異世界のクジラは雨を降らす。

ネコヅキ

異世界のクジラは雨を降らす。

 ──雨の日。ふと空を見上げると、雲の中に大きな鯨が飛んでいた。全長が一キロにもなるこの巨大な鯨は、大地から遠く離れた遥か上空で、ダンスを踊るかの様に二頭でクルクルと回り続けて恵みの雨を齎している存在だ。その鯨の名はフィレナレインといった。この世界で数多く存在していたこの鯨も、今はもう数える程しか確認されていない。


 この世界には四つの国が在った。一つは火の国。一つは風の国。一つは土の国。そして、最後の一つが水の国。

 かつてはこの四つの国にもフィレナレイン達が棲まい恵を齎していたのだが、火の国は十二年前、そして土の国は十年前にその姿を消した。以降その二つの国では雨が降る事が無くなり、それは今もなお続いている。その原因を長年に渡り調査しているものの、忽然と姿を消した理由は未だ謎に包まれていた。

 雨が降らなくなった二国だが、豊富に湧き出る地下水によってその命を絶たれる事もなく、人々の生活の支えになっている。しかし、雨とはただ土地に恵みを与えるだけではない。人々の心をも洗い流し潤いを与えてくれる。それが無くなってからは少しづつ、未だフィレナレインが存在し続ける風と水の両国を妬む様になっていった。


 それが形となって現れたのは今から五年ほど前の事だ。火の国は水の国に攻め入り、土の国は風の国へと進軍を始め、四国は激しく衝突を繰り返す様になる。それ以降四国は今もなお、フィレナレインの所有権を巡って不毛な争いを続けていた。


 ☆ ☆ ☆


 フィレナレインが存在する二国のうちの一つ。風の国の国境付近の砦がにわかに騒がしくなっていた。篝火が砦内のあちこちで火の粉を上げ、重装鎧、軽装鎧を着た者達がオレンジ色の光を反射させている。この砦に集められた人員は総数約一万五千。その数から見ても、明らかに平時ではない事が分かる。

 その砦から少し離れた森の中を、一人の兵士が駆けていた。鋭気に富んだこの若者は、貰ったばかりの新品の鎧が木の枝によって傷付こうとも、根に躓いて派手に転がっても、まるで何かに取り憑かれでもしたかの様に一心不乱に駆けていく。彼が砦に辿り着く頃には、アンダーシャツは破れ、露出した肌には赤い筋が幾つも付いていて、まるで何かと戦った後の様に満身創痍の状態だった。

 砦に着いた事を知った彼は肩で大きく息を繰り返しながら、一瞬安堵の表情を見せたがすぐに引き締めた。そして数ある天幕の中でも一番大きな天幕へと駆け込む。

 砦で最も大きな天幕には、頑丈そうな長テーブルと、鎧を着用したままでも座れる様になっている椅子が置かれている。テーブルの上には砦周辺の地図が置かれており、特注の鎧を着込んだ小太りの男が険しい顔で地図を見ていた。駆け込んだ兵士はその小太りの男に向かってこの国の敬礼をする。

「報告します! 北方より進軍して来る火の国の軍を確認。街道沿いを真っ直ぐこちらに向かっているとの事。距離は四千メートル。総数約二万!」

「報告ご苦労。十分に休養を取っておけ。戻って来た偵察隊にもそう伝えよ」

 たった数秒のやりとり。だが、非常に重要なやりとりだ。馬は森の中を走れない。街道を進んで敵軍の斥候部隊と出くわしたならアウトだ。だから彼は満身創痍になりながらも森の中を走り続けてきたのだ。

「はっ!」

 兵士は再び敬礼をし、天幕から走り出ていく。静かになった天幕内で小太りの男はため息を漏らした。

「兵力差は五千か……」

 小太りの男は呟き、そのまま後ろに倒れる様に椅子に腰掛けると同時に椅子が悲鳴を上げた。近代兵器が無いこの世界では、戦において力は数だ。その五千の差で味方が全滅する事も十分あり得る事態になる。それを回避する為に戦略や戦術といった兵法があるのだが、それをあっさりと覆せる存在がこの世界には居た。

