年配の女が、店の中へと姦しく入ってきた。

この店の大家だった。


「ちょっと聞いてよ!隣の雑貨屋が夜逃げしちまったんだよ!明け方こっそりと出て行ったらしいんだけどアンタ気がつかなかったかい?」


秋山は丁度、客の髪にドライヤーを当てつつブラシ掛けをしているところだった。騒音で何を言っているか分からない。


「ああ、すいません。今ちょっと手が離せなくて、八神さん!八神さん!」


察した八神は店の二階から降りて来ると、お得意の愛想笑いで話したくてウズウズしている大家をそれとなく、さり気なく外へと連れ出した。

大家は身振り手振りを交えながら、往来で八神と何が話し込んでいた。


「ちょっと、先生!今日は外巻きじゃなくて内巻き内巻き!」


ドアから見える二人に気を取られた秋山はうっかり手元が疎かになり、言われていた内巻きカールではなく、外巻きカールにドライヤーを当てていた。


「あっ、すいませんっ!今やり直します!」


雑念を振り払い、秋山は仕事だけに専念しようと鏡の中の客に謝る笑顔を向けていた。





「くたびれた!今日は結構お客さん来ましたね!」


やっと仕事がひと段落したのは真夜中の十二時過ぎだった。三人がけのソファで突っ伏していた秋山が顔を上げた。


「そうだ、八神さん。大家さんの話はなんだったんですか」


二階の階段から丸いお盆にマグカップを乗せた八神が降りてきた。


「うん?ああ、お隣の雑貨屋が今朝方夜逃げしたんだと。お前気がついたか」

「ええ?!夜逃げ?!…そう言えば最近、店を閉めてましたよね」


こんな場末の繁華街にあって、小さな雑貨屋が繁盛するはずもなく、いつ潰れるかとは思ってはいたのだが、とうとう残念な事になったのかと思いつつ、横に座るだろう八神のために秋山は席を詰めた。


「なんでも家賃を相当溜めてトンズラしたらしいが、問題はそこじゃねえ」

「そこじゃない…とは?」


ソファの前のテーブルに湯気の立つカップをそれぞれの前に置きながら八神が空けられた秋山の隣に腰を下ろした。


「店、手狭だろう?で、ぶち抜きで借りたら家賃を三割引にするって言うんだが…」

「…はあ、三割り引き」


秋山は興味無さそうな声を出しながらカップを手に包んだ。


「良い話じゃねえか?予約の客を断ったりしてんだろう?」

「店はこのくらいがいいんです。僕一人だし、広くしたらお客様に目が行き届かなくなりそうですし、人を雇う余裕もないですしね」


はなから欲のない秋山だった。その日食べていければそれで良い。

あとはお客にきめ細やかなサービスが出来る事が一番なのだ。

そう思いながら手の中の温かな飲み物を一口啜ると、みるみる秋山の瞳孔が見開かれた。


「……なにこれ。美味しい!」


色はココアかカフェオレなのだが、なんだか香りがいつもと違う。鼻にアルコールが仄かに抜けて芯から暖まっていく感じだ。


「うわ、なになに?これ美味い…お酒?」

「何だ、飲んだ事ねえのか。それはカルーアホットミルクってやつだ。美味いだろう。ホストクラブでもアルコールの苦手な客にもウケが良くてな、一応カクテルなんだが…」


うんうんと頷きながら夢中で啜って頬を綻ばせている秋山の顔を八神がにやけ顔で眺めているのだが、それは微笑ましいと言うよりも、何か企む笑顔だった。


「そうか、そんなに美味いか…」


そう。ここで法外に喜ぶ秋山に八神は味をしめたのだ。



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