青くて奇麗

秋永真琴

青くて奇麗

「汚い世界をこの目に直接映したくなくなったから」


 まさか成人した大学生からそんなべったべたの答えは返ってこないだろうと思っていたけど、恥ずかしげもなく来た。静かな声で力強く。

 向かいの席でギネスを瓶からグラスに注ぐマリコを、あらためて見やった。

 長い髪を今日はゆるく結い上げて、ウェリントン――丸みを帯びた四角形スクエアの眼鏡をかけている。眼鏡のレンズが、青みがかっている。


「上手に塗ったね」

「言われなきゃ気づかないでしょ」


 マリコは白い喉を鳴らして、黒いビールを飲み干した。ほうっと息を吐いて、二杯目を注ぐ。

 遠目には薄い色のサングラスに見えるけど、テーブルをはさんだこの距離なら、薄暗いアイリッシュパブ風の居酒屋の中でも、色のかすれやムラははっきりとわかる。レンズをペンで塗ったのは明らかだった。

「どうして」と尋ねた理由が、さっきのあれだ。


「朝からずっとかけてるの? 家を出て、バスに乗って、授業を受けて、家庭教師に行って」

「そうだよ」


 自分の子どもの先生がこうだと、家族は心配にならないだろうか。


「少しは世界がましに見える?」

「予想以上にいいね。水の中みたいで落ち着く。あ、これ使いなよ」


 マリコはビネガーの小瓶を渡してくれた。フィッシュ&チップスに垂らして、魚のフライをかじった。おいしい。酸味が脂っこさを抑えて、衣と身の味を鮮やかにしてくれる。揚げ物にはレモンより酢が合うんじゃないか。


「きみといると楽だなぁ」


 ふいに、マリコがそんなことを言った。


「わたしが変なことをしても、バカにしてマウントを取ってきたり、わけのわからないお世辞を言ったりしないから」

「変だって自覚はあるんだ」

「凡人なのに普通がわからないふりをして天才ぶるのは終わってるでしょ」


 こういうことを言うので、マリコは嫌われることや粘着されることもある。


「かける?」

「もっとかけたほうがいい?」

「ビネガーじゃなくて」


 マリコは自分の眼鏡を指さした。

 

「じゃあ、貸して」

「はい」


 マリコは目をつぶって眼鏡を外し、差し出してきた。今日は徹底して世界の直視を拒否するらしい。明日もこうだったら、もう少し動機を掘り下げてみようか。

 眼鏡を受けとって、かけた。

 少し視界が歪んで、加工した写真みたいな色味になる。


「どう?」

「きれいだね」

「ね、意外といいでしょ」

「うん。きれいだ」


 瞳を閉じたまま嬉しそうにうなずくマリコを、遠慮なく見つめる。青く染まったマリコは、とてもきれいだ。

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青くて奇麗 秋永真琴 @makoto_akinaga

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