「どう思いますかな勇者殿」

 小太りの男が天幕の片隅に向かって視線を送ると、その人物は閉じていた目をゆっくりと開いていく。


 勇者とは、この世界で唯一『魔法を使う事の出来る存在』だ。その力は正に一騎当千。故に、戦時に於いては必ず戦線に投入される。四つの国にはそれぞれ一人の勇者が存在し、その力の差は全く無く、本気で戦っても相討ちが関の山。それは当の本人達も理解していて、自身の死は国の崩壊を招く事から現在では一定の戦闘の後に手を引くのが慣例となっている。


 勇者と呼ばれたその人物は、金色のロングヘアだけではなく、胸部の鎧の膨らみからも女性である事が分かる。全体の線は細く、無駄な贅肉も筋肉も付いていない。整った顔立ちとピンッと先が尖った耳はエルフと見紛う程。それこそが勇者の証とされていた。

「砦を挟んだ戦だ五千くらいなら問題無いだろう。しかし……」

 言葉を詰まらせた勇者に、小太りの男が頷いた。

「そうですな。火の勇者が何処に居るのかが問題となりましょう」

 報告にはそれが含まれていなかった事から、偵察隊にも所在が分からぬのだろうと小太りの男は思っていた。

「ですが、恐らくは前線には居らぬでしょうな」

「そうだな。居たらお前達は我等を最前線に押し出すだろう」

「それは……」

 勇者の物言いに言葉を詰まらせる小太りの男。場が何ともいえぬ空気に満たされる。

「すまない、悪い冗談だ。忘れてくれ」

 勇者からの謝罪の言葉でも、発生した場の空気は変わらなかった。居た堪れなくなった勇者は席から立ち上がる。

「では、私は後方の部隊を襲撃に向かう。それで宜しいかな司令官殿」

「はい。こちらは何とか持ち堪えますので、そちらを宜しくお願い致します」

 椅子から立ち上がり頭を下げる司令官に、風の勇者は何の返答もせずに天幕から出て行った。


 表に出ると、天幕によって遮断されていた喧騒がより顕著になる。新兵に怒号が飛び、槌が打たれる音と共に火花が舞う。様々な音が交錯して、顔を僅かに歪める程の五月蝿い音と化していた。

「あ、勇者様……」

 誰かが発したその言葉に、近場の音が唐突に無くなる。戦の準備をしていた誰もがその手を止め、伝令途中の新兵も食事を給仕している者達も、果ては槌を振り上げた鍛治師までもが、風の勇者を凝視していた。

 湿り気を帯びた風が勇者の金色の髪をフワリと弄ぶと、彼女を見た事が無い兵士達から感嘆のため息が漏れ出る。

「勇者様……」

「勇者様だ……」

「あのお方が? お美しい……」

「おいっ、そこの新兵共っ! 勇者様が出陣なさるんだ、とっとと道を開けろっ!」

 惚ける兵士達に中堅兵士からの叱咤が飛ぶ。

「し、失礼致しました勇者様っ!」

「ご武運を!」

 兵達からの声援に笑顔で応える風の勇者。だが、その表情の奥は決して笑顔ではなかった。


 皆の視線と期待を背中に受け、風の勇者は森の入り口へと足を進める。途中、着ている鎧に何かが打ち付けられる音に、彼女は足を止めて空を見上げた。

「雨……フィレナレインか」

 雲の合間。月光の下でクルクルと周り、ダンスを踊るか様に舞う巨大な鯨。この国に恵みを齎している存在と同時に、他国の侵略を招いている存在。

(アレが居る所為で私は……)

 空を見上げたままギリリと奥歯を噛み締める風の勇者。忌々しく思う一方で、彼らが居なくなったらと思うとそら恐ろしくなる。今はまだ地下水が湧き出ている状態だが、雨が無くなればそれもやがて涸れてしまうだろう。そうなれば生茂る木々は枯れ果てて砂漠と化し、この世界に住む生きとし生けるものは営みを続けられなくなる。

「私はどうしたらいい? どうすればいいんだ? 教えてくれ、フィレナレイン」

 小さく呟いた風の勇者に応える事なく、フィレナレインは遥か上空でクルクルと回り続けていた。


 ☆ ☆ ☆


 深い森の中を風の勇者が駆けていく。時には木の枝を足場に。またある時は生える木々を避けながら。その速度は、整備された道を駆けるのと変わらない。彼等勇者にはエルフ並みの超感覚と暗視能力が備わっており、星月の無い漆黒の闇でも見通す事が出来る。彼女は森の中を突き進んで火の国の軍の後方部隊を叩き、後に本隊との挟撃をする作戦を考えていた。しかし、森を抜けると同時にその考えも何処かへと吹き飛んだ。

 彼女の眼前に広がるのは抉れた地面に焼け爛れた木々。辛うじて残っている木片から、それがついさっきまで荷馬車であった事が分かる。その周りには焼け焦げた人型の何かが相当数倒れており、身体から立ち昇る白い煙から咽返るような臭気が放たれていた。

「これは、火の国の補給部隊か……?」

「ご名答。流石は風の国の勇者アイレ=パラム=ヴェント殿だ」

 未だ白煙を上げる者達の向こう側から姿を現した一人の男性。白髪で短髪。整った顔立ちに引き締まったその身体には、無駄な筋肉は一切付いていない。アイレと同じ様な軽装鎧を身に纏い、その胸には燃え盛る炎に剣を突き立てた紋様が描かれていた。それを見てアイレと呼ばれた風の勇者は腰を落として剣に手を掛ける。

「お前は、火の国の勇者フォティア=ヴュール=バーンッ! まさか、これはお前の仕業か?!」

「その通り」

 一触即発の状態にもかかわらず、フォティアと呼ばれた火の勇者は腰に差した剣に手すらも掛けずに無防備なままでアイレに近付く。

「一体どういうつもりだ? コイツ等はお前の仲間だろう?」

「確かに仲間ではあったが、君に狙われた時点で生き残れる者は居ない。遅かれ早かれってやつさ」

 勇者同士の戦いは苛烈で強力だ。近場に一般兵が居て助かるレベルではない。仮にその場から逃げられたとしても、戦闘をしながら殲滅するだけだ。つまりはフォティアが言った通り、狙われた時点で彼等の運命は決していた。

「だからといってお前が手を下す事もないだろう? そんなのは私に任せればいいんだ」

 鞘に収めてある聖剣に手をかけ、アイレは腰を低く落として臨戦態勢を取る。火の勇者であるフォティアもアイレと同様に腰を落とす。

 居合抜きの型で見つめ合う二人の勇者。その場に何者かが居たのなら息苦しさを感じた。それくらいに二人の闘気が周囲に満ちる。刹那、足に込めた魔力を解き放ち、二人同時に地を蹴った。

 背後に土煙を発生させ、二人の勇者の距離が一気に縮まっていく。誰しもが苛烈な戦闘が始まると思った事だろう。だが、二つの影は一つに重なり合い、遅れて剣が納められたままの鞘が二本。地面に落ちる。

「会いたかった」

「そりゃ奇遇だな。実はオレもさ」

 熱い抱擁から流れる様に口づけを交わす。同時に、森の木々の間を縫って大勢の雄叫びが耳に届いた。

「……始まったな」

 不意に中断された口づけに、アイレは物足りなさそうな視線をフォティアに向けた。

「ねぇ、フォティ。あまり無茶な事はしないで」

「ん? オレ的には無茶をした覚えはないけどな」

「味方に手をかけるって無茶以外の何者でもないわ。あなたが殺したとバレたらどんな仕打ちを受ける事か……」

「戦に勝つ為にはオレ達が必要不可欠だ。多少の事なら無視されるさ」

 一般兵なら反逆罪で死罪だ。だが彼等勇者は戦に必須な存在であり、勇者を欠いての勝利はあり得ない。

「それでも、余計な事はしないに限るでしょ? 私嫌よ、あなたと会えなくなるなんて」

 アイレは腰に回した腕に力を込める。顔を上げると真っ直ぐに自分を見下ろすフォティアの視線とかち合った。唇と唇。その距離がゆっくりと縮まっていく。しかし、それがゼロになる事は無かった。不意に感じた人の気配。焼け焦げた骸が転がるこの地獄と遜色ない場所であり得ない事だ。

「誰だっ!」

 フォティアの誰何に木々の影から姿を現した一人の女性。茶髪でボブカットから覗くエルフと見紛う耳。スレンダーな身体を包み込んだ軽装鎧には、岩の上に剣と槍がクロスしている意匠が施されている。

「オマエは、土の勇者ティエラ=ソル=アールデっ!」

「まさか、火の国の勇者と風の国の勇者がそんな関係だったとはねぇ」

 ティエラに言われてアイレは慌ててフォティアから離れる。

「何故ここに居る!?」

「あれぇ、聞いてないんですかぁ? 共闘を持ち掛けて来たのはそちらの王様じゃないですかぁ」

「共闘……だと?」

「そうですよぉ。一言ご挨拶を、と思ってわざわざ来たんですが、良い土産話が出来ましたねぇ」

「貴様っ!」

 フォティアは一歩を踏み出して剣の柄に手を伸ばす。しかし、その手が空を切り小さく舌打ちをする。

「おおっとぉ、怖いですねぇ。ボク達は仲間なんですから、無駄な争いは避けましょうよぉ」

「フォティ、コイツ倒そう。二人がかりなら殺せる」

 一対一では相打ちでも一対二ならば勝ち目は十分にある。アイレはそう思っていた。自身も危険な立場にいるにもかかわらず、ティエラは口角を吊り上げた。

「そんな事をしている暇がありますかねぇ。ここにはボクだけが呼ばれたと思っているんですかぁ?」

「どういう事?!」

「今頃は土の国の軍一万五千が戦線に加わっている筈ですよぉ」

「一万五千っ!?」

 両軍合わせて三万五千。自軍の二倍に膨れ上がった敵戦力に、砦があるとはいえ歯が立たないのは明らかだ。勇者の相手をしている間に砦が陥落すれば、勝利した敵軍がそのまま王都になだれ込む。そうなれば、フィレナレインは敵の手に落ちたも同然だ。

「どうして……どうしてアンタ達はそうまでしてフィレナレインを欲しがるの!?」

「そんなの、外の世界へ行く為に決まっているじゃないですかぁ」

「外の世界って……まさか、幸福で満ちているって噂話を信じるつもりなの?!」

 この世界を取り巻く霧の外側には別の世界が在る。いつの頃からかそんな噂が流布し始めた。それを突き止める為に各国が船を出して調査に当たったのだが、その船が戻って来た事は一度として無い。

 その事から、霧の向こうには滝があり、皆落ちて死んでいる。と、説く者と、外は幸福に満ちていて誰一人として帰って来たがらない。という、二つの噂が流れる様になり、支持率は圧倒的に後者が高い。

「何です? 幸福な世界って」

 プッと吹き出すティエラ。

「そんな場所なんかある訳ないじゃないですかぁ。風の勇者は何も知らないんですねぇ」

 ティエラの口からププププ。と、人を小馬鹿にした笑いが漏れ出る。

「いいですかぁ、外の世界はここよりも遥かに広く大きい。そこには様々なお宝が眠っているんですよぉ」

「バカなっ! そんな話は空想にしか過ぎないっ!」

 吠えるアイレにティエラは人差し指を立てて左右に振る。

「空想なんかじゃないんですぅ。火の国でそれは古い文献が見つかりましてねぇ、そこに書かれていたんですよぉ」

「そんな事がある訳ないっ! オマエの空言に惑わされるものかっ!」

「……本当だ」

「フォティ?!」

「アイツの言っている事は全部本当なんだアイレ」

「う、嘘。嘘よそんなの……」

「本当だ。その文献から分かった事は、オレ達がここに閉じ込められて数千年が経過しているという事と、外の世界へ出る方法だ」

「外の世界へ……?」

「そうだ。そしてその方法とは、フィレナレインの抹殺だ」

「何ですって!?」

 愛する者から告げられた衝撃の言葉に、アイレは動揺を隠すことなど出来なかった。

「そ、それじゃあ、十二年前の消失は……」

「それはコイツがやったんだ」

「この人が渋ったからねぇ、ボクにその役が回ってきたのさぁ」

「そ、んな……」

「いやぁ、中々に戦い甲斐があったよぉ。訓練ばっかで実戦なんか久し振りだったから、危うく殺される所だったぁ」

 そのまま殺されていれば良かったのに。その思いがアイレの頭を浮かんで消えた。

「ともかく、フィレナレインはあと二カ所。それを抹殺すれば外の世界への門戸が開かれる。だから、協力してくんないかなぁ? そうすれば今見た事も黙っててあげるし、これからもずっと一緒で居られるよぉ?」

 愛する者と一緒に居られる事はこの上ない幸せだ。ましてや、敵対している国の戦闘における重要なポストに就いている以上、気軽に会いに行く事も出来ずにいたアイレにとってその提案は非常に魅力的だった。

「その申し出、断るわ」

「ふーん。どうしてか聞いても?」

「もし文献とやらの通りに私達がここへ閉じ込められたのだとしたら、それは外の世界で何かがあったという事。その原因が解明出来ない以上、迂闊に外に出るべきではないわ」

「なぁんだ。アンタも風と水の考えと同じかぁ」

「同じ……?」

「そうだよぉ。五年間、いくら説いても言う事を聞かなくてねぇ、だから戦争を始めたんだよぉ」

「バカなっ! そんなくだらない事でっ?!」

「くだらなくは無いでしょぉ? ヒトはね、もっと広い場所で暮らすべきなんだ。こんな箱庭なんかじゃなく、ねぇ?」

「それをくだらないと言っているんだ。どうしてここで満足しない。どうしてそんな欲の為にフィレナレインが死ななければならないんだ」

「それがヒトだからだよぉ。外に世界がある。そして出る方法を知ったヒトの好奇心はもう誰にも止める事なんて出来ないよぉ」

「アイレ。お前は前線に戻れ」

「えっ!?」

 自身とアイレの剣を拾い上げ、真っ直ぐにティエラを見据えたままで剣の柄をアイレに向けるフォティア。それをアイレは面食らいながらも受け取る。

「ダメよ、こんなの野放しにはしておけない。それにあなた一人では──」

「それはダメだ」

「どうして!?」

「二人で相手をしていては砦が陥ちる。お前は国を民をそしてフィレナレインを守るんだ」

「あなたはどうするの?!」

「オレはコイツを抑えておく」

「へぇぇ……裏切る気ですかぁ?」

「ああ。悪いがオレはお前さん達の様な楽観主義者じゃないんでね。フィレナレインは殺させない。お前達を外の世界に出す訳にはいかないのさ」

 フォティアは聖剣をスラリと抜き放ち、その切っ先をティエラへと向ける。

「行けっ、アイレ!」

「でも……でもっ!」

「急がないと手遅れになるぞ!」

「~~っ! 分かった。直ぐに片付けて戻って来る! だからそれまで持ち堪えて!」

「ああ、任せておけ」

 そう応えたフォティアの笑顔を信じ、アイレは砦へと駆け出す。それをアッサリ見送ったティエラにフォティアは内心驚きを禁じ得なかった。

「あれぇ? 行かせちゃって大丈夫ぅ?」

「お前を抑えるくらいオレ一人で十分だ」

「ふーん……だけど、行かせた事を後悔しないようにねぇ」

「それじゃ始めようか。土の勇者ティアラ=ソル=アールデ」

「いいよぉ。ちょっとだけ遊んであげる。火の勇者フォティア=ヴュール=バーン」

 ティエラも剣を抜き放ってフォティアに切っ先を向ける。そして、二人同時に地を蹴った。


 ☆ ☆ ☆


 アイレが森を抜けると、砦に大挙として押し寄せる人の波が見えた。フォティアの言った通りに砦は陥落寸前。そう判断したアイレは身の内にある魔力を高める。

「世界に満ちる元素たる風よ。我が身我が剣に集いてその力を示せ。触れるもの皆を切り刻む竜巻となりて我の前に顕現せよ!」

 敵軍の後方に巨大な竜巻が突如として現れる。その竜巻はゆっくりと前方へと進み、進路上のみならず周囲の者達も巻き込んで空高く舞上げ、或いは切り刻んでいく。その圧倒的なまでの力を目の当たりにした者達は畏怖の念を抱き、あるいは感極まって声を上げる。勇者が戦線に参加した。それだけでも敵軍の統率は乱れ、味方の士気は上がる。勝利の天秤は今や風の国へと傾きかけていた。

 しかしアイレが二つ目の竜巻を作り出した所で天秤の動きも止まる。敵軍の更に後方の森での謎の大爆発。それにより、竜巻を操っていたアイレの動きも止まる。その爆発は誰が引き起こしたのか? アイレはすぐに理解した。

「フォティ!?」

 フォティアの安否を気にするあまり、繋がりの切れたアイレの術が霧散する。敵の司令官もバカではない。それを好機と見て弓隊に一斉攻撃を命じる。一定の高さに打ち上げられ、僅かながらも重力を利用した遠距離攻撃。雲ひとつ無い青空に浮かんだ幾百もの黒い筋がアイレの視界を覆う。魔術で防ごうにも詠唱の時間すらもなく、逃げようにも広範囲に降り注ぐ矢の雨からは到底逃げられるものではない。

「あ……」

 ゆっくりとしかし確実に迫り来る矢の雨にアイレは自身の死を悟り、愛する者の顔を浮かべていた。

(フォティ、約束を守れなくてごめんね)

 謝罪の言葉と同時に、黒い影がアイレに強い衝撃を与えた。


 暗く深い闇の中で死の訪れを感じていたアイレ。それを否定するかの様にポタリ、ポタリと生温かい滴が頬を打つ。ソッと目を開けると、重装鎧を身に纏った一人の男の視線とかち合った。

「無事ですかい? 勇者様」

「あ、あなたは」

 その男とは、砦で新兵に怒号を発していた中堅の兵士。勇者の帰還と共に前線に出ていた彼はアイレの異常を察知して駆け出し、矢が降り注ぐ寸前に彼女を押し倒して覆い被さった。いくら重装鎧を着ていても全ての矢を弾く事など出来ない。関節部などの露出している部分は元より、幾つかの矢が装甲を抜けて彼の背に突き刺さっていた。

「どうしてこんな事を……」

「どうしてって、そりゃぁ勇者様が居なくなってはフィレナレインを護れやせんから。だから勇者様、アイツ等には絶対ぜってぇ負けねぇで下さいよ」

 中堅の兵士が崩れ落ちる。アイレはその身体を受け止め、すでに事切れている中堅兵士の耳に決意と感謝の言葉を呟いた。

 勇者が健在だと知った敵軍司令官は、弓隊に再度攻撃を命じる。しかし、決意を新たにしたアイレにはもはやスキなどない。己の内にある魔力を高めて術を唱える。

「世界に満ちる元素たる風よ。我が身に纏いて我を護れ」

 再びアイレを襲う幾百の矢の雨。しかし自身に纏わせた風の力によって尽く逸れていく。もはや遠距離攻撃が通用しないと悟った敵司令官は、今度は接近戦で倒そうと戦力を集めた。『勇者さえ倒してしまえばどうとでもなる』その考えに囚われた敵司令官は、後に後悔する事になる。

「世界に満ちる元素たる風よ。剣に集いてその力を示せ。我に仇なす者達を不可視の刃で切り刻め!」

 術を唱え終えたアイレは片足を軸にして一回転する。腰の上あたりに不可視の刃が形成され、アイレを中心にしてそれが放たれる。殺到した兵士達はもれなく自身の下半身との別れを告げ、拭き上げた赤い液体が霧となって戦場を漂った。

 ゆっくりと立ち上がり、次にこうなるのはお前達だ。と、鋭い眼光を放つ。それでこの戦の勝敗は決した。

 恐怖は瞬く間に戦場全体へと広がり、支配された者達は蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。そうなってはもう士気も何もなく、従うべき司令官をも置き去りにして、我先にと駆けていく。

 日が山の稜線に近付く頃には火の国と土の国の連合軍は完全撤退し、戦いは風の国の勝利で幕を閉じた。


 地には無数の骸が転がり、数多の赤い泉が夕日の光を反射していた。咽返る様な臭気が漂う中、生き残った者達は勝利の咆哮を上げている。アイレによって窮地を救われた砦の兵士達は門戸を開けてアイレを迎え入れようとするが、アイレは砦には戻らずに森へと駆け出した。

 アイレの胸中は愛する者への想いで満たされていた。あの大爆発以降、派手な戦闘音は一切聞こえていない。それがアイレをたまらなく不安にさせた。

(お願い、無事でいて……)

 一心に願い、森を駆けるアイレ。爆心地に辿り着くと同時に、その願いも真っ白な海に沈んだ。

「フォティ……ア?」

 爆心地の巨大なクレーター。その底で横たわる愛しき者の無残な姿。歯はガチガチと音を立て、身体も小刻みに震えている。足には重りが付けられた様に地を引きずり、その跡を大地に刻む。

 フォティアの側で力を失ったかの様にガクリと膝を落としたアイレは、瞬きすらも忘れたその目から涙を零しながら震える手をフォティアの頬に触れ、抱き寄せる。

「フォティが言った通り、私は約束を守ったよ。何で、何であんたは……」

 ポタリ、ポタリとフォティアに降り注ぐ大粒の雫。同時に周囲にも同等の雫が落ち始め、それは瞬く間に大雨となり平原に点在する赤い泉を薄め、アイレの嗚咽を打ち消していく。

 天に向かって悲痛の叫びを上げたアイレの視線の先には、仲良く寄り添う様に二頭の鯨が舞っていた。

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異世界のクジラは雨を降らす。 ネコヅキ @nekoha

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